2 婚約パーティー中止の二日前:最後の授業日
午前中に最後の授業が終わって、わたしとロメオはいつもの場所に向かっていた。
わたしは速足なのに、彼といったらずいぶんとスローペースだった。
「ロザリア。少し、早くないか」
名を呼ばれて、後方にいる彼へと振り向いた。
「あなたが遅いのよ。速くして」
「もう今日で最後だろ? だから校舎を見ておこうと思って」
「あのねぇ……」
ため息を一つついてから、何も分かっていない彼に顔を近づけた。ロメオは大きな目を見開いて、少し退いた。
「そうかもしれないけれど、これから三人で会える日が少なくなるのよ? 学校と、どっちが大事」
「答えるまでもないね。君には敵わないよ」
お手上げとでも言うようにロメオが微笑んだ。そんな彼に、わたしも微笑み返した。
「行こうか」
「ええ」
その小さくて古い教会は、わたしとロメオが通う、このアストリア王立学院からすぐ近くの場所にある。
放課後はいつもここでおしゃべりをしたりお茶をしたりして過ごす。隠れるように。
正面入り口ではなく裏口に回って、周囲を見渡す。誰も見ていないことを確信して、素早く入った。薄暗い小さなその部屋には、もう先客が来ていた。
「ごきげんよう。ロザリア。ロメオ」
同じ制服を着た、ブロンドの長い髪の女の子が、にこやかに言った。
「ごきげんよう! ジュリアンヌ」
「やあ」
挨拶もそこそこに、わたしとロメオはジュリアンヌに向かい合う形で椅子に腰かけた。
テーブルには既にいくつかバスケットが並んでいた。お弁当箱だ。
「今日も作ってきてくれたのね。もうお腹空いちゃった」
「僕もだ。今日、僕もロザリアもずっとジュリアンヌのお弁当を楽しみにしてたんだ」
「そうそう、ここに来る前、学校で話してたのよね」
「お口に合うといいのだけれど……」
ジュリアンヌははにかみながら俯いて、上目遣いで言った。お弁当箱を開けていく。
パプリカとレタスのサラダ。野菜とお肉と卵を挟んだサンドイッチ。綺麗に切って整えられたフルーツ。全体的に色鮮やかで、まるで芸術作品みたい。
三人とも両手を組んで目を閉じると、ジュリアンヌが言った。
「神よ、この恵を感謝します。わたくしたちの食卓を祝福し、与えられたものを大切にいただきます」
「ジュリアンヌにも感謝を。いただきます」
目を開けて、お弁当を食べ始めた。
噛んだ瞬間つい、おいしい、と言葉に出てしまう。わたしも、ロメオも。
「なんだか僕らと君が出会ったばかりの頃を思い出したよ。ほら、ジュリアンヌが初めてお弁当を作ってきてくれたとき」
ロメオがジュリアンヌに言った。
「恥ずかしいわ」
ジュリアンヌが頬を赤く染めた。
確かに、彼女にとっては恥ずかしい記憶かもしれない。
三年前のあの日――そう、入学したばかりの頃、この場所でジュリアンヌが突然言った。お弁当を作ってきた、と。今みたいに顔を真っ赤にして。
そんな彼女に、引いてしまった。侯爵令嬢がお弁当なんかを作ってくるなんて。信じられなかった。
「正直言うと、あのときはおいしくはなかったわ」
焼き過ぎていたり生っぽかったり、味が極端に薄かったり濃かったりで、食べるのが苦痛だった。ジュリアンヌを傷つけないように、言葉には最大限配慮したけれど。
「料理向いてないんじゃないのって遠回しに何度も言ったけど、本当に諦めが悪かったわね。わたしたちの感想を真摯に聞いて、また作り直して、どんどん良くなっていって、今ではこんなにおいしくなった。わたしたちのシェフに負けないぐらい」
「大げさです。うまくなれたのは、酷い味でも二人が食べてくれて、感想を言ってくれたからよ。本当に感謝しているわ」
「いや、君が努力したからさ。心から尊敬しているよ」
ロメオがジュリアンヌの目をまっすぐに見ながら、言った。対して、ジュリアンヌはそんな彼から視線を外した。俯いた顔がトマトみたいに真っ赤になった。
わたしの胸に、針のようなものがチクりと刺さった。
本当に、分かりやすい。この子としては、三人の関係を守るために自分の想いを必死に隠しているつもりなのかもしれないけれど、何もかもバレバレよ。
でも、ロメオはそんな彼女の好意に気付かない。ううん、気付かないようにしてきた、と言った方が正しいかしら。彼が鈍感だということもあるけれど。
「わたしもあなたを尊敬しているわ! これから何があっても、ずっと友達でいたいと思ってる。ロメオもあなたと友達でいたいと思っているはずよ。ねえ、ロメオ。あなたもそうでしょ?」
張り上げた声で、ロメオに同意を求めた。彼は「もちろん」と、頷いた。
それから、ジュリアンヌの手を握った。
「ジュリアンヌ。わたしもロメオも、ずっとあなたと友達よ」
「ええ、そうね」
彼女も、快く頷いた。
こうすれば誰も傷つかない。何度も何度もやり直してきたから分かる。
放っておけば、この二人はすぐ両想いになってしまう。でも絶対にそうはならない。わたしがさせない。
そして、何一つ嘘は言っていない。本当にジュリアンヌを尊敬しているし、ずっと親友でいたいと、心からそう思っている。
でも、どうして?
どうしてわたしは今、心から笑えていないの?
どうしてわざわざ笑顔を作っているのかしら。偽りの笑顔を。ジュリアンヌはこんなに可愛く、純粋に笑っているのに。
「……けれど、二人にわたくしのお弁当を食べてもらえるのも、もう最後かもしれないのね」
この場に沈黙が流れた。
今までは学校という場所を利用して、こんなふうにこっそり会うことができた。でも、学校を卒業してしまえば、中々そのようなことはできない。
なぜなら、わたしとロメオは、ジュリアンヌと堂々と会うことができないから。
ジュリアンヌのカヴァレット家とロメオのモンタローネ家は代々争い続けていて、関係は良好とは言えない。
今から千年も前――皇帝が絶対的権力を握っていた時代に、教会が誕生した。それが数百年もの年月をかけて力をつけていき、今では皇帝の権威を揺るがすほどになり、権力を巡って争っている。その影響は貴族にも及んでいる。各家が皇帝派か教皇派に分かれて対立している。わたしたちの家もそう。
カヴァレット家は教皇派で、モンタローネ家は皇帝派。我がローゼンベルク家も皇帝派で、モンタローネ家と良好な関係を保ち続けている。もしもモンタローネ家が戦争を始めたらローゼンベルク家は支援に回るつもりでいる。わたしとロメオの関係も、この絆をより強固にするための政略結婚だ。
「最後じゃないよ。僕が最後にさせない。何度も言っているじゃないか」
静寂を破ったのは、ロメオだった。
「僕の代でモンタローネ家とカヴァレット家の関係を改善してみせる。前にロザリアが言っていたように、両家の経済的な結びつきを利用すれば、できるかもしれないんだ。必ずやり遂げるよ。僕らの友情のために」
「そうよ! ロメオがきっとやり遂げてくれる。いつかわたしたちが堂々と会える日が必ず来るわ!」
その目を闘志に燃やすロメオと共に、ジュリアンヌに強く訴えかけた。
多分、無理だと思うけれど。
カヴァレット家の次の当主は、ジュリアンヌの兄であるあのリヴォルトだわ。あの性格だもの。関係改善は不可能だわ。彼が平和的に解決したという話を今まで耳にしたことは一度もない。毎回、彼は会うたびにロメオに因縁をつけてくる。剣術でも武術でもロメオに勝ったことがないのに。
ロメオはそんなリヴォルトと理解し合えると本気で思っている。そう考えるようわたしが誘導したから。彼をその気にさせてしまった手前、「無理」なんて口が裂けて言えないわ。
「ええ、分かっている。分かっているわ」
ロメオの本気の訴えとわたしの偽りの訴えに心打たれたのか、深く頷くジュリアンヌの目が涙に滲んでいた。
本当に、この子は純粋なのだから。彼女も、他のカヴァレット家の人たちと同じだったらよかったのに。それなら嫌いでい続けられたのに。
最初、わたしは彼女に冷たく接していた。気に食わなかったから。
三年前、ロメオにこんな事を言ったのを思い出した。
「ねえロメオ。どうしてあなたはあの女と仲良くしてるわけ!? カヴァレット家の人間よ!?」
「……あの女って、ジュリアンヌのことかい?」
「そ、そうよ」
このとき、ロメオは不快感を露わにしていた。今思えば言葉遣いがあまりよろしくはなかったわ。それぐらい、感情的になっていた。
「確かに、彼女はカヴァレット家の人間かもしれない。でも、ジュリアンヌはジュリアンヌだ。人柄まで否定するのは違う」
「……なによそれ」
「君も、彼女と話してみれば分かるさ」
「まっぴらごめんよ」
カエルの子はカエルであるように、カエルの妹はカエルなのよ。
兄のリヴォルトがあんな性格なのだから、妹もロクな人間であるはずがないわ。
愚かだった私は、ジュリアンヌとはまともに話したことがないにもかかわらず、そう決めつけていた。彼女を無視したり、「そんなことも分からないの?」ってヒドいこと言ったりしていた。本当に最低だった。今、わたしはあのときのわたしが嫌い。でも、当時のジュリアンヌは言った。
「あなたがわたくしのことが嫌いでも構いません。しかし、わたくしはあなたのことが嫌いではありません。嫌なことをされたわけではないもの」
「……してると思うけれど」
「いいえ、された覚えはないわ」
首を横に振ってから、ジュリアンヌはにこりと笑った。
そこから距離が縮まっていった。会話が増えて、お互い笑い合うようになって、一緒に過ごす時間が長くなった。いつの間にか、かけがえのない友達になっていた。
「わたくし、ロメオならきっとやり遂げてくれると信じているわ。けれど、学生生活はもう最後であることには変わりないわ。それが、とっても寂しいの」
「ええ、そうね。わたしも寂しいわ」
少し間が空いて、ジュリアンヌが口を開いた
「ねえ、覚えてらっしゃる? わたしたち三人で初めて街へ遊びに行ったあの日」
「もちろん覚えてるよ。ジュリアンヌが変装したのはあの日が初めてだったね」
「そうそう、貴族感がぜんぜん抜けていなくて、何だかおもしろかったわ」
「恥ずかしいわ」
ジュリアンヌがまた顔を赤らめた。
わたしたちは三人の思い出話に花を咲かせた。大抵は学校生活と、平民に変装して街に遊びに行った話。こんなことを誰がいつ始めたのかは分からない。そんな趣味が学院生徒の間で定着しているということを入学して初めて知った。どこで仕入れたのか、実際に平民が着ていた服とかを校内で販売している生徒がいたくらい。
最初は抵抗があった。平民に変装するなんて、まさか王立学院の生徒がそんなことをしていたなんて、信じられない。クラスの女子生徒たちと軽蔑していた。ところが、一緒にそんな話をしていた女の子がほんの数日後には平民の格好をしていた。裏切る子が多くて、気がつけばわたしは少数派になり、とうとうロメオに誘われて、わたしもそちら側になってしまった。
中には流されずに軽蔑し続ける人たちもいる。例えば、リヴォルトとか。
家族にバレたら一巻の終わり。それはジュリアンヌだけじゃなくて、わたしもロメオもそう。きっと、お父様とお母様はショックを受けるわ。そうだと分かっているのに、なぜだかやめなかった。ううん、やめられなかったと言った方が正しいかしら。
恐怖や不安から来る緊張感すら楽しんでいた。
「提案なんだけど、今から街に出かけるのはどうかな。時間もあるし、多分今日が最後だ」
「い、行きたいわ! ロザリアは、どうかしら」
ジュリアンヌが輝かせた顔で、わたしに迫って来た。
一年生の頃のジュリアンヌは「もしお兄様に知られてしまったら……」と、表情を恐怖に歪ませていた。カヴァレット家だし、彼女は絶対に来ないと思ったけれど、しばらくしてから、意外なことにジュリアンヌの方から行きたいと声をかけてきた。今みたいに。まんざらでもない様子で言っていた。
思い出して、つい噴出してしまった。
「どうされたの?」
「何を思い出してたんだい?」
「ううん、何でもないわ。行きましょうか」
こうして、わたしたちは街に行く事になった。
着替えを済ませて外へ出た。裏口から回って正面玄関へ来ると、ちょうど神父様が花壇に水をあげていた。わたしたち三人の存在に気付いて、「おや」と顔を向けてきた。
「また平民ごっこかな」
神父様の表情も口調も、相変わらず穏やかだわ。
「神父様、こんにちは。最後に思い出を作りに行くの」
「おお、そうかそうか。それは結構。くれぐれも君たちの家族にバレんようにな」
「ええ、もちろん。ではまた」
神父様に手を振って、わたしたちは教会を後にし、街へと向かった。
いろんなお店を回って、たくさん美味しいものを食べて、飲んで。充実した楽しい一日を過ごすことができた。最後にいい思い出を作ることができた。
その七日後、ロメオが亡くなった。




