第24話:理(ことわり)の残響、深淵への回廊
『不変の柩』の深部へと続く回廊に足を踏み入れた瞬間、カイは激しい眩暈に襲われた。 視界が歪んでいる。本来、不動の石材で造られているはずの壁面には、無数の数式が蠢く爬虫類のようにのたうち回り、遠近感を狂わせていく。
「な、何これ……! まっすぐ歩いてるはずなのに、景色がちっとも変わらないわよぉ!」
隣を歩くリサの声に、焦燥が混じる。 カイがデバッガーとしての視覚を鋭く研ぎ澄ますと、そこにある異常が浮き彫りになった。
「……空間そのもののレンダリングが、リアルタイムで組み換えられてるんだわ。世界が、パズルみたいにバラバラに……」
前進しようとするたびに、床のタイルが音もなくスライドし、彼女たちを無限のループへと引き戻す。物理法則がヴァルターの思考一つで書き換えられる、数理の迷宮。
その中心に、それは現れた。
パチパチとデジタルなノイズを撒き散らしながら、一人の男のシルエットが空中に浮かび上がる。 半透明のアバター。顔の上半分を覆うバイザーが、標本を値踏みするように彼女たちを射抜いた。ヴァルターの投影体だ。
『――無意味な運動エネルギーの消費です。この回廊は、私の思考そのもの。君たちの「歩む」という概念すら、私の定義一つで無効化される』
感情の起伏を完全に剥ぎ取られた、冷徹な合成音声。 アバターは音もなくカイの至近距離まで滑り、その実体のない指先を彼女の頬に近づけた。
「ヴァルター……っ! あなたはパパとママの仲間だったんでしょ!? 一緒に世界を良くしようとしてたはずじゃない!」
『仲間、ですか。……その言葉に含まれる低俗な「情」こそが、彼らの限界だった』
アバターのバイザーが不気味に明滅する。
『エヴァハーネル夫妻は、この聖域を単なる子供の「遊び場」にしようとした。矮小な家族愛のために、宇宙の真理を矮小化したのだ。彼らは、見るべきものを見ようとしなかった。私はここに、混沌とした現実を統べる唯一のロゴスを見出した。……君という存在も、彼らが遺した「未完成の計算ミス」に過ぎない』
カイは息を呑んだ。 恐怖ではない。胃の奥からせり上がるような、強烈な生理的拒絶感。 アバターの視線に晒されるたび、カイの肌は粟立ち、脳の奥底で封印されていた記憶が疼いた。 (……この感じ、知っている) ずっと昔、自分がまだ一人の人間ではなく、ただの「実験体」として定義されていた頃。 この冷たく、全てを「物」として扱う視線に、自分は四六時中晒されていたのだという確信。 カイは、目の前の男が放つ徹底した合理主義に、吐き気を覚えるほどの嫌悪を感じていた。
「……下がって、リサお姉ちゃん。この人……言葉の形をした毒を吐いてるだけよ。一文字も理解したくないのに、私の脳が、勝手にこれを『正しい』と判定しようとして……っ!」
「カイ、思考を同期させなさい!」
絶望的な論理の侵食を断ち切ったのは、指揮官・リアの鋭い声だった。 彼女のシアンの瞳が、回廊を這う数式の羅列の中に、わずかな欠落――ヴァルターが「取るに足らない」と切り捨てた端数の誤差を見出す。
「彼の論理は完璧ですが、その傲慢さが『演算上の隙間』を生んでいます。私がこの迷宮の法則を一時的にバーストさせます。その隙に、アバターの座標を突き抜けなさい! ――プロトコル・バイパス、実行!」
リアのホログラムが爆発的な輝きを放った。 シアンの光の奔流が、幾何学的な迷宮を内側から食い破るように弾ける。パズル状の空間が音を立てて砕け、一瞬だけ真実の「出口」が姿を現した。
「今だ、走れぇぇ!!」
リサの叫びと共に、三人は歪んだ座標を全力で駆け抜けた。 実体のないアバターの身体を突き抜けた瞬間、ヴァルターの投影はノイズの霧となって霧散した。
辿り着いた突き当たり。 そこには、今までの魔法的な装飾を一切廃した、重厚で無機質な鋼鉄の門が聳えていた。 歴史の重みを感じさせる金属の冷たさと、そこに刻まれた最新の電子回路。 三人が足を止めたその時。
――スゥ……、ハァ……。
スピーカーを通した合成音声ではない。 重厚な扉の向こう側から、深く、静かに肺を満たす「生身の人間」の呼吸音が聞こえてきた。 冷たいデジタル世界に、突如として放り込まれた生々しい「生命」の重み。
「……中に、いる」
カイが震える手で『EXE-Cutor』を握り直す。 鋼鉄の門が、重々しい金属音を響かせながら、ゆっくりと、その口を開いた。
広大な暗闇が広がる演算室。 壁面を埋め尽くす巨大なモニター群だけが、世界の崩壊を告げる「Fatal Error」の紅い光で、室内を血のように染め上げている。 部屋の中央、高い背もたれの椅子に深く腰掛けた、一人の男。
黒いロングコート。顔の上半分を覆う、冷徹な機械仕掛けのバイザー。 そこにあるのは、先ほどのアバターのようなノイズではない。 周囲の気圧を一段階引き下げるほどの、圧倒的な「個」としての質量だった。
ヴァルターがゆっくりと、首を傾げる。 モニターの紅い光がバイザーに反射し、彼の表情を完全に遮断していた。
「……よく来ました。想定された誤差の範囲内ですが、その足掻きには、敬意を表しましょう」
男が立ち上がる。 その極めて静かな動作一つで、室内の空気がぴりりと緊張に張り詰めた。
「……さあ。最後のデバッグの時間だ。君たちが『心』と呼ぶそのバグを、私が根源から消去してあげよう」
カイの瞳に宿るシアンの光が、ヴァルターのバイザーと真っ向から衝突した。 もはや、回廊の幻影に惑わされることはない。 ここにあるのは、決着を待つ二つの「理」だけだった。




