19.婚約破棄と新たなる縁談
それは突然だった。
「お前との婚約を破棄する」
結婚を三か月後に控えた冬の寒いある日のこと。
雪がちらちらと舞っていて、窓から見えるお気に入りのガゼボも白く染まっていた。
伯爵家の客間の暖炉には火が入っているのに、婚約者といると寒々しく感じる。
「……承知いたしました」
「ふんっ。泣いて縋りつくこともしないとは、可愛いげもない」
実際にそんなことをしたら、もっとひどい言葉をかけるくせに。
それでも不用品を捨てるように告げられた言葉は、ルーシーの胸を抉った。
ルーシーはどこまでも彼の所有物という扱いなのだろう。
目の前の彼はゆったりとしたソファで、可愛らしい金の巻き毛の令嬢をぴったりと自分に抱き寄せていた。
彼が公爵邸で侍らせていた従妹や寄子の令嬢ではない。
彼女が瞬きをする度、濃い金色のまつ毛が揺れ、美しいエメラルドグリーンの瞳を際立てている。
コルセットで締められた華奢な腰が、零れそうなほど豊かな胸元を強調していた。
この極上の女は、自分のものだと主張するように彼の手が巻き付いている。
――ああ、この人は愛おしいと思う人にはこんな態度をとるのだ。
女が勝手に寄ってくるので感覚が麻痺して、誰に対しても淡々とした態度を取るのだと思っていた。
いつもルーシーの前では不機嫌にゆがめられていた唇は弧を描き、冷徹に輝いていたブラックダイヤモンドの瞳は溶けそうな熱を湛えて彼女を見ている。
「運命とは本当にあるのだな……」
「アドルフ様……」
彼女の巻き毛を一筋掬い上げると、唇を落とす。そんな気障な仕草も絵になった。
令嬢も大きな瞳を潤ませて、頬を染め彼を見つめている。
「婚約破棄は承りましたが、治癒魔法についても……」
「どうしても、俺の気を引きたいのか? 殊勝なふりをして、治癒魔法で気を引きたいんだろ!」
婚約破棄をしても、治癒魔法を今後も便利に使われるのだけは勘弁してほしいと思い、口を開くとそれにかぶせるようにして激高される。
「いえ、そうではなく、大事な事なので確認を……」
「お前の治癒魔法など不要だ!」
「それなら問題ありません」
「いいか、金輪際、二度とお前には関わらない。治癒魔法があったとしてもだ」
「承知いたしました」
「ふふんっ。バーバラも治癒魔法が使えるんだ。それも、お前とは比べものにならないくらいの効き目だ」
バーバラは貴族派の伯爵令嬢で最近、後天的に治癒魔法の力が発現したらしい。
任務で大怪我を負った彼を、たまたま通りがかった彼女が治癒魔法で治したそうだ。
それ以来、怪我を負った時は彼女が治癒魔法を施していたらしい。
どうりで一ヶ月ほど音沙汰がなかったわけだ。遠征に行っているか、身を慎んで怪我をしなくなったのかと思ったが違ったようだ。
「ごめんなさい……。わたくし……ルーシー様から愛する人を奪ってしまって……。でも、身も心もアドルフ様に捧げてしまったから、わたくし……」
彼女の大きな瞳から涙がこぼれる。
――彼女は体を繋げることで治癒魔法を施しているということ?
どうとでも解釈できる言葉に頭を悩ませる。
確かに、それなら治癒魔法が最近発現した者でもルーシー以上に効率よく治癒することができるかもしれない。
「お前、彼女を泣かせるな!」
理不尽な怒声に身を縮める。
「でも、アドルフ様が選んでくれたのはわたくしなのです。あなたでも、従妹でも寄子のご令嬢でもなく」
くすんっ。鼻を小さくすする音がする。
彼女の泣き顔はとても綺麗で、白くてまろやかな頬に涙が一粒ころりと滑っていく。
ルーシーのように、鼻水と化粧でぐちゃぐちゃな泣き顔になんてならない。
大きなエメラルドグリーンの瞳が勝ち誇ったように煌めいている。
「あいつらは俺に一方的に寄って来ているだけで、なんの関係もない。俺の唯一は君だけだ」
伯爵家の贈った希少な宝石を従妹や寄子の令嬢に与えたのに?
伯爵家で産出される希少な宝石も彼女達も、彼にとっては塵のような存在なのだろう。
婚約者はそのガラス玉のような涙を唇ですくった。
公爵邸で彼が侍らせていた従妹や寄子の男爵令嬢の前でもこの寸劇を繰り広げたのだろう。
あの二人が激高して、やり込められる姿はちょっと見てみたかった。
黒豹騎士と呼ばれ、次期公爵である婚約者に見染められたのは自分だという自信に満ちた態度。
彼女は貴族派だが、この様子なら、自分とは違って彼女は公爵家でも大事にされることだろう。
めでたし、めでたしなんだよね?
あれだけ逃げたかった結婚だし、こちらに非のない、あと腐れのない幕切れ。
逆に現実味がなくてそわそわする。
婚約者がなにか企んでいて、演技しているんだったりして?
挙句の果てにはそんな考えまで浮かんでしまう。
ルーシーの目の前のローテーブルに、横から書類がすっと置かれた。
「署名をお願いいたします」
ルーシーの背後から高めの男性の声がする。
振り向くと義兄がいた。
目の前のローテーブルの上のティーポットや菓子の類はいつの間にか片付けられていた。
婚約者の傍らには、伯爵家の侍従が書類とペンが載った盆を掲げて侍っている。
婚約者は書類を確認することなく、差し出される書類にすらすらとペンを走らせた。
隣のバーバラは涙の残る瞳で、義兄に流し目を送っている。
「ルーシー、署名を」
侍従が目の前に置いた書類を手に取り、じっくりと目を通す。
それは一般的な婚約破棄の書類であった。
それぞれの当主の署名がすでに入っていることに、ルーシーは目を瞬かせた。
これは彼の独断ではなく、きちんと両家に話が通っている決定事項なのだ。
きちんとあちら有責の婚約破棄となっており、伯爵家が収めた結納金の返還と相当額の慰謝料の支払いが条件となっている。
特記すべきは今後一切、公爵家の関連の者に有償無償に関わらずルーシーは治癒魔法を施さないということだろうか。
確か、彼の運命の相手は貿易で財をなしている伯爵家だ。
結納金の返還も慰謝料も痛手にはならないだろう。
それだけ公爵家にとってこの令嬢との婚約は利のあるものなのだ。
彼とルーシーとの婚約を整えた王妃殿下が納得できるくらい。
各家で保存する控えとして二枚。
提出用に二枚。
文言が違えず書いてあるか確認してから、きっちりと署名した。
貴族院で受理されるのは先に提出された一枚だが、貴族間の契約書は通常、複数作成される。
確実に契約が履行されるためのそのような仕組みになっている。
相手が提出しなくても、自分が提出すれば契約が成立するように。
「早馬を出して、即急に提出しろ」
義兄が言葉少なに命じると、侍従が慌ただしく部屋を出て行った。
「次期伯爵の好意に感謝する。念のため、うちからも提出させてもらうがな」
「お好きなように」
眉間に皺寄せた義兄は公爵家用の二枚を婚約者へ手渡した。
「用が済んだら、お帰りください」
「言われなくとも二度と来ない、さぁ、行こうバーバラ!」
こうしてルーシーを悩ませ、縛り付けていた婚約はあっけなく終わりを迎えた。
「お義兄様……バーバラ様は……」
――いったい、どこから現れたのでしょうか?
ルーシーの疑問は口には出せず、心の中で霧散する。
砂糖菓子のように可憐な外見。
後天的に発現した治癒魔法。
公爵家に釣り合う身分と実家の力。
そして、バーバラは貴族派の令嬢。
そんな都合のいい存在が、結婚前のタイミングに現れることなんてあるだろうか?
「きっと、彼にとっての運命の相手だったんだよ。彼もそう言っていたじゃないか」
ルーシーがぼうっとしている間に、ローテーブルには湯気の立つティーカップやお菓子が並べられている。義兄もルーシーの隣に腰掛けて、カップを手に取った。
「でも、バーバラ様って……」
王妃殿下が王族派の公爵家嫡男の婚約者を探し始めた時に、貴族派の令嬢には婚約者が即急にあてがわれた。裕福な伯爵令嬢であるバーバラの家も例外ではなく、彼女の姉達は貴族派の婚約者がいる。
「彼女はれっきとした伯爵家の三女だ。素性の怪しい者ではないよ。そこは公爵家も調べているだろう。彼女は幼い頃から体が弱くて領地で療養していたらしい。だから、婚約者候補からは外れていたんだよ」
「それなら、本当に運命のようですね……」
初めから彼女が婚約者だったらよかったのにと思うくらい。
でも、ルーシーを踏み台にしたからこそ、さらに燃え上がっているのだろう。
「ああ。伯爵も貿易の傍ら、熱心に彼女の治療法や治療薬を探していたらしいよ。そのかいあって、体調がよくなった彼女が王都に出て来て、たまたま治癒魔法が後天的に発現して、たまたま彼の治癒をすることになったらしいよ」
「……そうですか」
どこか腑に落ちない部分もある。
でも、隣で綺麗な笑顔を見せる義兄の顔を見ると、まぁいいかという気持ちになる。
晴れやかな笑顔と対照的に目の下の隈が黒々としている。
これからは婚約者の制約がないので、少しは義兄の手伝いもできるかもしれない。
「すべてがあるべきところに収まっただけだよ。そう、返してもらっただけだ。ほら、ルーシーの好きなジャムサンドクッキーだよ」
義兄から差し出されたクッキーにルーシーは戸惑う。
手で受け取ろうとしたら、義兄が首を横に振る。
これは兄妹の距離感かしら?
仕方なく目の前のクッキーにかじりつく。
租借すると、サクサクとしたクッキーと甘酸っぱいジャムの味が口に広がる。
その様子をじっと見られているのを感じて、ルーシーの頬が染まる。
満足げに微笑む義兄とジャムサンドクッキー。
甘い。胸やけしそうなほど、甘い。
甘すぎるのは苦手だけど、この甘さはクセになりそうだ。
◇◇
珍しく家族揃っての晩餐で、まだどこかふわふわした心地でルーシーは席についた。
婚約破棄があったのは今日の午前中だというのに、そのことには誰も触れなかった。
「ねぇ、マークと婚約しない?」
突然、義母が切り出した。
やっと食事が喉を通りそうだとゆっくり料理を楽しんでいたのに、喉に詰まりそうになる。
父も義兄も驚いた様子はない。
婚約が破棄されたとはいえ、伯爵令嬢であるルーシーはそのうち父の意向でどこかへ嫁がされるのではないのか?
食事どころではなくなって、カトラリーをそっと置いた。
「ねぇ、ルーシー。本当の娘にならない?」
「俺が相手じゃ不足しているか?」
「もー、あんたは! またそういう言い方をする!」
困惑するルーシーをよそに、義母が畳みかけ、義兄から問われる。
でも、それでは家の役に立てない……。
きっとこの申し出はルーシーを守るためのもの。
ルーシーが公爵家や婚約者から受けた不遇を憐れんでのものだろう。
ルーシーが治癒魔法の素養を持つことは周知していないが、話はどこからか漏れるものだ。
高位貴族が治癒魔法目当てに縁談を望むこともあるかもしれない。
――それに義兄には恋人がいる。
伯爵領での鉱山の崩落事故の現場で会って以来、顔を合わせていない。
もっとも彼女が伯爵邸に来ていないというだけで、義兄とは外で会っているだろうけど。
「……少し考えさせてください」
ルーシーはゆるく首を横に振った。
せっかくルーシーの好物が食卓に並んでいるのに、これ以上なにも喉を通らないだろう。
義兄にはアレックスという綺麗な恋人がいる。
それに義母のお腹には赤ちゃんがいる。
その子が女の子だったら、彼女は自分の血の繋がった娘を得ることができる。
そうしたら、血の繋がらないルーシーが邪魔になる日が来るかもしれない。
どう考えても二人に利のない話だった。
ちらっと上座に座る父を見る。
こちらを見ることなく淡々と食事をしている。
お父様だって、先妻の面影を残す娘がいたら邪魔だろう。
娘の前ではおおっぴらにお義母様に愛を囁くことも、生まれてくる子供をかわいがることもできない。
婚約がなかったことになっても、伯爵家にルーシーが不要なのは変らない。