第26話:因縁の再会と素顔の戦慄
【平穏と緊迫】
光の奔流が収束し、演算室に再び重苦しい静寂が戻る。 カイの放った不確定性パッチによって、空間を支配していた「Fatal Error」の紅い壁は霧散していた。崩壊の危機を孕みながらも、そこには一瞬、均衡が保たれた奇妙な凪が訪れていた。
「……ハァ、ハァ……。ヴァルター、これで……終わりよ。あなたの計算は、止まった」
カイは白銀の髪を乱しながら、『EXE-Cutor』の銃身を下げた。 対峙するヴァルターは、膝を突くこともなく、ただ静かに立っていた。背後のモニター群が明滅し、かつて両親と共に研究していた『ア astral Noah』の断片的な図面を映し出す。
「……見事です、カイ。君の両親も、その理論の果てに私と同じ光景を見ていた。……この不条理な世界を、数理によって完璧に調律し、苦痛なき楽園へと再定義する。……それが我々『エンジニア』が抱いた共通の祈りだった」
ヴァルターの声に、先ほどまでの刺すような冷徹さはなかった。 その言葉は、カイが心の奥底で大切に守ってきた「両親への誇り」と不思議なほどに共鳴する。 かつて父が語っていた、科学による世界の救済。その高潔な理想を、目の前の男もまた共有していたのではないか。 カイの中に、消し去れない「親の同志」としての微かな信頼と、理解への渇望が芽生え始めた。
【素顔の開示】
「……祈り? だったら、どうしてこんな……」
カイが一歩、踏み出そうとした時だった。 激闘による過負荷に耐えかねたのか、ヴァルターのバイザーから火花が散った。 パキィン……と、硝子が砕けるような鋭い音が静寂を割る。
衝撃の余波か、あるいはシステムのエラーか。 顔の上半分を覆っていた無機質な機械仕掛けのマスクが、その役目を終えるようにゆっくりと剥がれ落ちた。 モニターの青白い光と、カイが纏うシアンの残光が、その男の「素顔」を露わにする。
そこにあったのは、端正な、しかしあまりにも人間味を欠いた男の顔だった。 高い鼻梁、薄い唇。そして何より、深淵のように暗い双眸。 それは美しく整えられているが、どこか一つの部品を抜き忘れた時計のように、決定的な「欠落」を感じさせる冷たさを湛えていた。
【戦慄の合致】
(……あ)
その顔を見た瞬間、カイの呼吸が止まった。 視界が急激に歪み、現在の演算室の壁が、ひび割れた冷たいコンクリートの質感へと変貌していく。 鼻を突く消毒液の匂い。肌を刺す地下研究所の湿った冷気。
(――嫌。思い出さないで。見たくない、見たくない……!)
脳底に沈殿していた泥のような記憶が、濁流となってせり上がってくる。 目の前の「賢者」の面影が、記憶の中の「狂人」とオーバーラップする。
十年前の、あの冷たい研究室の片隅。 そこには、幼い自分を「娘」とも「人間」とも思わず、ただ「ノイズ」として邪険に扱っていたあの男がいた。 何かに取り憑かれたように虚空を見つめ、爪を噛みながら、人間には理解し得ない非道な数式を独り言で呟き続けていた、あの男。
「……カイ、どうしたの? 震えてる……」
リサの心配そうな声も届かない。 今のカイにとって、目の前のヴァルターの背後には、あの陰惨な研究所の影が巨大な魔物のようにそびえ立っていた。 自分を物として扱い、その瞳に一欠片の情愛も宿さなかった、恐怖の根源。 尊敬していた両親の「同志」などではなかった。この男は、自分の魂を最初に傷つけた「怪物」そのものだったのだ。
胃の奥からこみ上げる吐き気と、喉を締め付けるような渇き。 カイは指先が痙攣し、『EXE-Cutor』を握っていることすら困難なほどの戦慄に支配された。
【拒絶と断絶】
カイの異様な反応を、ヴァルターは静かに、どこまでも静かに見つめていた。 彼女の瞳に宿る色が、「闘志」から「根源的な恐怖」へと変質したことに、彼は即座に気づいた。
「……思い出しましたか、カイ」
ヴァルターが唇の端を僅かに歪めた。 それは微笑みなどではない。獲物を追い詰めた猟師が見せる、嗜虐的で、かつ純粋な好奇心。
「君というバグ(欠陥品)を、私がどのように定義し、どのように排除しようとしていたか。……君の両親は、君を愛という名で包み隠したが、私は知っていた。君こそが、私の計算を狂わせる唯一の汚点だったということを」
ヴァルターの瞳の奥に、かつての研究室で見せていた、人を寄せ付けない圧倒的な「狂気」が再び宿る。 理知的な仮面は完全に剥がれ落ち、そこには科学の深淵に取り憑かれた一人の男の、埋めようのない欠落が曝け出されていた。
カイは後ずさり、首を振った。 信じていた「誇り」が、最悪の「トラウマ」へと反転していく。 二人の間に横たわるのは、勝利も敗北も超えた、絶対的な断絶。
「……あ、あ……あ……」
カイの口から、掠れた悲鳴が漏れる。 その瞳は、もはや最強の管理者のものではない。 暗い研究所の隅で、冷たい男の視線に怯え続けていた、十年前の「小さな少女」のそれに戻っていた。
静寂の中、ヴァルターの冷徹な笑い声だけが、深淵に響き渡った。




