06.治癒魔法の講義
公爵邸で治癒魔法を酷使してから、ルーシーは三日間寝込んだ。
過保護な義母や侍女達の許可が下りなくて、結局ベッドから出られたのは一週間後だった。
もちろんその間、婚約者からの詫びの手紙や見舞いなどは一切ない。
ルーシーの帰宅時、義母が不在だったのが幸いだ。
きっとボロボロのルーシーを見たら、彼女は公爵家に殴り込みに行っていたであろう。
目覚めてから事情を聞かれて、いつものように婚約者に治癒魔法をかけて倒れたと言ってある。
義兄は帰宅時の無残な状態について黙秘してくれているみたいだ。
ベッドで手持ち無沙汰で過ごす間に、ルーシーは一つ決意したことがある。
朝食後に食堂から出てきた義兄の背を追った。
義兄の朝は早い。
のんびり起きて、ゆっくりと朝食をとる義母やルーシーは朝、彼と顔を合わせることはない。
今朝、ルーシーは気合いを入れて早起きした。
事前に家令に確認したので、午前中は義兄に予定が入っていないのは把握している。
「お義兄様」
いつもは極力関わらないようにしている義兄に思い切って声をかけた。
こちらを向いた彼の顔はいつものように険しい。
「どうした? ルーシー」
「私に治癒魔法を教えてください」
拳を握りしめて、頭を下げた。
そこへ大きなため息が聞こえる。
「……あそこまでされて、出した結論はそれなのか?」
地声の高い義兄が地を這うような低い声で、ルーシーに問う。
「お願いします」
ルーシーは頭を下げ続けた。
「着いて来て」
庭の方へ足を踏み出した義兄は、侍従や侍女達になにか指示を出している。
ルーシーは静かに彼の後に着いて行く。
ルーシーのお気に入りのガゼボに着くと、視線で座るよう指示された。
大人しく待っていると、侍女達が手慣れた様子でお茶や軽食を準備していった。
「治癒魔法は、リラックスすることが大事だ」
「そうですね」
どうやら、義兄はルーシーの希望を叶えてくれるらしい。
ほっとして、目の前で湯気を立てる紅茶のカップに手を伸ばす。
苺の風味がほのかにして、目を細める。ティーカップまで苺柄だ。
これも彼の指示だろうか?
義兄に声をかけるのに緊張して、カラカラに枯れていた喉に少し甘い紅茶がしみる。
「ルーシーは学園に通っていなかったな……」
この国には、成人直前の14歳頃から2年間通える学園がある。
騎士、魔法師、文官など専門的な職に就きたい者が学ぶための場所だ。
生徒はほとんど貴族令息で、時折、豪商の子息も混じる。貴族令嬢が通うことはまれだ。貴族令嬢は基本的に各家庭で家庭教師に淑女教育として、礼儀作法、マナー、言語、嫁ぎ先のしきたりなどを学ぶ。
ルーシーは治癒魔法の特性を持っているが、10歳で婚約が結ばれたため必要なことは家庭で学んだ。一応、家庭教師から治癒魔法についての基礎は学んでいる。
「はい。治癒魔法も座学でしか学んでいなくて、実践も婚約者相手が初めてでした。毎回、倒れてお義兄様の手を煩わせるのも申し訳ありませんし……」
「それは別にかまわない」
ごほんっと咳ばらいをして、ボソボソと言う義兄の頬が一瞬、赤く染まる。
次の瞬間にはそれが嘘のように顔色が戻り、いつもの険しい表情になった。
その様子を見たルーシーは目を瞬いた。
恐らく、見間違いではない。
彼はルーシーにいやいや治癒魔法をかけていたわけではないのかもしれない。
「俺は学園で魔法も学んだけど、治癒魔法が使えることは伏せているから、きちんと学んだわけじゃない」
「でも、お義兄様ほど、実践を積んでいる人はいないでしょう?」
「……んん、まぁな」
本来は治癒魔法が使えるかどうかは、5歳の魔法の適正検査で明らかになるはず。
だが、10歳の時に後天的に発現した治癒魔法の力を義母と義兄は伏せる道を選んだ。
色々な選択肢を吟味した上で、二人で決めたことなのだろう。
伯爵家の血筋には時折、治癒魔法の特性を持つ者が生まれる。
義母や義兄も伯爵家の遠縁なので、その血を引いているのかもしれない。
父には義兄に治癒魔法の特性があることを明かしているそうだ。
義兄は伯爵家の籍に養子として入った。
次期当主として、父から教育を受けながら、領地を回っている。
伯爵家は先祖から引き継ぐ広大な領地を持ち、宝石を産出する鉱山を多数持つ。鉱山の運営は危険も伴うわけで、災害が起きた時にはまっさきに現場にかけつけ、救護の隙をみて治癒魔法を施しているそうだ。
接触しないと使えないはずの治癒魔法を、遠隔で使用できるようになったのも、現場で経験を積んだおかげだろう。
それに本来は怪我や不快な症状にしか使えないはずなのに、義兄は魔力枯渇、疲労などにも対処しているように見える。
「もっと私に力があれば……」
きっと治癒魔法を少し使ったくらいで倒れないし、倒れて義兄の手を煩わせることもないし、もっと人の役に立てる。
そうしたら婚約者に呆れられることもないだろう。
「先に言っておく。ルーシーに不足はない」
その言葉に涙がにじみそうになり、頬の内側を噛んでこらえる。
彼はやっぱり義母の息子だ。
この親子はルーシーの心の琴線に、唐突に触れてくる。
「これはルーシーの力を強くするための勉強じゃない。ルーシーは悪くないって証明するために原理を教えるだけだ」
兄の琥珀の瞳がまっすぐにルーシーを見据える。
ルーシーの頬に一筋、涙がこぼれる。
「いいか、そもそも治癒魔法は相手が構えていたら、入らない。治癒魔法はデリケートなものだ。治癒魔法をのせた魔力を相手に注ぎ込む。相手からしたら、異物が自分の体に入ってくるようなものだ。相手がそれを拒んだら、魔力を注いでも無駄になる」
ルーシーの涙を気にした様子もなく、義兄の講義がはじまった。
指先で涙をぬぐって、話に集中する。
その話は家庭教師から聞いたことがあるので、頷いた。
「俺が領民に治癒が施せるのも、俺という人間を信頼してくれているからだ。もちろん治癒魔法を施すなんて言わないし、医療行為に紛れて行っているけど、俺に不信感があったら治癒魔法は施せない」
「ルーシーは意識のあるときに治癒魔法を受けたことはなかったか……」
その言葉に頷いた。
治癒魔法を受けた経験は義兄からだけだ。
大抵、義兄の治癒魔法を遠隔で受けると、気を失ってしまう。
「手を出してごらん」
ルーシーが手を出すと、兄の大きな手がルーシーの手を握る。鉱山や領地を周り、なんでもこなすという義兄の手は傷だらけで無骨だ。
でも、騎士なのに白く綺麗な婚約者の手より好ましい。
「いつもは遠隔でしているけど、接触で治癒魔法を施されるのはこんなかんじだ」
握られた手から自分とは異なる魔力が流れ込んでくる。それが体を巡っていく。
じわじわとあたたかいものが体中に広がり、その後に何とも言えない爽やかさが走った。
「あたたかくて、なんかすっきりしました」
「相性はあるけど、普通は治癒魔法をのせた魔力は心地よい。騎士団で隊長をしているなら、治癒魔法師に世話になることも多い。治癒魔法のやりとりについて理解しているはずだ。つまり……」
「わざとってことですか」
「恐らく」
薄々わかってはいたけれど、核心をつかれて肩を落とす。
婚約者はよほどルーシーのことが嫌いらしい。
「ルーシー、ちょっと魔力を俺に流せるか? 治癒魔法をのせなくていい。俺が流した治癒魔法ののった魔力を体に一周、循環させてから俺に少しだけ返す……」
両手を取りあって、義兄の魔力を循環させて自分の魔力を少し返す。すると、より義兄の魔力がスムーズに流れるようになるのがわかった。義兄と自分が繋いだ手を起点にして魔力をくるくる回すイメージだ。
「そうそう、上手だ。魔力があるなら、こうして循環して返すと治癒魔法師は楽になる。騎士団でも常識なはずだ。それをアイツはしてないってこと。魔力量が豊富なルーシーが倒れるなんてよっぽどのことだ」
実演は終わりなのか義兄が手を離すと、とたんに手がすーすーと冷える。
手持ち無沙汰になって、両手の指を絡ませて握りしめた。
「……治癒魔法を強化するにはどうしたらいいですか?」
家庭教師から学んでいた時に実技ができなかったのは、怪我や病気の人など相手がいないので実践のしようがなかったからだ。きっと経験を積めば、義兄のように力を伸ばせるに違いない。
「話を聞いていたか。むしろ、もっと手を抜いてやればいい。真剣に相手をするだけ無駄だ」
「……強化する方法は実践以外にないですか?」
義兄から何度目かわからないため息がこぼれる。
「治癒魔法はあまり体系立てて研究されていない。文献もあまりない。不可思議で、個々の特性によって効果の変わる曖昧な能力だ。だから、あくまで俺の認識だけど経験を積むこととくらいしかないなぁ……。んー……、あの……真に受けるといけないから先に言っておく」
「なんでしょうか?」
ここまでスムーズに説明していた義兄の歯切れが悪くなる。
「これからルーシーに俺の手持ちの治癒魔法の文献を貸す。他国のものだが、接触が密な方が治癒魔法ののった魔力を流しやすいと書いてある本がある」
「接触が密……?」
「治癒魔法を施す時はだいたい服の上から手を当てるだろう?」
「そうですね」
家庭教師から患部にそっと手を添える、と習った。
「服の上ではなくて、肌に素手で流した方が入りやすいということだ」
「確かに。いつも服の上から手を当てていますけど、頭や手など皮膚と皮膚で触れる方が、魔力は通りやすい気がします」
思い返せば、婚約者に治癒魔法を施す時にも無意識に手袋を外して素手になっていた。
「その延長線上で、手より唇、それより体を繋げるほうが……という説がある」
ルーシーの頬が染まる。言葉を濁しながら説明する義兄の頬も一瞬赤に染まって、また顔色がすぐ戻った。
「お義兄様に実践の経験はありますか? その、皮膚接触について」
いつもと違い気安い雰囲気だったため、好奇心から聞いてしまった。
「……ある。口づけをしたり、体を繋げたりしたわけじゃない。その方法は絶対しないって決めている」
「え? では、どのような方法で?」
「鼻だ。体の穴の空いた部分だと魔力が流れ込みやすいと予測を立てて、鼻へ手を当てて魔力を流し込んだ」
「なるほど。効果はありましたか?」
「うん。手から皮膚よりは効率よかったなぁ。二度とやりたくないけど」
「ふふっ。その方法もあまり使えそうにないですね」
「んんっ。俺が言いたかったのは、接触が密な方が魔力を流しやすいという説がある。だけど、効果があるかどうかは実証されていないし、やみくもにその方法を信じて頼らない方がいいということだ」
素手で肌に直接触れるところまではなんとか許容できるけど、確かにその先はあまり気が進まない。ルーシーは無言で頷いた。
「あのな、治癒魔法は行使する者が使おうと意識しないと使えない。王宮の治癒魔法師達も無理遣り搾取されることはない。大事にされているし、騎士団でもそう扱っているはずだ。決して強制できないものだ。だから、拒んでもいい。婚約者だとしても」
唇を噛む。どうしたらいいのかルーシーにはわからない。
どうしたら婚約者と少しでも友好を結べるのか。
きっと婚約者はルーシーの外見もしぐさも、なにもかも好きじゃない。
彼が唯一、ルーシーに求めるのが治癒魔法なのだ。
それで彼に満足してもらうことしか選択肢はない。
「それなら毎日、お義兄様に治癒魔法を使ってもいいですか? 練習させてください」
「それで、ルーシーの気が済むならつきあうよ」
頭を下げるルーシーに、義兄は苦い表情をしたあと微かに微笑んだ。
今日の収穫は義兄に嫌われているわけではないとわかったことくらいだろうか?
治癒魔法は不思議で解明されていない部分の多いもののようだ。
治癒魔法の向上への道のりはまだまだ険しい。