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05.公爵邸からの帰還

「治癒魔法、僕にもかけてよ」


 声をかけられて顔を上げると、婚約者を少し幼くした青年がソファの傍らに立っていた。

 黒髪の向こうの瞳が好奇心いっぱいに瞬いている。


「かしこまりました。どちらの症状で……」


 ルーシーがそう言いかけた所で、彼は懐から小さなナイフを取り出した。

 高価なカフスピンのついたドレスシャツをまくって、白い腕を差し出すと、腕にナイフの刃先を滑らせる。


 ルーシーはとっさに自分の口を押さえて悲鳴を飲み込んだ。

 部屋の中央で談笑している人々に背を向ける形なので、彼の乱行を目にした者はいない。


「あいにく僕は怪我も困った症状もなくてね。さあ、治してよ」


 差し出された腕には一筋の赤い線が走り、そこからポタポタと血が滴り落ちている。

 血を流しながら、嬉しそうに微笑む少年に、背筋がぞっとする。


 ルーシーは言われるがまま、そこに手を添え必死で治癒魔法を流す。

 指先に感じる血の生暖かさに背筋にぞわぞわしたものが走る。

 婚約者には血が滴るような状態で治癒魔法をかけたことはない。


「えー、すごーい。本当に塞がった。あはは。あんたってすごいんだね。兄様が疎んじているからどんなものなのかと思ったけど。……どのくらいの怪我まで治せるのか興味があるなぁ」


 その言葉に背中が冷える。

 この少年は本当に実行しそうな危うさがあった。


「どうか、どうか御身を大事にしてください」


 血を目にした動揺と急いで魔力を流し込んだせいで、頭がくらくらしてくる。

 それでも二度とこんなことをしないでほしいという気持ちをこめて、頭を下げる。


「もうちょっとアンタで遊びたかったけど、あんまりイタズラすると怒られるから、ここまでにしとくか」


 高位貴族特有の慣れた仕草で侍女を呼び、自分の腕とルーシーの手についた血を拭きとらせ、何事もなかったかのように立ち去った。


 ほっとした途端に頭が殴られたようにガンガンと痛みだし、目の奥がチカチカしてくる。

 喉がひどく乾いている。

 脂汗が出て、体から力が抜けていく。


「おーい、倒れているぞ、この娘。はっ。この程度なのか? おい、アドルフ。この娘、娶る価値はあるのか?」


 一番初めに治癒した婚約者の叔父の声がすぐ近くでするが、もう自力で体を起こすこともできない。

 自分が無様に床に蹲っているのがわかっていても。


「正直、不本意ですけどね。仕方ないでしょう、叔母様の……王妃殿下の願いですから」


「姉上の頼みとはいえ、アドルフも貧乏クジを引いたなぁ……」


 コツコツと重い足音が近づいてくる。


「おい、立て。これぐらいでへばっててどうするんだ? これだから貴族令嬢は……。王宮の騎士団付きの治癒魔法師は一日に何十人と診ているんだぞ」


 通常、治癒魔法はお互いの心を開くところから始まる。

 そうすることでスムーズに魔力を流すことができるのだ。治癒魔法師の負担も軽くなる。

 家庭教師から座学で習っただけのルーシーだって知っている常識だ。


 騎士なら、そのくらいのこと知っているのではないか?

 それにルーシーは訓練を受けた治癒魔法師ではない。


 心の中で反論が浮かぶけど、もちろん口に出せるはずもない。


 婚約者に引きずるられるようにして屋敷から出されると、伯爵家の馬車に放り込まれた。

 すぐに馬車は走り出す。

 その衝動で立っていることも座席に腰掛けることもできずに、座席の下の床に倒れ込んだ。

 狭い床にそのまま蹲る。

 

 頭が痛いし、お腹も苦しい。

 馬車の揺れのせいもあり吐き気がこみ上げてくるけど、胃がからっぽで苦くて酸っぱい胃液のようなものが口に広がるだけだった。


 彼と結婚したら、ずっとこんな生活が続くのだろうか?

 魔力は生命力につながる。

 過剰な魔力放出は命を削る。

 彼もそれは知っているはずだ。

 そこまでルーシーは婚約者に疎まれているのだろうか?


 王命による結婚は仕方がない。

 だから、ルーシーを消耗させて、儚くさせようとしているのだろうか?


 王家の意向を汲んで結婚したけど、妻は病に倒れ亡くなりました。

 そうすれば、体裁はつくろえるし、彼はその後、好きな女を娶ることができるだろう。

 両隣に侍らせていた派手な美人達のように。彼好みの女性を。

 もう、ルーシーにはそんな未来しか視えない。


 ああ、頭がガンガンするし、お腹も気持ち悪い。


 床でうずくまりながら、最悪の未来を思い描いているうちに、いつの間にか馬車は止まっていた。


「ルーシー!!!」


 扉が開けられたのか光が差し込む。義兄の悲鳴のような声が響いた。

 抱え上げられ、清涼感のあるミントの香りに包まれる。


 ああ、帰って来ることができた。伯爵家に。

 義兄がルーシーを疎んじていても、いつも険しい顔をしていても、彼の腕の中は安心できる。


「どうした? なにをされた? 怪我はないか? 血の跡がある……!!」


 侍女を連れてくるなという指示に従ったし、御者は公爵邸であったことを知らないので、この状況を説明できるのはルーシーしかいない。

 でも、唇が渇いて張り付いていて、なかなか言葉を発することができない。


「おにいさま……だいじょうぶ……ちゆまほう、つかっただけ……」


 そっと馬車からルーシーを抱え上げて降ろしてくれる彼に、なんとか言葉を絞り出す。


「いつもの魔力枯渇か? 怪我はないか?」


 近い距離にある義兄の額には、深い皺がいつものように刻まれている。

 こくりと小さく頷く。


「この手首の青あざはなんだ? あいつにやられたのか?」


 ルーシーを横抱きにして運びながらも、全身をチェックする厳しい視線を感じる。


 彼の叔父が掴んだ時か、婚約者に馬車まで引きずられた時のものかわからない。

 治癒魔法を施すときに手袋を外したのは覚えている。

 手袋はどこにいったのだろう?

 帰りは着ける余裕がなかったので、手首に痣が醜く浮き出ているのだろう。


 視界がぼんやりしている。

 いつもは魔力を使い過ぎると、頭がクラクラして体から力が抜ける。

 でも、今はすべての感覚があいまいだ。

 だんだん思考も視界も不明瞭になっていく。


「おにいさま……」


「どうした? ルーシー」


「わたし、よごれているので……」


 ルーシーを横抱きにして歩きながら、義兄は使用人達に指示を出していている。


 馬車の床にうずくまっていたせいで、ルーシーは土と埃にまみれているだろう。

 それに顔も涙と鼻水と、埃でぐしゃぐしゃだ。

 もうこれ以上、嫌われたくない。

 例え一緒に生活するのが、あと一年足らずだとしても。


「くだらないことを気にするな。もういい」


 いつものように義兄の治癒の魔力が流れ込んでくる。

 色々と考えるのが難しくなって、体から力を抜いて身を任せた。


 義兄の魔力はすっきりしているのに、どこかあたたかい。

 彼のまとうミントの香りのように。


「……なんで、……こんな」


 意識がなくなる寸前に、唸るような義兄の言葉が聞えた気がした。

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