16.事故
現場は騒めいていた。
一応、明かりが灯されているが、十分な明るさはなく暗い中でせわしなく人々が行きかい、怒声が飛んでいる。
アレックスはルーシーに気遣うことなく先を進むので、ひたすらその姿を見失わないように後を追う。
群衆の中にいた父は、ルーシーを見ると驚いたような顔をしたが、すぐに現場の指揮へと戻って行った。
アレックスが貸してくれた予備のローブを乗馬服の上に羽織ってきたが、既に泥や雨でびしょ濡れになっていた。
救護テントに入ると、明るさと清潔さにほっとする。
アレックスに倣って、水の滴るローブを入り口で脱いで籠に入れる。
髪の毛や乗馬服などはさほど濡れていない。魔法師が使うローブにはなんらかの加工がされているのだろう。
衝立の向こうのベッドに、顔色をなくした義兄がベッドに横たわっているのを見て、緊張が走る。
駆け寄りたい気持ちをぐっとこらえた。
どうやら個室のようで、義兄と医師以外の人はいないようだ。
「アレックス様、お早いお帰りで……。えっと、そちらは……?」
「伯爵家の箱入りのお嬢様です。治癒魔法が使えるから、倒れたお義兄様のためにかけつけたんですよ。状況は?」
主家の娘であるルーシーに礼をしようとする老齢の医師を押しとどめて、アレックスが状況確認をする。
「変わりはないですよ。頭を切っているし、背中の打ち身もある。触った感じだと肋骨が折れているかもしれない。内臓なんかの損傷具合はわかんないねぇ。頭の切り傷ってのはけっこう出血するんだが、未だに止まらないのが、ちと気になるな……」
老齢の医師の深刻な言葉に、握りしめられた手に汗がたまる。
「アレックス様、義兄に触れる許可をください」
「なぜ私に許可を請う? どうしようかなー。……私も使えるのよね、治癒魔法」
青い切れ長の瞳がルーシーを貫く。その言葉に目を瞬く。
治癒魔法を使えるのは自分だけだと、貴重な能力なのだと、どこか奢っていた自分が恥ずかしくなる。
「……そうでしたか。出過ぎたまねをしました。忘れてください」
義母の反対を押し切ってここまで、のこのこ着いて来てしまった。
父に指示を仰いで、別の患者の救護の補佐をした方がいいかもしれない。
ルーシーは後ろ髪ひかれる思いを抱えたまま、義兄に背を返す。
「……嘘よ。やってみるだけ、やってみれば。血や傷にアンタのほうがぶっ倒れないでよ」
「はい」
義兄のベッドの傍らに寄る。
アレックスが義兄の頭を支えて、医師が包帯をくるくると外していく。
医師が外した包帯の束が太くなるにつれて、錆びた匂いがじわじわと広がる。
患部が見えて、その傷口の痛々しさに目をそむけたくなる。
消毒した手を傷口にそっと添える。
手も体も細かく震えている。
手に伝わる傷口の大きさと深さに恐ろしくなる。
手にぬるりとした血の感触が伝わる。
落ちついて。まずは、落ち着くのよ。
傷口から伝わるイメージから気持ちを剥がして、自分の呼吸に集中する。
義兄から学んだこと。これまで身に着けたことを思い出す。
――お義兄様の頭の傷が治癒しますように。
治癒魔法を施すのに気持ちはいらない。
でも、祈るような切実な気持ちがこもってしまう。
そっと、治癒魔法をのせた魔力を流し始めた。
力を入れ過ぎない。ゆっくりゆっくり、焦らず流していく。
しかし、なにかにはじかれるように魔力が自分に返ってくる。
「えっ?」
ルーシーから戸惑いの声が漏れた。
そうしているうちにも、ぬるぬるとした血液がルーシーの手を伝って流れていく。
まるで義兄の命が血と共に流れていくよう。
魔力がまったく入らず押し返されるなんて初めてのことだ。
「えっ? なんで? なんで?」
焦ってしまい、魔力が一気に入ってしまった。
しかし、なにか固い壁でもあるかのように弾かれる。
ルーシーを嫌う婚約者や、頑固な公爵家の老婆にかけたときですら感じたことのない感触。
「なによ? どうしたの?」
「魔力が入らない! どうして、お義兄様……」
ルーシーの治ってほしいという気持ちが入りすぎているから?
義兄と魔力交換をしすぎて、効果がなくなったから?
なんらかの理由で義兄がルーシーの魔力を拒んでいるの?
パニックに陥り、はくはくと浅い息を繰り返す。
「もしかしたら、傷口がひどすぎて魔力が入らないのかもしれないねぇ……」
場数を踏んでいる医師の言葉に、ルーシーは少し冷静さを取り戻した。
――お義兄様の頭の傷が治癒しますように。
今度は血を流す傷口の周りに手を添え、魔力を流す。
「入った!」
微弱であるが、ほんの少し魔力が流れ出した。
しかし、なにかに阻害されるようにして、時折その弱々しい流れが止まる。
傷口はほとんど出血で見えないが、塞がる様子がない。
「いけない。ちょっと止血させてくれ」
だんだんと義兄の呼吸が荒くなり、顔色が白く変化していく。
医師と場所を交代し、手を洗って消毒する。
まだ手には義兄の傷跡と血のぬめぬめした感触が残っている。
「アレックス様、口から魔力を入れていいですか?」
離れた位置で腕を組み、事態を静観するアレックスに許しを請う。
「は?」
「口づけをする許可をください。傷口から魔力が入りません。出血もひどい。唇から魔力を注ぐ許可をください」
「なにを言っているの? あなた婚約者のいる身でしょう?」
信じられないものを見る目で、こちらを見る。
彼女と義兄の関係はどこまで進んでいるのだろう?
成人している恋人同士の二人が、まさかキスすらしていないなんてことはないだろう。
彼女から嫉妬より、貴族令嬢であるルーシーへの非難がきたので、恐らくルーシーの人命救助の口づけごときで義兄達の関係性が壊れることはない。
そう確信して、言葉を続ける。
「でも、なんでもしたい。助かるなら」
話しをしている間にも、横から聞こえる義兄の呼吸は荒いものから、だんだんと細いものへと変わっていっている。
「誓って、邪な気持ちはないって」
「誓います」
真っ直ぐに彼女の晴れ渡る空のように青く澄んだ瞳を見つめる。
「それで、命の恩人ですって恩を売りつけるつもり? そうよね、一生忘れないわよね。アンタが結婚しても、彼が結婚しても」
「決して口外しません。義兄に告げるつもりもありません。お願いします」
「ふーん、けなげなこと。麗しき兄妹愛ってかんじ?」
きっと彼女は、この胸に渦巻く気持ちもお見通しなのだろう。
義兄に抱く邪な気持ちはある。
でも、今この胸にあるのはただ、彼に生きてほしいという思いだけ。
ルーシーの生きる意味は義母と義兄。
人の運命なんて知らない。
義兄はここで終わる人じゃない。
ルーシーの命を懸けても、運命を捻じ曲げることだとしても、義兄だけは助けたい。
「おかしなことしたら、すぐ引きはがすから」
「はい」
もう一度、義兄のベッドの傍らに立つ。
医師はてきぱきと処置しながらも二人の会話を聞いていたのか、義兄の頭に再び包帯を巻き、顔がルーシーの正面にくるように調整してくれた。
「わしは助かるなら、なんでもしてほしい。お嬢様の手を尽くそうとする気持ちが嬉しい」
きっと命の修羅場を潜り抜けてきたであろう老医師の皺の中に、優しい瞳があった。
その言葉に軋んでいた胸が少し和らぐ。
ルーシーは全ての気持ちを、放り出しできるだけ頭をからっぽにする。
治癒魔法をのせた魔力を流す時、治るようにイメージするだとか、治って欲しいと祈るような強い気持ちは不要だ。むしろ、なにも考えず軽い気持ちでいたほうがよい。
力を抜いて、できるだけリラックスして。
この状況でどうリラックスすればいいか見当もつかないけど、できるだけ心地よかった状況を思い出す。
例えば、お気に入りのガゼボで陽の光をあびてうとうとしているときのこと。
義母とお茶をしているときのこと。
義兄と治癒魔法を循環させているときのこと。
気づくと涙が頬を伝っていた。
――お義兄様の頭の傷が治癒しますように。
義兄の薄く引き結ばれた唇を前に一瞬、躊躇する。
『その方法は絶対しないって決めている』
義兄は人命救助のためとはいえ、義妹に口づけされるのを意識があったら、拒んでいただろう。
軽蔑されるかもしれない。
嫌われるかもしれない。
それでもいい。
そっと、義兄の薄い唇に口をつける。
カサカサとした感触のするそれに、魔力を流し込む。
「っ!」
肌と肌を重ねて魔力を渡す時より、魔力をコントロールしにくいし、魔力を吸引されて持っていかれる感覚がある。
命の危機に瀕した生物が、他の生き物の生命力を奪ってでも延命しようとする必死さ。
初めてのことで、焦るけど引っ張る力に抵抗して、できるだけ薄く薄く流し込んでいく。
気づくと体に力が入ってしまう。
その度、幸せだった日々を思い出して力を抜き、少しずつ魔力を流す。
鼻で息をすると、血と汗と泥の匂いにまじって、ほのかに爽やかなミントの香りがした。
ルーシーの涙が義兄の生気のない頬にぽたりぽたりと落ちる。
申し訳ないと思いながらも止められない。
そこに汗の粒も混じり始めた。
どのくらい時間がたったのだろう。
トントンと肩を叩かれて、唇を離す。
「呼吸も安定しているし、顔色も戻った。一度、傷口を見てみよう」
医師の言葉に、肩から力が抜ける。
確かに義兄の血色は戻り、呼吸もすやすやと寝ている時のような穏やかなものになっている。
「おお! 治癒魔法とはこれほどのものなのですか? 傷がすっかり塞がっている!」
医師の歓声に、ルーシーはほっとしてその場にへたりこんだ。
「体の内部まで本当に治せたのか?」
「わかりません」
壁にもたれていたアレックスが、ルーシーの傍らに立ち、鋭い声で尋ねる。
「出血は止まった。脈や呼吸も安定している。まずは大丈夫だろう。それより、お嬢様の方が顔色がひどい。今夜はゆっくり休みなさい」
「大丈夫です。あの、手から治癒魔法を流していいですか?」
医師から大丈夫と言われても、背中に打ち身があるというし、アレックスの言うように内臓や骨の損傷などがわからない。
ルーシーにできることはなんでもしたかった。
「好きにしなさい。なんかあったら呼んで。峠は越えたみたいだし、私は休むわ」
アレックスはどこか呆れたような顔をして、救護テントを去って行った。
ルーシーは彼女の信頼を得ることができたのかもしれない。
医師の用意してくれたベッドサイドの椅子に腰かけて、義兄の手を握る。
意識のない手は重たく冷たい。
――お義兄様の体の不調が治癒しますように。
背中の打ち身や目に見えない部分も気になる。
とにかく目的意識さえはっきりすれば大丈夫なはず。
ルーシーは手からそっと治癒魔法をのせた魔力を放つ。
義兄の隣に誰がいてもいい。
生きていてくれるだけで。
そうして、一晩中ルーシーは魔力を流し続けた。
義兄からの魔力が返ってこないことを寂しく思い、そんなことを考える自分を戒めながら。
「おお! 背中の打ち身の痣もすっかり綺麗になっている。恐らく折れた肋骨も繋がっている。流れた血まではなんともならないだろうけど、見事なものですね。あとは目を覚ませば安心かな?」
翌朝、医師が診察をして、お墨付きをもらう。
手放しの賞賛がうれしかった。
「お義兄様には内緒にしてください」
「……元より言うつもりはないわよ」
「お義兄様をよろしくお願いします」
本当は目を覚ますまで付いていたかった。
でも、そんな権利は自分にはない。
未だ眠り続ける義兄をアレックスに任せて、一度邸に帰るという父とともに鉱山を後にした。
「聞いたわ。マークを助けてくれてありがとう……」
伯爵邸に帰ると、一晩中眠れなかったのか憔悴した様子の義母に抱きしめられる。
「このこと、お義兄様には言わないでください……」
「ルーシーの意思を尊重するわ。でも、私が感謝しているってことは忘れないでね」
その言葉だけでルーシーには十分だった。
体を清めて、ベッドに倒れ込むと泥のように眠った。