私、片付けは得意だから
秋の文芸展2025参加作品です。
ヒューマンドラマですが、少しホラー味(人間の闇系)があります。
あと、直接的な描写はありませんが、性的な状況を暗示する表現があります。苦手な方はご注意ください。
磨き上げた部屋を眺めて紅茶を飲むことが、私の達成感のしるしだ。
几帳面、潔癖と両親や兄弟から言われるが、夫は「部屋がきれいだと気持ちいい」と褒めてくれる。
夫はズボラなところもあるけれど、脱ぎ散らかしたり、出したものを片付けなかったりがない。だから常に清潔を保てる暮らしに大満足だった。
問題があるとすれば、最近レスなこと。
子どもは生みたい。
高齢出産も珍しくない今、32歳はまだ大丈夫と考えていたけれど、行為がないのはそれ以前の問題。
「そろそろ……子作り、どうかな? あまり遅いと年齢的に大変になるし、今のうちに……」
ついこの間、勇気をだして夫に打ち明けた。
すると夫は、「わかってる。僕も考えてないわけじゃない。最近は仕事が忙しいし、もう少し落ちついたらでいいんじゃないか?」と答えた。
――またそれ。いつ落ち着くの? 休みの日も疲れてるを言い訳にして何もしないし。
夫婦は話し合いが必要と言うけど、それは相手に聞く気がなければ意味がない。
夫は人の話を軽く流すのが大人だと思っているふしがある。これは結婚するまで気づかなかった。
それでもこのままではいけないと、子どもが生まれてからお金がどのくらいかかるかを調べ、生活をきりつめ、副業を始めることにした。
昼間は事務職。夜はラブホの清掃。
最寄りの駅から二つ手前の駅だから選んだ。
選んだのは単純に掃除が好きだから。ビジネスホテルのような内装なのも選んだ理由。
事後の片付けに抵抗を感じたのは最初の数日だけ。今は、綺麗に使ったな、散らかしっぱなしは育ちがわかるな、程度にしか思わない。
それでも限られた時間で、乱れた部屋を何もなかったかのように整えることは、達成感があったし快感にも思えた。
夜の清掃は基本的に2人で動く。ペアの栞里は口数は少ないが思慮深く、私にペースを合わせてくれるのでやりやすい。
他人の事後の処理、息を合わせての作業、そうしたいつもとは違う世界で過ごしているうちに、栞里とも何でも話せるようになっていった。
栞里は夫が今は求職中で酒浸りだと言った。
着替えの時、身体に青あざが見えたこともある。
それでも栞里はいつもは優しいからと平気な顔をしていた。
(どうにかなればいいのに……)
そんなある日。
清掃に入った部屋に携帯電話が置き忘れていた。
(あ、これコウちゃんの機種と同じ)
それからストラップを見て、心臓が嫌な音を立てた。夫が義姉からもらったと言っていたものと同じ、イルカのストラップ。
(え……?)
「すみませーん、部屋に携帯忘れちゃって」
部屋の外から、聞き慣れた男の声がした。私は咄嗟に栞里に携帯を押しつけ、バスルームに隠れる。
「ありがとうございます!」
すぐ近くで声がした。
声が遠ざかり、思わず部屋の外に出る。
信じたくなかったけれど、夫の後ろ姿に間違いない。
隣には女性。
――そっか。
もちろんショックだったけれど、それよりも腑に落ちた方が大きかった。
栞里が雰囲気で察したのか、遠慮がちに「ここは私がするから、次の部屋のシーツをはいでゴミをまとめておいてもらえる?」と話しかけてきた。
「大丈夫。見ておきたいから」
私は冷静に部屋を見回す。
ベッド脇に残された2組のスリッパ。
長い毛髪。丸めたティッシュがいっぱいのゴミ箱。使われた浴槽。長く滞在したことがそれだけでわかった。
「……洗面やってくれる? ベッドは私一人でできるから」
動かない私に、栞里が道具を手渡してきた。私は大丈夫と言いたいのに言えなくて、黙って道具を受け取った。
移動しながら、栞里がゴミを大きな袋に入れているのを見てしまった。
ティッシュしかない。
――避妊は?
家ではゴミ箱に避妊具のパッケージを捨てる夫に、毎回分別してと注意していた。それがない。まさか。
――間違って妊娠しても構わないということ?
心が壊れそうなほど痛い。けれど、あんな男のために心を壊すのは絶対に嫌だという強い意志のおかげで、私は平常心で仕事に戻れた。
「……さっきの人、私の夫。前にレスのこと相談したでしょ? 原因はただの浮気だなんて」
休憩中、黙って隣に座った栞里に向けて、私はひとりごとのように話を始める。栞里は黙ったまま何度も頷いて、恨み言を聞いてくれた。
私はこのとき、栞里がいなければ家に帰れなかっただろう。彼女に話したことで日常への繋がりの糸が保てたと思う。
♢
どうやって、何を考えて帰ってきたのか覚えていないが、いつのまにか目の前が家だった。
リビングを覗けば夫が携帯で誰かとメッセージのやりとりをしていた。
その優しげな表情を見れば相手が誰か一目瞭然だった。吐き気がしてトイレに駆け込む。
吐き終えると、なぜか不快な気持ちが消えた。部屋に戻ると、夫が家具の一部のようにしか見えなくなったので「ただいま」と言えた。
夫が就寝後、私はいつもより入念に部屋を磨く。もちろん達成感などない。ようやく眠気を感じたので、テレビを見たまま寝てしまった風を装いソファで就寝した。
♢
翌日から離婚に向けてどう動くか考えた。弁護士を頼り、夫や相手から慰謝料を請求し離婚するのが一般的か。不貞に罰はないし仕方ない。
そしてまずは証拠を集めようとした矢先、私は階段で誤って足を踏み外し、右手右足を骨折。休職を余儀なくされ、家から出られない状況に。
幸い義姉が手伝いを申し出てくれた。夫と二人きりは苦痛だったので、この申し出を受け入れ、私はただ心の整理をするだけの毎日を過ごすことにした。
「幸樹、美嘉さんだけに家のこと押しつけてたでしょ。あんた、結婚したらちゃんとやるって言ってたよね。私が来なかったらどうするつもりだったの?」
「うん……美嘉のありがたみがよくわかったよ」
「仕事が忙しいのはわかるけど、毎日帰りが22時過ぎてるじゃない。いつまでも若くないんだから、どこかで休みなさいよ」
「わかってるって」
――よく言う。
横目で姉弟のやりとりを見ながら、とりあえず笑顔だけつくっておく。
夫はどこまで私を侮辱すれば気が済むのだろう。
膝上にのせていた携帯が震えた。
栞里からのメッセージだった。
《固定は月木20時まで》
この3ヶ月、夫の動向を見張ってもらっていた。
そしてこれがその結果の報告。
毎週月木は必ず来て20時にチェックアウトするという意味。
「ふふっ」
私もこの馬鹿馬鹿しい夫婦ごっこに嫌気がさしているが、あまりにもおそまつで思わず声が出た。
なぜか夫は良い夫を演じたいようだ。
今日も彼女と楽しんできたのに、何もなかったかのように接してくる。
遅くなってごめんと詫び、困ったことはないかと聞きあれこれ気を回すとき、何を考えているのか。
(夫はどうしたいんだろう。潔く心変わりを告げて離婚したいと言えばいいのに……まあ、今からまた一から生活を始めるの面倒だよね)
生活の基盤があり、部屋は整えられ、温かい食事がだされる今を捨てて、未知の相手に全てを委ねるのは冒険だ。あちらにまだ行く勇気がないのだろう。
もし、私へ戻ってきたら。
そうしたら子作りをするのかと考えて、また吐き気を催したので考えるのをやめた。
♢
「あ、免許証、職場のロッカーに置いたままだ」
「私でよければ取りに行くよ?」
傷害手当金の申請書を記入しながら呟けば、義姉がすぐに反応した。
「でも……」
ここで、副業をしていることと職種を伝えると、義姉から「弟が不甲斐なくてごめんね」と謝られた。
私は、支配人に連絡し、これから義姉がロッカーの鍵を持っていくから、免許証を渡してほしいと伝える。
無断で開けるのは気が引けると言うので、義姉に立ち会ってもらうことにした。
月曜日の20時前後に。
♢
《無事、遭遇》
栞里からのメッセージに笑みが漏れる。
偶然、弟がホテルから出てきたのを見かけた義姉が、平手で一発。
義姉は曲がったことが嫌いだ。
女性にも責任をとれと詰め寄ったらしい。
帰宅した義姉は、ごまかさなかった。
まず、私に夫の不貞を告げた。
それから不貞を知っていたかと聞く。
私は「まったく気づかなかった。子作りもすると言ったから」と答えた。
離婚の意思があるかと聞かれ、「もう信じられないから継続は難しい」と頷く。
あと夫からの謝罪が必要かと言うので、いらないと答えると、外にいるらしい夫に実家に行けと命令していた。
♢
「私は何もせず、義姉が全てを仕切ってくれて、離婚して、二人から慰謝料もらって一件落着」
私が顛末を話せば、栞里がニコリとした。
口元に薄くアザが見える。化粧で隠してはいるけれど。
以前から、栞里の夫の酒癖の悪さは聞いていたし、暴力を受けていることも、本人が言いたくないならと気づかぬ振りをしていた。でも顔を殴るなんて。
「……栞里さんがいなかったら、今の私はない。本当に感謝してるの」
「私は何もしてない。全部お義姉さんのおかげでしょう?」
「あれは、うまくいきすぎたよね」
ここまで事がうまく運ぶとは思わなかった。偶然を演出しただけなのに。
「あの二人はどうなったの?」
「さあ。興味ないから聞いてない」
「そう。それならいいか」
「うん。私のまわりからいなくなって、綺麗に片付けばいいから」
私たちは整えた部屋を見回し、微笑みを交わした、
♢
栞里の旦那さんが亡くなった。
公園の階段から転落死。
事件か事故かで調べているうちに、日常的に栞里に暴力を奮っていたことがわかり、栞里が疑われたようだけれど、その日は急遽ヘルプで仕事に入っていてアリバイがあった。
酒気を帯びていたこともあり、事故だと断定され、休職していた栞里が復帰した。
「大変だったね」
「うん……」
探るように私を見た視線の意味を、私はわかっている。でも言う必要はない。雨の冷たさと、背中を押した感触はまだ身体に残っているけれど。
「友達だもの」
その一言で、栞里は察したようだ。
私たちは部屋を磨き、何もなかったかのような部屋に満足し、一瞬目を合わせる。
「私、片付けは得意だから」
「私も」
まだ片付けたいものはある。
でも焦らない。
捨てる場所や道具を揃えなければ、完璧に仕上げられないもの。
私たちは休憩室で紅茶を飲みながら、お互いの覚悟を瞳の中に見た。
読んでいただきありがとうございました。