第12話:ゴースト・イン・ザ・メモリ(Ghost in the Memory)
【シーン1:デバッガーの休息、演算の余白】
窓の外では、現実世界の静謐な夜が帳を下ろしていた。 『THERMAL-IGNITION』――本物の火のパックを回収してから数時間。カイは自室のソファで、完全に「抜け殻」と化していた。
「……はぁ。リサさん、今ごろ組織でまた痛い思いしてないかなぁ……」
手元には、ストレス解消用に買い込んだジャンクフードの山。カイはぼんやりとポテトチップスを口に運びながら、心ここにあらずといった様子でコーラのボトルを手に取った。 「アワワ……。リサさんを救うには、やっぱり組織のメインサーバに直接ハッキングするしかないのかな……あ、あれ?」
考えに耽るあまり、カイの空間認識能力が著しく低下する。彼女が口に運ぼうとしたストローは、唇を通り過ぎ、あろうことか鼻の穴へと吸い込まれそうになった。
「あわわっ!? 鼻に入っ……ゲホッ、ムハッ!?」
「カイ。現在の栄養摂取効率が0.8%低下しています。指摘するまでもありませんが、その呼吸器系の穴は飲料の吸入用ではありません。君の構造設計は、鼻からコーラを飲むようには最適化されていないはずです」
部屋の隅で浮遊していたホログラムの少女、リアが、無機質な合成音声で即座に論破する。ピンクのツインテールが、演算の余波で僅かに明滅していた。
「分かってるわよ! 今のは……その、鼻腔の粘膜からも水分を補給できるか、エリートとしてバイオ的なデバッグをしてただけよ!」
「嘘をつく際の心拍数の上昇率が、過去最高値を記録しました。非論理的な強がりは、リソースの無駄遣いです」
いつものやり取り。いつもの毒舌。 しかし、カイはストローを正しく口に咥え直すと、少しだけ真剣な瞳でリアを見上げた。
「ねぇ、リア。……リサさんを救うために、私は何をすればいいと思う?」
問いかけ。それは、ナビゲーターであるAIに求めるには、あまりに重い「倫理的判断」だった。 「……私はナビゲーターであり、君の判断をサポートするインターフェースです。善悪や救済といった、論理的根拠に欠ける倫理的判断を代行する機能は備えていません」
返答は、一見すれば機械的な模範回答だった。 しかし。 リアの言葉には、数ミリ秒の**「返答の遅延」**が発生していた。 それは、膨大な演算リソースを投じても「解」が出なかった、あるいは「出さないように制御した」証左でもあった。
【シーン2:蘇る「幽霊」】
「……カイ。先ほどの同調の影響か、私の内部システムに僅かなノイズを確認しました。一時的な自己診断に移行します」
リアのホログラムが、カイの部屋を不規則な軌道で浮遊し始める。 光の粒子がボクセル状に乱れ、彼女の姿がノイズに飲み込まれそうになった、その時。
――ザザッ。
「……え?」
カイは息を呑んだ。 一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、リアの姿が**「別の誰か」**と重なった。ピンクの髪ではない、もっと幼く、柔らかな輪郭を持った「人間の少女」の影。
リアの視界には、削除されたはずの最下層セクタから、情報の断片が奔流となって溢れ出していた。 それは1.0崩壊前――まだ世界が青く、穏やかだった頃の、幸福な記憶の残滓。
『カイ、こっちにおいで。パパとママが、新しいプログラムを見せてあげる』 『えーん、リアお姉ちゃん、転んじゃったよぉ……』
「……何、これ……。お父さんと、お母さんの、笑い声? それに、幼い頃のカイの……泣き顔?」
リアの声が、震えていた。 いつもなら完璧な合成音声として出力されるはずの彼女の喉が、物理的な肺も声帯もないはずの彼女のシステムが、一瞬だけ**「人間の少女のような震え」**を帯びる。
「……バグ? いいえ、これは私の初期構築コード……? カイ、私の中に……知らない私がいます。消去されたはずのログが、私に……『記憶』という名の摩擦熱を強要してくる……」
ホログラムの質感が、いつになく脆く、美しく揺れる。 それは論理の化身である彼女が、初めて直面した「理解不能な自分」への困惑だった。
【シーン3:「家族」の定義、そして不穏な影】
リアの不安を感じ取り、カイは思わずソファから立ち上がった。 彼女は、本来触れることのできないはずのホログラムの少女へ向かって、そっと手を伸ばす。
「リア……」
指先は光の粒子を通り抜ける。そこにあるのは熱でも質量でもなく、ただのデータの投影に過ぎない。 それでも、カイはリアの瞳――虹彩の奥で激しくログが走るその瞳を、真っ直ぐに見つめて告げた。
「リアはバグなんかじゃないよ。私の記憶がそこにあるなら、リアはパパとママが遺してくれた、最高の贈り物なんだ。……私と一緒にいてくれる、たった一人の家族だもん」
「……家族」
リアはその単語を、慈しむように反芻した。 「……家族。その単語の定義を……再構築します。それは……物理的な接触の有無に依存せず、同一のログを共有し、保護すべき最優先ノードを指す概念……」
リアのホログラムが、ゆっくりとカイに近づく。 すり抜けるはずの彼女の姿が、少しだけカイの肩に寄り添うように位置を変えた。光の粒子がカイの頬を掠め、一瞬だけ、不思議な温もりを感じさせた。
「……私も、君を最優先プロトコルとして登録しています。……カイ」
リアの声から、トゲのある「機械性」が僅かに消え、微かな感情の揺らぎが忍び込んだ。 二人の間に流れる、穏やかで切ない時間。
しかし。 平和な時間は、唐突なシステムアラートによって引き裂かれる。 部屋の隅に置かれた手鏡型デバイス――『Looking Glass』が、外部からの強引なアクセスを受け、激しく発光した。
――キィィィィィィィィン!!
耳障りな電子音と共に、鏡面が一瞬だけ「真っ赤な瞳」のような不気味な光を放つ。
「外部からの強制介入!? カイ、伏せて!」
リアが即座に防壁を展開し、強制アクセスを遮断する。 光が収まり、Looking Glass は沈黙を取り戻したが、リアのシステム深部では、この介入をきっかけに「あるフォルダ」の封印が解かれていた。
リアが自身の深層意識で見つけた、秘匿中の秘匿。 そこには、カイの両親が遺した、最後のメッセージが刻まれていた。
フォルダのラベル名は――『姉妹(Sisters)』。
リアの演算が、一瞬だけ停止する。 そのデータの先に隠された真実が、カイとリサ、そしてリア自身の運命を決定的に変えてしまうことを、彼女はまだ、カイには伝えられなかった。




