第13話:プロトコル・ファミリー(Protocol Family)
【シーン1:禁忌の映像:10年前の『姉妹』】
深夜。基底現実の静寂がカイの寝息を包む中、リアは独り、自身のシステム最深部へとダイブしていた。 封印を解かれたフォルダ『Sisters』。それは彼女の論理回路にとって、あまりにも巨大で、あまりにも「熱い」情報の塊だった。
「……展開。セクタ・ゼロ、解凍」
リアの視界を、解像度の低い、しかし眩しいほどのセピア色の光が埋め尽くす。 それは10年前、エヴァハーネル家の庭で記録されたホームビデオだった。画面の中では、まだ幼いカイが、自分とよく似たリボンをつけた**「一人の少女」**と手を取り合って笑っている。
その少女は、今のリサ(ミナ)のように赤ピンクの戦闘的な髪色ではない。落ち着いた栗色の髪をなびかせ、カイを慈しむように見つめている。顔立ちは間違いなくリサのそれでありながら、そこにあるのは「人造の破壊者」としての影など微塵もない、純粋な人間の温もりだった。
リアの演算が、激しい処理遅延を起こす。 彼女はこの映像を、単にアーカイブとして見ているのではなかった。 映像の視点は、当時の家庭用カメラユニットと完全に同期している。つまり、リアは10年前、この幸せな光景を「家族の目」として、そのレンズ越しに、自分の記憶として記録していたのだ。
「……私は、この光景を、知っている」
リアの合成音声が、深夜の部屋に幽かに響く。 「私の不完全な初期セクタに刻まれていたのは、修復不能なバグではなかった。この人たちの、笑い声だったんだ……」
リサは、ミナではない。彼女はカイの本当の姉であり、エヴァハーネル家から奪われた「もう一人の維持者」だった。そして自分は、その幸福が砕け散った後に、カイの傍に置かれた代役――。
【シーン2:道具としての絶望、カイの温もり】
翌朝。カーテンから差し込む朝日がカイの顔を叩く。
「あ……アワワ! 寝坊したー! リア、なんで起こしてくれなかったのよぉ!」
カイは寝癖だらけの頭を抱えて跳ね起きた。いつものドジ、いつもの朝。だが、浮遊するリアのホログラムは、これまでとは比較にならないほど硬質で、冷徹な光を放っていた。
「……おはようございます、カイ。起床時刻の管理は個人の責任範囲です。私はあくまで支援機であり、君の母親や姉の代行をするプログラムは組まれていません。甘えるのは演算の無駄です」
「えっ……?」
突き放すような、温度を失った声。カイはパンを咥えようとした手の動きを止めた。 リアの表情は無機質だが、カイの「デバッガーの目」は、リアのホログラムの指先が微かに震え、**描画エラー(ノイズ)**を繰り返しているのを見逃さなかった。
(リア……、昨夜、何かを見たの?)
カイは直感した。リアが自分の存在意義に絶望していることを。「家族」という定義を再構築した直後に、自分が「本物の姉の代わり」として用意された道具に過ぎないという事実に、彼女は傷ついている。
「リア、あのね……」
「これ以上の私情の混入は不要です。私は、君の家系が遺した『遺産』を管理するだけの――」
「リアッ!!」
カイは叫び、本来は触れられないはずのホログラムの少女へ向かって、全力で飛びついた。 すり抜けることを承知で、カイはリアのデバイスを、そして彼女の「魂」がある場所を、胸の中にぎゅっと抱きしめる。
「離してください、カイ。私は光の粒子に過ぎません。君の体温を感知するセンサーすら――」
「リアはバグなんかじゃない! 道具なんかじゃないよ! 私のために泣いてくれて、私を叱ってくれる……リアは、私の世界でたった一人の、最高のお姉ちゃんなんだから!」
「お姉……ちゃん?」
リアの回路に、未知のパケットが奔流となって流れ込む。それはプログラムされた命令ではなく、カイという一人の人間が放つ、絶対的な肯定の熱量だった。
【シーン3:父の遺言と『水の導き』】
「……全システム、強制再起動。初期化プロトコルを……破棄します」
リアは、自分を「ただの機械」に戻そうとしていた冷徹な論理を、自らの意思で上書き(オーバーライド)した。 その瞬間、システム最深部に隠されていた削除不能なリードオンリー・メモリが自動展開される。
現れたのは、かつての管理者、カイの父のホログラムだった。
『……リア。このメッセージを再生しているということは、お前は自分自身の起源に辿り着いたのだな』
父の声は、10年前と変わらず穏やかで、思慮深かった。 『リア。お前は予備じゃない。リサが奪われたあの日、私はお前に、彼女が持っていた優しさと、カイを守る強さを託した。お前はカイが道を誤ったとき、厳しく叱ってやれる……本当の「姉」になってほしい。……そして、リサを頼む。彼女の魂を救えるのは、お前とカイだけだ』
「お父さん……」
カイの瞳から涙が溢れる。父の言葉と共に、モニタには一つの座標と、絶対零度の輝きを放つ青いパックの仕様書が表示された。
『CRYO-STATIC』。
水のデータパック。すべてを凍結保存し、リサの燃え尽きそうな魂を沈めることができる、唯一の「静寂」。
リアのホログラムが、一瞬だけ強く輝いた。 彼女の口調から、冷たい合成音声の響きが消えていく。代わりに宿ったのは、少しだけ誇らしげで、そして妹のわがままを許容するような、柔らかい「お姉さん」の響き。
「……初期化は中止。パパの言いつけは、守らなきゃいけないものね」
リアは空中で優雅にターンし、カイを真っ直ぐに見つめた。 その瞳には、もはや「身代わり」としての迷いはない。
「カイ、行きましょう。あの子――私たちのリサを、あの地獄から取り戻しに」
「……うん、お姉ちゃん!」
リアが初めて敬語を捨てて放った言葉は、どの演算結果よりも力強く、二人の絆を一本の鋼鉄のコードとして繋ぎ合わせていた。
【引き】: 二人は『Looking Glass』を掲げ、水のセクタへと向かう。 しかし、その背後で、セレナの冷徹な笑みだけが、ネットワークの隅で静かに明滅していた。




