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01.婚約者

「相変わらず辛気臭い顔をしているな……」


 黒豹騎士と評される強く美しい婚約者が、まるで打ち捨てられた不用品を見るような視線を投げる。

 艶やかな黒髪の奥から、ブラックダイヤモンドのような輝きを放つ瞳で睨まれて、ルーシーの肩が少し揺れた。


 伯爵家の庭にある石造りの立派なガゼボ。

 四方には盛りを迎えたバラが鮮やかな赤からピンクへと春めいたグラデーションを見せている。

 鉄製の優雅な文様を描くテーブルには、ティーポットや色とりどりの菓子が載ったケーキスタンドが並ぶ。


 格上である公爵家の婚約者をもてなそうと用意されたものは、まったく相手に響いていないようだ。


 この時間が苦痛なのは彼だけではない。

 人工的に整えられた美しい景観にも紅茶の香りにもおいしそうな茶菓子にも、ルーシーの心が浮き立つことはなかった。


 ルーシーは穏やかな表情を浮かべながら、目の前の男に神経を集中させる。

 この男の機嫌次第で、今日の午後の数時間が不愉快な時間になるかどうかが決まるのだ。

 そうかといって、この男の機嫌がよかった試しなどないけれど。


「まったく形ばかりの婚約だというのに、なぜ毎月、顔を合わせなければならないのか……。無意味なことだ……」


 優雅な仕草でカップを傾ける彼が小さな声で吐き捨てる。

 春めいた陽気と美しい庭に似合わない不機嫌な顔をして。

 独り言というには大きい声がルーシーの耳にも届く。


「これで婚約者の義務は果たしただろう。さぁ、次はお前が婚約者の義務を果たす番だ。今日は左ももの打ち身と頭痛だ」


 姿だけは美しい男が、紅茶を飲み干すとカップをソーサーに戻す。

 それに続くのはお決まりのセリフ。変わるのは最後の部分だけ。


 近衛騎士団に所属し、三番隊の隊長を務める彼は怪我をすることも多い。頭痛や腰痛などの慢性的な症状に悩まされている。


 ルーシーはそんな彼を癒すような存在ではないが、物理的に治すことはできる。


 テーブルから椅子をひいた彼の前に回り込み、まるで使用人のように跪いて太ももに手をそっと添える。

 濃厚で甘ったるい匂いに包まれて、思わず息を止めた。彼が好んで付けている香水は男らしさを象徴するような匂いで、獣臭くて苦手だ。


 ルーシーに触れられるのが不快なのか、彼の端正な顔が歪む。


 こちらだって、好きで触っているわけじゃない。

 何度、そう言いたくなったことか。


 令嬢達の羨望の的である近衛騎士の白い制服。

 自分の職が誇らしいのか、黒い色彩を惹きたてる服装だと理解しているのか、職務外でも制服姿であることが多い。

 輝きを放つ美しい白は、ルーシーにとっては汚してしまうかもしれないという恐怖の対象でしかない。


 手に伝わる高価な布地の感触にも、鍛えられた筋肉にも、心は何一つ動かない。

 今日もルーシーの中には様々な思いがよぎるけれど、なんとか集中して治癒魔法をのせた魔力を手から流し込んだ。

 彼がルーシーを拒絶する心を反映するように、肉体もこちらの魔力をはじくため、毎回時間がかかる。


「終わりだ。いつもより時間がかかっているな。鍛錬が不足しているのではないか?」


 治癒の終わりを決めるのは彼だ。

 治癒魔法をかけている側は目視で確認できる怪我ではない場合、症状がどこまで収まったかわからない。


 それほど長い時間ではなかったのに、ルーシーは息が切れ、手にじわりと汗をかいていた。

 慌てて彼の太ももから手を離す。

 至近距離で見つめる彼の黒い目がこちらを責めるように細められる。

 なぜだか泣きたい気持ちになった。


「それとも、こちらの気を引きたいのか? 次は頭だ。さっさとしろ」


 気を引きたいなんて思ったことなんてない!

 公爵家の嫡男で実力も人望もあり、ゆくゆくは騎士団長になるだろうと言われる男。

 長身で鍛えられた体に、貴族らしいしなやかさと品の良さを兼ね備えている。

 それに加え、夜会や騎士団で貴族令嬢を虜にしているこの相貌。

 

 残念ながら、ルーシーは彼に胸が高鳴ったことは一度もない。

 ルーシーが好きなのは宵闇のような黒じゃなくて、明るい日差しに映える琥珀色。

 譲れるものなら、彼に熱をあげているご令嬢に譲りたい。

 しかし、ほとんど王命のような婚約なため、その願いは叶わない。


 立ち上がると、椅子に腰かける彼の背後からそっと後頭部に手を添える。

 強制的な婚約に、手綱をにぎる婚約者。


 これ以上文句を言われないようにと、さらさらの黒髪のその奥の頭の中へ治癒魔法を全力で注ぎこんだ。


「ふんっ。やればできるじゃないか。手を抜くな」


 終わりを告げられた瞬間、咳き込みそうになってとっさに口元を押さえる。


 こちらの手の感触が気に食わなかったのか、ルーシーの痕跡を消すように髪の毛を何度もかき混ぜている。

 お礼の言葉は一つもない。いつものことだ。

 治癒魔法が使えるのは稀有なことで、魔力を大量に消費するということは賢い婚約者様の頭からすっぽりと抜けているらしい。


 くらりと頭の中が回転したような感覚がして、思わずテーブルに手を付いた。


 昨晩、あれこれと考えすぎてよく眠れなかったせいだろうか?

 それとも彼は普通にしているように見えたけど、意外と重い症状だったのだろうか?


 通常、治癒魔法は馴染ませるようにゆっくりと相手に送り込む。

 一度に大量に放り込んだことで、体に負荷がかかったのだろうか?

 いつもより魔力を持っていかれた感覚がある。


「あの……」


 どうしてもこれだけは聞かなければと、なんとか体勢を整えて口を開いた。


「なんだ?」


 用は済んだとばかりに立ち上がった彼の眉間に皺が寄る。


「ラムゼイ伯爵家のお茶会に招かれているのですが……」


「ラムゼイは貴族派じゃないか」


 公爵家は王族派。伯爵家は貴族派。近年、他国との諍い事がなく平和なせいか、国内での二大派閥の仲が険悪になり緊張感が高まっている。公爵家出身の王妃殿下の意向で、王族派の公爵家嫡男の彼に貴族派の筆頭公爵家から指名されたルーシーが嫁ぐことになったのだ。


 貴族派の高位貴族達は、自分の娘に利のない婚約を結ばせるのを嫌がり、世情に疎い父以外の者達は指名される前に婚約を成立させていった。要するに、ルーシーは王族派への生贄だ。


 また、宝石を産出する鉱山を複数持つ伯爵家の力を削ぐという思惑もあったのだろう。

 

 表向きは対抗派閥の融和のための婚約だというのに、彼は一歩も譲らない。

 彼と婚約してから、貴族派の夜会や茶会へ出席できた試しがない。

 王族派から招待状が届くこともないので、年頃だというのにルーシーは他家と交流がなかった。


「ですが、何度もお誘いいただいていますし……」


「必要ない。王族派の公爵家に嫁ぐ自覚がないのか?」


 彼からこぼれた大きなため息に、ルーシーは身を竦めた。


「お前は暇でいいな。こっちは忙しく働いているというのに。せっかくの休みも婚約者との交流で潰れる……。ふらふら遊び歩いていないで、治癒魔法の鍛錬に励め。お前の取り柄などそれくらいのものだろう?」


 こちらの戦意を削いだことに満足したのか、彼は艶やかな微笑みを見せた。


「見送りはいらない。くれぐれも公爵家の名を汚すような真似をするなよ?」


 婚約者として見送りぐらいはしなければと思うのに、並べられた駄目出しの言葉と疲労で体が動かない。

 こちらを振り返ることもなく、後ろ手にひらひらと手を振る婚約者をそのままの体勢で見送った。


 その姿が見えなくなると、ふぅっと溜めていた息を吐いた。

 婚約者の獣臭い残り香が漂っていて、一刻も早くこの場から立ち去ろうと一歩を踏み出す。

 目の奥で白い光がチカチカする。これはかなりよろしくない症状だ。


 椅子の背を掴み、呼吸を整える。

 ここで倒れるわけにはいかない。

 周りで心配そうに見守る伯爵家の使用人達の顔が目に入る。

 これ以上煩わせてはいけない。

 ただでさえ、横柄な婚約者に気を使って使用人たちは手を尽くしてくれているのだから。

 平気な顔をして、歩いて自室まで戻らなければ。


「ルーシー」


 婚約者とのお茶会が終わってほっとしたのも束の間、男性にしては高めの声で名を呼ばれて体が強張る。

 椅子から手を放して、なんとか表情を取り繕い、目の前の男に向かい合う。

 なぜ彼はいつも気配がしないのだろうか?


「ごきげんよう、お義兄様」


 鋭利な雰囲気の婚約者とは正反対の柔らかな雰囲気を持つ男と向き合う。

 仕事で忙しいはずの彼は、婚約者との月に一度のお茶会の日に必ず家にいる。


 カーテシーの一つもしたいのだが、立っているのが精いっぱいでできない。

 額に流れる脂汗をぬぐうことも。

 恐らく化粧も崩れてひどい顔をしているだろう。


「また無理をしたのか? あいつにそこまで義理立てする必要はないと言っているだろう?」


 いつも柔らかい色彩に似合う穏やかな微笑みを浮かべている彼の表情が険しい。

 次期伯爵である義兄は、政敵にルーシーが治癒魔術を無償で使用することを快く思っていない。


「申し訳ありません。以後、気をつけます」


 義兄の怒りもわかるが、頭の中は早くベッドに倒れ込みたい思いでいっぱいだ。

 頭を下げた瞬間、くらりとバランスを崩してテーブルに手をつく。


「部屋まで送る」


「いえ……。お義兄様の手を煩わせるわけには……」


「ルーシーがふらふらしていたら、使用人達も片付けができなくて困るだろう」


 彼の額の皺が深くなる。大きな手のひらがルーシーに向けられた。

 ルーシーより優秀な義兄は、体に触れることなく治癒魔法を行使できる。

 彼は怖いけど、魔力はいつも優しくてあたたかい。

 自分に注がれる魔力にルーシーは逆らうことなく身をゆだねる。

 ぷつりと意識が途切れるはざまで、義兄の大きなため息が聞こえた気がした。

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