第二話 異世界にて
白い光が消えた。
茜は光が消えたのに、まだ明るさが続いていることに困惑し、何度も瞬きをする。
目が慣れてきて、やっと辺りを見渡した。
自分が立っていたのは、先程まで居た夜の庭ではなく、日中の森に囲まれた湖の畔だった。
「……は?」
全く状況が飲み込めない。
突然居場所が変わるなんてことが、現実に起こり得るのだろうか。
しかし今の茜には、近くにある湖の表面がキラキラと太陽の光を反射し、とても綺麗に輝いているということしか分からない。
何処を見ても、星来の家らしきものは見当たらなかった。
「あっ……!星来のスマホは!?」
ポケットの中身や地面の上も見てみるが、どこにも無い。
まさか湖の中に落としてしまったのではないかと思い、水面に駆け寄って覗く。
そこには何故か、真っ白の長い髪に、赤い瞳の自分が映っている。
電子機器らしきものは無かった。
「えっ……!?」
元々黒髪に黒目だったはずの茜は、顔はそのままに、色だけが完全に変わってしまっている。
星来のスマホのことなんてどうでも良くなり、潜在的に恐怖を感じた彼女は、星来の家に戻りたいと激しく思った。
「!?」
突然腕と太腿がざわざわと痒くなる。
途端にそこから白い狼の毛のようなものがワサワサと生えてきて、意識がそこに集中した。
「えっ……!?な、何これ!!やだ!取れないじゃん!」
誰かに助けを求めたくても、ここからでは木と湖しか見当たらない。
理由もわからずパニックになった茜は、なんとか生えてきた毛を引き抜こうと躍起になった。
「誰か……いるんですか?」
「!」
しばらく自分の獣毛と格闘していて、近くに人が来ていたことに全く気づいていなかった茜は、ビクッと身体を震わせながら、声のした方向を見る。
そこには中年くらいの茶髪の女性と、黒い口髭が特徴的な男性が、心配そうな、それでいて不安そうな表情で立っていた。
「あなた……魔獣……?」
「え?なんて……?」
《魔獣》と呼ばれた茜は、何も理解が追いつかないまま聞き返す。
「少し顔を見せて」
女の方が近寄ってきて、茜の顔をまじまじと見つめる。
そして、手を伸ばしたまま少しだけ悲しい顔をした。
「亡くなった娘に似てる」
「え?」
「そう思うでしょ?あなた」
男の方も同じように近づいてきて、白髪の少女の顔を観察するように見つめ、大きな溜息をついた。
「君、こんなところで何をしているんだい?もしかして迷子かな?」
「えーと……そ、そうっす……。はい……」
「ここは私たちの屋敷の敷地なんだ」
茜はドキッとした。
もしかしたら不法侵入で捕まるんじゃないかと思ったからだ。
「ごめんなさい!あたし!悪気とかなくて!いつの間にかここに――」
「いや、構わないよ。もし身寄りが無いならうちにおいで」
男はそれが当たり前のことだとでも言うように、自然な口ぶりでそう提案した。
「えっ……?」
「私はケント・カドウィック男爵。こちらは妻のアンナだ」
やたら外国人らしい名前を告げられる。
ケントもアンナも日本語がかなり流暢な為、よく考えると不思議なことだと茜は思った。
でも、もしかしたらこの国の公用語が日本語なのかもしれないと、一人で勝手に納得する。
茜は英語も他の言語も分からないし、この方が都合はいい。
「えっと、あたしは結海茜っす」
「アカネちゃんだね。あ、その身体の毛は隠した方がいいかもしれないね」
男はそう言って自分の外套を脱ぐと、茜の肩に優しく掛ける。
女の方は茜の身体が隠れたことにほっとしたようだった。
「聖女に見つかったら浄化されてしまうだろうからね」
「浄化!?よく分かんないけど、その聖女って人に会えたらこの身体治してくれるってこと!?」
夫婦は顔を見合わせて困ったような顔をした。
「いや……、浄化されるってことは、殺されるってことだよ」
「……は?」
衝撃的な言葉に固まってしまう。
思っていた以上に、自分の状況は最悪らしい。
理由は全く分からないが、今自分は魔獣とかいうものになっていて、突然知らないところに飛ばされてきた上に、聖女とかいう人に出会ったら殺されてしまうらしい。
あまりにも理不尽だ。
「……ここ、日本っすか?」
「ニホン?」
「あー、いや、国名教えて下さい」
夫人の方が少し困ったように笑いながら答える。
「ここはシュテルンバーク王国ですよ」
カドウィック男爵の大きな屋敷に到着した茜は、どうしてこんなことになってしまったのか考えようとしたが、自分の軽い脳みそだけでは考えが至らなかった。
とにかくここの親切な夫婦に保護してもらえたことは幸運だったろう。
大きなバスタブに浸かると、自分の腕や脚に生えてしまった白い獣の毛がより主張してくるようで嫌だった。
この毛はどうやら、元々暮らしていた日本のことを意識すると生えてくるらしい。
これ以上状況を悪化させたくなくて、茜は元いた場所のことを出来るだけ考えないように、今後どうするか計画を立てることにした。
「大丈夫?溺れてない?」
浴室の外から女性の声が聞こえてくる。男爵夫人のアンナだ。
普段は執事やメイドがいるということだったが、酷い風邪が流行ったらしく、全員一度帰省させている最中なのだと説明を受けている。
だからこうして夫人自ら茜を気にかけて、浴室まで来てくれたのだろう。
「問題無いです。ありがとうございます……」
茜は心配をかける訳にはいかないと立ち上がり、風呂から出る準備を始めた。
「えーと、アカネちゃんって言ったわよね」
「そうです」
「家の場所は分かるの?ご家族は……?」
「いや……」
言い淀んでいると、突然アンナが浴室の外で泣いている声が聞こえてきた。
急いで服を着た茜が扉を開けると、顔がぐしょぐしょに濡れた彼女が立っていて、何を言えばいいのか悩んでしまう。
「ごめんなさいね。あなたを見ていると、どうしても娘を思い出してしまって……」
「そ、そうっすか……。気にしないでください……。あたしで良ければ話くらい聞きますし……」
「ありがとう。もう大丈夫よ……。それより」
アンナは一旦区切って深呼吸する。
「ちょっと夫と相談したことがあるの。聞いてくれるかしら」
茜が頷くと、彼女は静かに客間へと少女を案内する。
客間には既に男爵のケントが座っていて、茜が来るのを待ち侘びていたように見えた。
「アカネちゃん。お家のことはやっぱり分からないのかい?」
「分からないそうよ」
茜が答える前にアンナが答える。
「それじゃあ、良かったら私たちの娘としてここに住まないかい?」
「えっ……」
「幸いにも、長袖の服にして、腿のところも隠せれば、毛が隠れて魔獣なんてことは周りに気づかれないと思うし、家のことが分からないのであれば、どうか私たちと一緒に過ごしてほしいと思ったんだよ」
突然のお願いに、茜は戸惑った。
自分には元の世界に愛する家族がいる。しかし、この国で頼れる人が存在しないのも確かだ。
「いや、その……完全に娘になるのは無理だけど、……あたしもこれからどうすればいいかすごく困ってるんで、良かったら居候させてくれたらありがたいとは思ってるんすけど……」
「もちろんだよ!ありがとうアカネちゃん!」
ケントは嬉しそうにニッコリと微笑む。
「それじゃあ、まずはアカネちゃんの素性がバレたらまずい相手のことを詳しく話しておかないといけないね」
仮の父親は、この世界のことを話し始めた。
一ヶ月前に現れたという聖女は、早々に魔獣退治の能力に目覚めたらしく、その能力向上と、今後国の有力者たちと渡り合えるようにする為に、貴族や王族たちが通う《カナチア学園》で勉学に励んでいるという。
最近では特にシュテルンバーク王子と懇意にしているようだが、他にも学園長を務める公爵の孫たちや、この国独自の宗教である《聖樹教》を支える伯爵家の一人息子ともかなり仲良くしており、全員から熱烈な求愛を受けているのだという。
茜はそこまでの話を聞いて軽く吐きそうな気分になる。
そんな甘ったるい生活を送っている女が、清純なイメージの《聖女》だなんて、信じられないと思ったし、自分が魔獣とやらだと勘付かれたら、そんな下品な女に殺されるかもしれないなんて、本当に勘弁してほしかった。
「聖女の名前は、セーラ・キヨサワだ。彼女には気をつけて――」
「ん?今なんて?」
あまりにも聞き覚えのある名前。
それをさらっと聞き流しそうになった。
「セーラ・キヨサワ。これが彼女の名前だ」
清沢星来。セーラ・キヨサワ。
自分が探している人と同じ名前の人物。
「……えっ、……星来がいなくなったのって一昨日とかの話だったし……、一ヶ月前……?まさかね……?」
「どうかしたのかい?」
「あ、いや、何でもないっす!」
何となくこの人たちに、自分と星来の関係性を言ってはいけないような、そんな勘が働いた。
本当にただの勘でしかないのだが。
茜は愛想笑いをしながら、そのセーラ・キヨサワが、本当に自分が探している清沢星来なのか、どうやって確かめるか、冴えない頭で考えていた。
「セーラ。随分悲しそうな顔をしているけど、どうしたの?」
金髪に碧眼の美しい男が、窓の外を眺めている少女――顎のラインで真っ直ぐに整えられた黒髪を持つ、茶色い瞳の静かな彼女に声を掛ける。
「少し前のことを考えていただけですよ」
「嫌だな。ここに僕がいるんだから、他のものなんて見ないで欲しいな」
男は誘惑するように彼女の指に、自身のそれを絡ませた。
「こんなことをしていていいのでしょうか。私、家族を置いて……」
「だから、何も考えないで」
彼は躊躇することなく、許可も得ずに少女の唇を奪う。
しばらくすると、少女の方も色々と深く考えるのが面倒になったのか、とろんとした表情で彼に身を任せ始めた。
「君は僕にとって誰よりも大切な人なんだから」
「アドリアン……」
アドリアン・シュテルンバーク王子は聖女を抱きしめながら、今日自分が強引に連れてきて森に放置しておいた少女が、これからどうやってこの親友に会いに来るのか、楽しみで仕方がないと、ゆっくり微笑んだ。
星来はその表情に気づくことが出来なかった。




