1 婚約パーティーの朝
夢を見た。我が家が戦争へと向かっていく夢だ。しかも、敵は婚約者のロザリアの家――ローゼンベルク家だ。そんなことがありえるわけがない。
ただ、やたら現実味のある夢だった。寝ていたはずなのに、とても疲れた。本当にその体験をしかのようだ。
最近、恐ろしい夢ばかり見る。自分が死ぬ夢。誰かを殺してしまう夢。我が家が戦争を始める夢。そして、ロザリアが殺される夢。昨日だって……いや、昨日はそんな夢を見ていない。では一昨日だったか。それも違うような気がする。こんな夢をいくつも見た記憶があるのに、実際には昨晩しか見ていないような気もする。おかしなものだ。
きっと疲れているんだろう。身体が重たい。十分な睡眠を取ったはずなのに。
今夜はロザリアとの婚約パーティーだ。無様な姿は見せられない。
ノックの音が聞こえてきた。いつも通り従者だろう、と思ったが、今日は違った。
「ロメオ。朝からすまない。渡したいものがある。準備ができたら降りてくるように」
「はい、父様」
ドア越しの会話は即座に終了した。父様の足音が遠のいていく。
渡したいもの……いったい何だろう。わざわざ父様からこちらに出向くなんて。よほど大事なものに違いない。そしてあの重々しい口調。もらって喜ばしいものでないような気もする。
準備を終え、大広間へと赴いた。
テーブルには既に両親が腰かけていた。まだバルヴォーリオの姿はない。
朝のこの時間が唯一、家族だけの時間だ。たいていの場合、大切な話は朝食時に行われる。が、その朝食がまだ運ばれていない。
父も母も、今日は会話がなく、表情が暗い。
「父様、母様、おはようございます」
「おはよう、ロメオ」
「おはよう。座りなさい」
「はい」
母様に笑顔はなかった。父様はいつも以上に声が重たい。
僕は主席の横に、母様と向き合う形で腰かけた。
「渡したいものがある、と言ったな。その、実はだな。ロザリアから、手紙を預かったのだ」
「ロザリアから?」
ロザリア・ローゼンベルク。
侯爵家であるローゼンベルク家の令嬢だ。そして僕の幼馴染であり許嫁でもある。
ローゼンベルク家と我がモンタローネ家は教皇派であり、代々良好な関係を築いている。
ロザリアとは現在婚約関係にある。王立学校の卒業と同時に、結婚する予定だ。
そんな彼女からの手紙。
なぜ、二人ともそのような顔をしているのだ。まるで、誰かを憐れむような……ただ、その憐れみは、一体誰に向けられているのだろうか。僕でないような気がする。ここにいない誰かに向けられているようにも思う。
「内容は、お前の目で確認しなさい」
懐から取り出したそれを差し出され、受け取った。
『ロザリア・ローゼンベルク』と、確かに彼女の字で書いてある。
従者からレターナイフをもらい、封印を切った。
開封すると、中から腐ったような臭いが鼻をついて、一度顔をしかめた。
そのまま紙を取り出して広げた。
『拝啓、ロメオ・モンタローネ様
このような形で筆を執ることは、わたし自身も少しばかり残念に思います。しかし、真実を伝えることこそが礼儀であり、これ以上無駄な時間をあなたに費やすことはわたしにとっても不本意ですので、どうかお許しください。』
『無駄な時間』という言葉が出てきたとき、心臓が脈打った。
嫌な予感が的中していくような感覚があった。
『長い間、わたしなりに考え続けてきましたが、結論に至ったのは、あなたとの未来を共に歩もうとするたびに、心の奥に拭いきれない不安が広がるということです。その立場や振る舞い、そして周囲との関わりが、どうしてもわたしが求めるものとはかけ離れているのです。この先、共に歩んだとしても、その道がどれほど厳しく、暗いものになるかを考えると、どうしても進むべきではないと感じるようになりました。あなたが歩むべき未来に、わたしの姿はありません。
また、わたしたちの共通の友人であるジュリアンヌのことですが、実は彼女があなたに好意を寄せていることにわたしは気づいておりました。彼女としては、わたしたち三人の関係を守るために、その感情を隠しているつもりだったのでしょうが非常にわかりやすいものでした。それにもかかわらず、あなたがその事実に全く気づいていない様子は、わたしにとって滑稽ですらありました。
加えて、わたしは彼女のことをずっと嫌っておりました。あなたには気付かれないように振る舞ってきましたが、彼女の無教養さや粗野な言動に対して、心の中ではいつも軽蔑していたのです。彼女のような低俗な人間と親しく接しているあなたを見るたびに、わたしはあなたの判断力に不安を感じざるを得ませんでした。
彼女がわたしたちに作ってきたあの粗末なお弁当を覚えていますか? あの無様な手作り料理を食べさせられた時、わたしは思わず笑いをこらえるのに苦労しました。それを嬉々として食べるあなたの姿を見て、わたしが何を望み、何に値するかを改めて考えさせられました。
ジュリアンヌのような低俗な存在とあなたが親しく付き合っている様子を見て、わたしは自分の判断がいかに誤っていたかに気づかされたのです。彼女のような無教養な者に気を配るあなたのような人と一緒にいることは、わたしの名誉にふさわしくありません。
これ以上、時間を浪費したくはありませんので、この婚約をここで終了させていただきます。今後、わたしの人生においてあなたが関与する余地はありませんので、どうかお心に留めておいてください。
どうかお身体にはお気をつけて。そして、もう二度とわたしの前に姿を見せないことを強くお勧めいたします。
敬具
ロザリア・ローゼンベルク』
言葉が出ない。
開いたままの口をひくつかせ、あっ……あっ……と言葉にならない言葉を出すのがせいいっぱいだった。
これは……これは、本当にあのロザリアが書いた手紙なのか。
確かに彼女の字ではある。誰かに書かされたものではないのか。
「あ、あのっ……父様……」
「なんだ」
「これは、本当に、ロザリアからの手紙なのですか」
父は瞑目し、「そうだ」と、静かな声で力強く言った。
これが真実というのならば、今まで僕が見てきた彼女は、一体何だったんだ。
彼女は――あの心優しいロザリアは、変わってしまったのだろうか。それとも、これこそが彼女の本性というのか。
ほんの最近まで、彼女とジュリアンヌは二人笑い合っていたではないか。
そう、ジュリアンヌがお弁当を作ってきてくれたあの日。たった二日前ことだ。君はおいしそうに食べていたではないか。感謝の言葉を述べていたではないか。
あの言葉も微笑みも全て、ウソだったというのか。心の中ではずっと僕らを馬鹿にしていたというのか。友人の振りをして内心ではジュリアンヌを見下し、嘲笑っていたというのか。
知りたい。この目で、耳で確かめたい。彼女の本心を。
直接会うことはできないのだろうか。あと一度だけでも話をできないだろうか。
「ロメオよ……非常に言いにくいが、ロザリアはお前とは二度と顔を合わせたくないと言っているそうだ」
心の内を察したのか、父が言った。
「そんな……納得ができません。彼女が僕を心の底から拒絶していることが事実ならば、受け入れます。しかし、手紙で、急に、こんな……」
「ロメオよ。戸惑うのも無理はない。しかしだな。ロザリアはお前に会いたくないと頑なな態度なのだ」
「ならば、その理由を教えてください! だって、モンタローネ家とローゼンベルク家の縁談なのですよ!? 僕らが幼少の頃から決まっていた事で、それが相手の……しかも令嬢の感情一つで破談になるものなのですか!? はいそうですかで済む話なのですか!?」
「……」
父も母も、押し黙ってしまった。何か、隠しているのか。
「父様! 答えてください!」
「……そうだ」
絞り出すような声で、父は言った。
「お前の言う通りだ。我々は相手の要求を無条件で全て受け入れた。それだけだ」
「そんな……一体なぜ!?」
「さきほど言った通りだ。もう決まったことだ。覆りはせんよ。残念だが、彼女のことは諦めてくれ」
「話にならない」
大広間を出た。とにかく一人になりたい。このままじゃどうかしてしまいそうだ。いや、もうどうかしているのかもしれない。
外へ出ると、やはりと言うべきか、従者が護衛を連れてついてきた。
そんなもの僕には必要ないというのに。
目的もなく歩き続けた。しばらくすると、到着した。目指して来たわけでもないのに。
そこは教会だった。小さく、古びたそれは僕とロザリアとジュリアンヌの思い出の場所だ。
今まで三人で堂々と会うことはできなかった。だから学校帰りは毎日のようにここでひっそりと会っていた。
扉に手をかける。従者の足音が聞こえた。
「しばらく一人にしてくれないか。頼む」
足音が止まった。
「分かりました。ここでお待ちしております」
無言で中へと入った。やはり誰もいない。
前へと進んだ。カツカツと自分の足音が鳴り響く。
祭壇のすぐ隣にあるドアの前に立った。この裏には小部屋があって、そこから裏口に繋がっている。
ドアノブに手をかけ、引いた。
もしかしたら――と、かすかな希望を抱いてみたが、誰もいなかった。
何を期待しているのだ。馬鹿馬鹿しい。
簡素なベンチに腰かけた。
この場所での思い出が蘇える。三人でジュリアンヌのお弁当を食べたのは二日前、あのドアの向こうの部屋だ。三人、笑い合っていた。
『彼女がわたしたちに作ってきたあの粗末なお弁当を覚えていますか? あの無様な手作り料理を食べさせられた時、わたしは思わず笑いをこらえるのに苦労しました』
いい思い出と手紙の内容が何度も頭を過り、反芻した。
彼女の手によって書かれた全ての言葉が刃に変わり、僕の心をズタズタ切り裂いていくようだった。
どれだけの時間が経っただろうか。数十分のような気もするし、何時間も経ったような気もする。
足音が聞こえた。誰かの気配も感じた。
しびれを切らして従者が様子を見に来たのだろうか。と最初は思ったが、違う。
出入口の扉ではなく、祭壇横のあのドアからだった。
誰かが、入って来ている。裏口の存在を知っている人間は限られてくる。
ドアが開いた。
「ロメオ」
姿を見せた彼女は、僕のよく知る人物だった。