04.公爵邸
いつもは伯爵邸で行われる婚約者との交流の茶会。
騎士として多忙な婚約者の予定に合わせて、月に一度開催されている。
予定は手紙で知らされるが、前日に届くのが常だった。
ルーシーはいつでも予定が空いているだろうと言わんばかりに。
「公爵邸で……?」
婚約者から送られてきた次の茶会について記された手紙に、ルーシーはそこはかとない不安を感じた。
彼は頑なに自分のプライベートにルーシーを入れようとしない。
公爵邸はもちろん、騎士団が開催する公開訓練の見学にも呼ばないし、外へと連れ立って出かけることもない。
年に一度の騎士団の花形イベントである剣術大会にさえ招待されない。
王宮で開催される夜会のエスコートすら仕事だと断られる。
公爵夫婦が現役で、すぐには引退しないからと公爵夫人教育も行われていない。
どのみち敵対派閥の嫁になど公爵家の家政や夫人の仕事を任せることはないだろう。
だからルーシーは、婚約の手続きと婚約発表のパーティー以来、公爵邸を訪れていなかった。
それなのに明日、公爵邸へ出向くようにとだけ書かれている。
「……急になんで? どんな風の吹き回し?」
結婚を一年後に控えてようやく、形ばかりの婚約者と交流を図ろうとでもいうのだろうか?
恐らく、公爵夫婦も交えて結婚式や披露パーティーについての段取りの話でもするのだろう。
招待客もドレスも会場の装飾も食事もなに一つルーシーの意向など採用されないというのに。
「婚約者様からのお手紙ですか? 次のお茶会は明日ですか? 明後日ですか? 料理人に指示しないといけませんねぇ」
専属侍女のタバサは困惑するルーシーにいつもの調子で声をかけてくる。
伯爵家の使用人達も婚約者の無茶ぶりには慣れている。
「明日は公爵邸で交流のお茶会をするみたいなの……」
「あらあら、やっと婚約者らしくなってきましたねぇ。とびきり美しく磨き上げないといけないですね!」
浮き浮きと準備を始めるタバサとは裏腹にルーシーは浮かない気持ちで手紙を見つめた。
◇◇
浮かれるタバサや侍女達に全身を磨き上げられ、義母が選んだドレスやアクセサリーに身を包んだルーシーは一人、馬車に揺られていた。
婚約者は迎えに来ることも、公爵家から迎えの馬車を寄こすこともない。
「結婚を控えた女だとは思えないわね……」
明るい緑色のデイドレスに伯爵領で採れたブラックダイヤモンドを散りばめたアクセサリーをつけて、陰鬱な顔をした女が馬車の小さな窓に映っている。
久々の外出だというのに少しも嬉しくない。
口調は偉そうだが、いつも貴族の微笑みを張り付けている婚約者の意図が読めなくて不気味だった。
母の形見の指輪をドレスの隠しポケットから鎖ごと取り出して眺める。
普段着のドレスと違って胸元が開いているので、さすがに首から下げるわけにはいかない。
ドレスの隠しポケットはルーシーが母の形見の指輪をいつでも持っていられるようにと、侍女達が首元が出る服すべてに付けてくれたものだ。傍から見るとポケットがあることは、わからないように上手に加工されている。
専属侍女のタバサだけではなく、侍女達はみな幼い頃に母を亡くしたルーシーを気遣ってくれている。
「行きたくないなぁ……」
馬車にルーシーの本音が零れた。
城のような造りをしている公爵家に着いても、婚約者が出迎えることはない。
案内役の侍従が無表情で佇んでいる。
正面にある噴水から、涼し気な水音だけが虚しく響いていた。
玄関ホールを抜けた先の広大な廊下には、白磁の動物のフィギューリンが点在している。
温度のない、妙に写実的な磁器の人形がルーシーは苦手だった。
表情のない彼らは招かれざる客を威嚇しているように見える。
寒々しい思いを隠して、侍従の後に大人しく続く。
婚約者も苦手だけど、彼の両親も苦手だ。
高圧的で尊大なところは親子でそっくりだった。
頭の中でお茶会のマナーを復習する。
なにか聞かれてもすべて「はい」と答えてやり過ごそう。
そう決意して、ヒールの音を吸い込む立派な絨毯の敷かれた廊下を進む。
ざわめきが遠くから聞こえてくる。
近づくにつれそれが人々の会話と嬌声だと分かり、違和感がある。
昼間だというのに、まるで夜会でも開いているような賑やかさだ。
近づくにつれて騒々しい声は大きくなる。
なにが待ち構えているというの?
一歩進むごとに不安と恐怖で、鼓動がはねる。
ルーシーを案内する侍従は変らぬ歩幅で進んで、ノックをして来訪を告げた。
嫌な予感は見事、的中した。
婚約者と両親と4人で結婚式の打ち合わせをするのだと思っていたルーシーの頰が引きつる。
侍従に案内されて客間に足を踏み入れると、そこにいたのは婚約者だけではなかった。
老若男女合わせて20人くらいが揃っていた。
婚約時や婚約パーティーの時のおぼろげな記憶を辿ると、婚約者の身内のようだ。
テーブルの上には料理や菓子が所狭しと並べられている。
お茶だけでなく酒もふるまわれているようで、ワイングラスを手にしている者もいた。
「遅かったな」
婚約者はソファの真ん中で主役のようにふんぞり返っている。両脇には従妹と寄子の男爵家の令嬢が侍っている。
この光景を見せるために、呼び出したのだろうか?
6歳年下のルーシーでは彼に不足しているとでも言わんばかりに、熟した女の魅力を彼の両側から放っている。
「申し訳ありません」
部屋にむせかえるアルコールと料理の匂いに、ルーシーは頭を下げながら顔をしかめた。
昼間とは思えないほどテーブルには溢れるほどご馳走が盛られている。
もちろんルーシーを歓迎するためではないだろう。
すでに料理には手が付けられていて、赤ら顔で出来上がっている者もいる。
まさに、宴もたけなわといったところだ。
「あら、アドルフ様のお誕生日のお祝いだというのに手ぶらですの?」
彼にしなだれかかって従妹が発した言葉に、ルーシーは目を見開いた。
確かに先日、彼は24歳の誕生日を迎えた。
毎年、公爵家で盛大に開かれる誕生パーティーに呼ばれたことはない。
いつもルーシーは、体調不良で欠席ということになっている。
毎年、贈り物は伯爵家とルーシーの名でそれぞれ送っている。
言葉を発した女のゆるくウェーブを描く茶色の髪から、ブラックダイヤモンドのネックレスがのぞく。
伯爵領でしか採れない希少な石。
今年の誕生日に贈られたものだ。
銀の台座に収まって、なぜか彼女の胸で輝きを放っている。
「いくら身内の会だからって、なにもないんですかぁ?」
寄子の男爵令嬢が甘ったるい声で言う。
朝からなにも入れていない胃がきりきりと痛む。
敵地でバカ正直に贈り物は届けてあるとか、なにも聞いていない、なんて答えても仕方ない。
これみよがしにこげ茶の髪をかきあげると、耳たぶにはイエローダイヤが光る。
あれは一昨年、贈ったものだろう。
婚約してから、彼の誕生日には伯爵領で採れた宝石を加工したタイピンやカフスピン、ブローチなどを贈っていた。
どれも伯爵領でしか産出されない希少な石を使って、一流の職人が丹精込めて加工したものだ。
「趣味にあわないから、原石がいい」という婚約者の希望で、近年は加工しないものを納めていた。
――それを周りの女にばらまいているっていうの?
ルーシーの腹の奥でゆらりとなにかが立上る。
ゆっくりと呼吸をして、表情にそれが現れないように努める。
「ほとんど伯爵家から出ていないから世間知らずなんだ。多少の無作法は多めに見てやってくれ。それに彼女には治癒魔法という特技がある。それを振る舞ってくれるのだろう?」
彼の黒い瞳が輝き、唇が弧を描く。
「じゃあ、早速、腕前を見せてもらおうか」
ぐいっと父親ほどの年齢の男性に腕を引かれて、部屋の隅まで誘導される。
暖炉の脇にある一人掛けのソファにどかりと腰かけると、彼は自分の膝を叩いた。
「それなら、この左膝をなんとかしてみろ。そうしたら格下の伯爵家の娘とはいえ、嫁として認めてやろう!」
「え?」
信じられない気持ちで婚約者の方を見る。
彼は美しいと言われる顔に、軽薄な笑みを浮かべていた。
「ほら、叔父様の言う通りにしろ。お前にできるのは治癒魔法だけだろう? 存分に力を発揮しないと嫁に来れないぞ」
それだけ言うと、両隣にいる令嬢達との談笑に戻ってしまった。
なるほど、ルーシーは公爵家の集まりの道化として呼ばれたのだ。
夜会やパーティーに縁のないルーシーだが、貴族の催しを盛り上げるため、吟遊詩人や楽器の奏者、道化が呼ばれることは知っている。
今日呼ばれたのは、婚約者として結婚式の打ち合わせをするためでも、誕生日を祝うためでもない。
公爵家の方々をもてなし、場を盛り上げるために呼ばれたのだ。
ルーシーの頬が引きつる。
いくら対立している派閥の格下の貴族だからといって、ここまでの扱いを受けないといけないのか?
挨拶さえさせずに、まるで使用人のように扱われて、腹の奥がぐらぐらと煮える。
この婚約はお互いにとって、本意ではない。
でも、ここまで溝が深いからこそ、それを憂いた王家が陰からお膳立てをして整ったものだ。
公爵家は歩み寄るつもりは一切ないらしい。
敵対派閥の格下の娘をとことん辱めるつもりなのだ。
「なにをぼーっとしているんだ。早くしないか!」
さすが血が繋がっているだけあって、物言いがそっくりな彼の叔父がイライラしている。
一瞬、言い返して伯爵家に帰ってやろうかと思った。
でも義母と義兄の顔が浮かんで、強張った体から力を抜いた。
これから義母と義兄が暮らしていく伯爵家に泥を塗るわけにいかない。
ルーシーは両手から白い手袋を引き抜いた。
貧乏ゆすりをしているせいで、小刻みに揺れる左膝に、大人しく手を添える。
むわりと婚約者がつけているのと同じ濃厚な甘さのある香水の匂いがして、吐きそうになる。
匂いを嗅がないように、口だけでひとつ呼吸を整えると治癒魔法を魔力にのせて注ぎ込む。
婚約者よりは魔力の通りが良くて、ほっとする。
「もう良いわ。ふーん、まぁまぁだな」
しばらくすると満足したのか飽きたのか、叔父はルーシーの手を跳ね除けると宴席へと戻って行った。
治癒魔法は術をかけている側には、怪我などのように目に見えるものでなければ、効いているのかどうかわからない。
終了のタイミングは全て、相手にゆだねられている。
肩こり、腰の痛み、頭痛、手荒れ……。
かしずかれている貴族でも多少の体の痛みや気になる箇所はあるわけで、それらを癒すべく公爵家の縁者に次々と、部屋の片隅で治癒魔法を施していく。
「ねー、顔のシミってなんとかならないのぉ? あ、私がってわけじゃなくて、お母様が随分悩んでてぇ~」
治癒魔法に集中したいのに、いつの間にか背後に寄ってきた令嬢に話しかけられる。確か彼の左隣に座っていた従妹だ。
手にはワイングラスを持っている。もちろんルーシーの分はない。
先ほどからルーシーの周りをうろうろしている小さな女の子がルーシーの髪飾りを引っ張った。
頭皮が引きつれる感覚に顔をしかめる。
「シミを薄くすることはできません」
「えー、なんなの。使えない! じゃあ、皺をとることもできないの?」
「うわぁぁぁぁぁん!!」
ルーシーの髪飾りを引っ張っていた女の子が髪飾りが取れないのにじれたのか、地べたに座って泣き出した。
泣きたいのはこっちのほうだ。
手が塞がっていて、乱れた髪を直すこともできない。
「治癒魔法は万能ではなく、怪我や体の不快な症状を和らげるだけで……。それにも限度がありますし……」
「なーんだ、治癒魔法ってぜーんぜん大したことないじゃない! それでよく公爵家の息子と婚約できたわねぇ」
「わぁぁぁぁあああ」
彼女の甲高い声と女の子の泣き声が部屋に響き渡る。
一瞬、盛り上がっていた室内がシンと静まって、それから失笑とヒソヒソ声がかわされる。
ルーシーの集中が途切れて、治癒魔法の流れが途絶えた。
「しょーもなっ」
彼の従妹は吐き捨てると、暖炉の上にワイングラスをたんっと置いた。
泣いている女の子を抱っこして彼の元へと戻っていく。
「なんだ、なんだ希少な治癒魔法の使い手だって聞いていたけど、大したことないね。もう、いいよ。娘の頼みじゃなかったら、アドルフはもっといい嫁をもらえたのにね」
腰に治癒魔法を注ぎ込んでいた彼の祖母に手を叩かれ、ぎろりと睨まれる。
そもそも年数がたった古傷は、魔力を使う割りには成果が出ない。
年齢が上がるほど症状も重く頑なだ。
それに治癒魔法はリラックスできる環境が大事で、こんなひどい状況で力が発揮できるわけがない。
もう魔力も気力も限界に近い。それに喉の渇きがひどい。
ふと視線を下げると、義母が張り切って用意してくれたドレスはかしずいて治癒しているせいで皺が寄り、埃や土で汚れていた。