閑幕 世界の裏側に育つ芽 ②
お久し振りです。
今回は円回。
良善は彼女に何をするつもりなのか。
少しだけ悲恋的な感じになっております。
※本日18:00頃にもう1話投稿します。
司達が見上げる空が歪む。
まるで水面に石を投げ込んだ様に波紋が広がり、そこから〝ルシファー〟の底面が現れて降下して来た。
「うわぁ……すごい」
「そうだね、じゃあ行くよ。ほら掴まって」
「あッ! は、はい!」
良善に処置をされた夜空が美紗都の手を掴みながらあんぐりと口を開いて〝ルシファー〟を見上げている。
子どもらしい無垢な反応に苦笑しつつ、美紗都は夜空を抱え上げて空中を蹴り上がる様にして底部ハッチへ向かい、他の面々も順次それに続く。
そして……。
「あ、あの……申し訳ございません、司様。その……重たくはありませんか?」
顔を赤らめて司におんぶされる曉燕。
この世界の司の治療に全神経を使い果たした彼女は、良善に治療を交代して貰ったものの、もう自力で立つことさえままならないほど疲弊していた。
そんなになるまで別世界の自分を治療してくれた。
司としてはこれくらいのお礼は当然。
ただ……。
「大丈夫だ……気にすんな」
長身な曉燕とはいえ、その体重は司からすれば何ら問題無い。
しかし、背中に感じる大きな二つの圧がどうしても司を苛み、疲労のせいか少し熱っぽい吐息が首筋に掛かると全身がゾワゾワとしてしまう。どこを触っても柔らかくスベスベとした感触も非常によろしくないし、何より曉燕がちょっと嬉しそう身を預けて来るので健全な青少年は赤らむ頬はどうしようもないながらも一度強めに咳払いして良善を見た。
「じゃあ、先に行くんで……そっちの二人はお願いします、良善さん」
「あぁ、承知した」
何やら少し暗い眼差し。
ただ、司はそれ以上言葉は続けず踵を返して飛び去って行き、それを見送った良善は振り返る。
「さて……ん? おや? あっちの司は君の司ではないよ? 曉燕と密着していたからとヤキモチを焼くのは筋違いだ」
「なッ!? ち、違います! そんなのじゃありませんッ!!」
赤面して慌てて顔を背ける円。分かっていても脳が混乱してしまうのだろう。
何故なら、あちらの司も司であることには変わりなく、そして自分のことを本当に気に掛けてくれていることがしっかりと伝わって来ていたからだ。
「フフッ……自分の感情に混乱している様だね。まぁ、無理もない。二十一世紀の常識に生きる君達にはまだ多時元の概念が存在しない。自分という存在が時元で区分けされ無数に存在する……それをこの時代で口にしたら殆どが鼻で笑われることだろう。君の困惑は正しい」
青い若者に悪意の無い苦笑を漏らす良善。
しかし、その顔がスッと笑みを消して真面目な顔になる。
「さて、改めてだ。円嬢、申し訳ないがここで君達の進退を決断して貰わねばならない」
「え? わ、私達の……進退?」
「あぁ、そうだ。君だけでなく、君の隣にいる〝君の司〟に関することも君に決めて貰う必要がある」
「き、君のって……真面目な話をするんなら茶化すのはやめて下さい!」
「あはは……別に茶化している訳ではないんだがな。とにかく、君には私からまず三つの提案をさせて貰う。どれを選んでくれても構わない。君はこちらの司のお気に入りだからね。私としては珍しいVIP対応を約束するよ」
コートのポケットに手を入れ微笑む良善。
ただ立っているだけでも緊張を誘うその異質な存在感を放ちながらの丁寧な対応は、逆に言い知れぬ不安を掻き立てられてしまい円は妙に喉の渇きを覚えた。
「三つの……提案。ま、まずは全部聞かせて貰えますか?」
「うむ、そうだね。まずは何より確認が大事だ」
良善は片手を出して指を一本立てる。
何気ない動作なのに円は心臓を握り抑えられている様な息苦しさを感じた。
これから出される三択が自分の一生を決める……不安と恐怖ですぐ隣で目を閉じて横にされている司に縋り付きたくなる。
「まず一つ目は〝このままこの側流世界に二人で残る〟だ。これは本来なら一番普通。自然ななりゆきだと言える。そこにいる司は元々この世界の住人だし、本流世界と混ざってしまったとはいえ、君のルーツもこの世界を基にしている。もっとも収まるべき所に収まる選択肢。だが、残念ながら私はこの選択肢は絶対に選ぶべきではないと忠告するよ」
「そ、それは……一体何故?」
「この側流世界は、すでに〝ロータス〟によって〝悪とは殺すべき存在〟という極端な勧善懲悪思想が定着させられている。別にそれだけなら問題無い。本流世界への影響も真っ当な人間には特段影響は無く、精々犯罪者がその罪に対して過剰な罰を受けたり、比較的死刑判決の数が増えたりする程度のモノだろう。だが、問題なのは君と君の司が〝その殺すべき悪〟であるというレッテルを貼られているということだ。一度改変された側流世界は永遠とその形で巡り続ける。私も側流世界を改変する方法は知っているが、改変された世界をさらに改変したところで元に戻ることは無いし、より酷い有様になる可能性の方が多いし、本流世界への影響がより深刻になる恐れもある。つまり、君達はもうこの世界で一時の安息も無いと思った方がいい」
「…………」
顔面蒼白で絶句する円。
ただ、恐る恐る振り返る自分が住んでいた世界。
ここに住む全ての人々は自分達を見つけた瞬間、殺しに掛かって来ると言うのか?
信じがたいし、何一つ実感はない。
だが、ここ数時間の実際に目の当たりにした偽りようのない現実が円の首筋に見えないナイフの幻影を漂わせる。
「言っておくが、君のご両親とて当然この影響を受けているよ? 一人娘だろうが未来の婿だろうが関係ない。『まさかお前達が……』と、多少認識に矛盾を感じながらも君達が生かしておいていけない存在にしか見えず、自らの手で始末しようとするか当局に引き渡すことが、人としてなさねばならないことだと思ってしまうだろうね」
「そ、そん……な……」
社会から、親から……いや、世界から捨てられてしまった二人。
しかも自分達はおろか、捨てる側にも落ち度があるとはいえない皮肉。
当然、納得出来る気持ちの落としどころなどどこにもなかった。
「おかしい……おかしいじゃないそんなの! 私達何も悪い事なんてしてない! 私も! 司も! 何一つ後ろめたいことなんて無く生きて来たつもりですッ! 少なくともこの先一生まともな生活が出来なくなる様な目に合う謂れなんて無いです! それなのになんでッ!? なんでこんな仕打ちを受けないといけないのッ!?」
「君達が品行方正に生きてきたことは承知しているがね、生憎そんなことは関係ないのだよ。君達は、小賢しくも〝それをするだけの力〟はある者達の憂さ晴らしの対象に定められてしまった。怨敵と同じ顔をしている君の司とその恋仲である君……奴らは今頃我々のせいで君達を嬲り殺しに出来ず不完全燃焼だろうが、それでも君達二人にはもうまともな生活は送れないというところで溜飲を下げているだろう。そもそもその憂さ晴らしもその本質は単なる時間稼ぎ……いや」
良善はそこで不自然に言葉を切る。
確かに当初ここでの戦闘は、品格世界から未来へ逃げる本隊のために時間を稼ぐためだろうと見ていた。
しかし、実際は最初から達真の目論見だった可能性が浮上している。
最初からここでカミングアウトするつもりだったのか。
それとも予想外に司の成長が進み、土壇場で予定を変更して企みを曝け出したのか。
真意は定かでは無いが、あの男の場合どちらかと言うと急遽予定を変更したという方が何となく収まりはいい様に感じられる。
ただ、この件は今目の前にいる二人にはまだ関係ないので、良善は胸の内での考察に留めておいた。
「んんッ! すまない。とにかく君達はそういう輩に目を付けられたということだ。そして、君達が何故こんなにも絶望しなければならないのか。その理由、君達の罪……それは強いて言うなら非力であるということだ。弱いということはだね……罪なのだよ。弱いくせに強い者に逆らおうとしたり、弱いくせに強い者に対して自分達の権利を主張したり、弱いくせに強い者を楽しませる娯楽にならないことは……罪なのだ。弱者は常に強者の生活を豊かにする家畜であり奴隷でなければならない。何故なら……弱いんだからね」
「――ッッ!?」
円の整った顔立ちに全くと言っていいほど似合わない歪んだ怒相が浮かぶ。
そんな話があってたまるか。力があれば何をしてもいいなんて、そんなのは……。
「――だったら、その逆もまた然り……ですよね?」
良善は自分の口角が吊り上がっていないか心配だった。
絶望に俯いてから片手で顔を覆いながら再び良善を見上げた円の瞳は、実に濃く濁った血色が浮かんでいた。
「あの〝ロータス〟というヤツらだって、もっと……もっと強い存在がいたら、その強い存在のおもちゃにならないといけませんよね? あなた達なんですか? あなた達は……あいつらを弱い者として見れる人達なんですか?」
一言一言がまるで血肉を食い千切りながら発せられているかの様に噛み締められている。
おおよそ常人が抱いていい許容量を超えている憎悪。
(こういうのも運命というのか? やはり君は司と結ばれるべくして産まれて来た子だよ)
正しく生きて来たからこその反動なのかもしれない。しかし……まだ弱い。
それはまさに一時の気の迷い。ここで手を緩めてしまえば、きっとこの少女は少し時間が経って気持ちが落ち着きを取り戻すとその怒りをなだめてしまうだろう。誰かが悪いことをしていれば自分だって同じことをしてもいいなどと、そんなみっともない考えをしてはいけない。一般社会に生きる真っ当な人間としての常識が働いてしまう。
無論、才能の片鱗を見た良善がそんなことを許す訳が無かった。
「その問いは一旦保留だ。まずは先に出した話を処理してからにしよう。とりあえず、今のが提案の一つ目。次に二つ目の提案だが、我々の同志となり共に行く……というモノだ。この案にはいくつか君にメリットを与えることが出来ると思う。その中で一番大きなのは、君の司を痛め付けた奴や君の産まれた世界をこんな風にした〝ロータス〟への直接的な復讐の機会を提供出来るという点だ」
「…………」
無言の円。
しかし、良善には彼女が奥歯を噛む力を増したのを頬から喉にかけて筋の動きから見て取れた。
「ただ、同時に大きなデメリットも存在する。君が我々と共に来るとなれば、当然そこにいる君の司が同伴することになるね?」
「当たり前です。まさか、ここにいる司は戦う力が無いから連れて行けないということですか? なら、私がそちらへ行くことはあり得ません」
「だろうね。だったらこの案も難しい……悪いが連れて行かないどころではないんだ。君の司をあの戦艦に乗せる訳にはいかない。私としては出来ればここで君の司を殺しておきたいくらいなんだ」
「なッ!?」
一体どういうことなのか?
曉燕があんなに疲弊するほど治療をして、今はまだ眠っているが随分と呼吸も穏やかで峠は越えた感のある隣で眠る司。大切な恋人にここまでしてくれた良善達に円は感謝してもし切れない恩義を感じていたのに、それがここへ来て殺しておきたいという意味が分からない。
「あぁ、待ってくれ。ちゃんと理由を説明する。円嬢? 君はSFに関する知識は人並みにあるかな?」
円が取り乱す前に話を進める良善。
その内容は、円自身にも降りかかった二人の同一人物がお互いを認識し合うことで生じる対消滅の掻い摘んで解説。
円もおおよそはその意味を理解出来た。
「今、あそこにある船の中にいる司はここにいる司をもう一人の自分だとすでに認識してる……でも、ここにいる司はまだあそこにいる司をもう一人の自分だと認識してお互いに向かい合っていないから対消滅は起きていない……ということですか?」
「うむ、地頭が良くて助かる。細かな補足はこの際省きその認識でいいとしよう。悪いがあっちにいる司は私にとって極めて重要な存在だ。現時点では先ほどいた他の少女達全員と天秤にかけて議論の余地無く彼の方が優先度が高い。そこにいる君の司は、あっちの司にとって専用の即死爆弾の様なモノなんだ。機会があれば排除したいと思うのはそうおかしな発想ではないだろ?」
「――ひぃッ!? ぐッ!!」
円は隣で眠る司を庇う様に抱き着く。
良善にその気は無くとも、彼の言葉は一言一言が常人とは比べ物にならないほどに重い。
円には今すぐにでも良善が手を振り上げてここにいる司を始末する最悪な図がはっきりと脳裏に浮かび上がっていた。
「い、いやッ! ダメッ! じ、じゃあ! なんでこの司を助けたのよ!?」
「君を想う我々側の司の心情に配慮しただけだ。自分専用の即死爆弾であることを承知の上で君のために別世界の自分を助けに行った彼の心意気は私の様な人間から見ても見事であると感心したからね。そこまで必死に君のために動いたのに、君が君の司とちゃんとお別れも言えない様な死別をしたら、我々側の司にも傷が残ってしまう」
「う、うくぅ……ッ! な、なら……もう諦めて下さいッ! 私はそっちには行きませんッ! この世界でも生きていけないなら、あなた達が去った後に二人でこのビルから飛び降りますッ!」
司の胸に顔を埋めて震える円。
健気な姿ではあるが、もうその身体はこんな低層ビルから飛び降りた程度で死ねる身体ではない。
この二人が宣言通りにこの後飛び降りたとして、彼女に待っているのは潰れ散った恋人の血肉を浴びて傷一つ無く自分だけ生き残るという残酷過ぎる結末。
(そこまで行けばきっといい仕上がりになるのだが……今度はこっちの司がキレてしまうだろうな)
内心で苦笑する良善。
ここまではほぼ一言一句違わず予想通り。
彼の本命は最初から……。
「そうか……ならば、もう君に残された選択肢は最後の一つだけだ。この選択肢は君と君の司を引き離すことはない」
「えッ!?」
一縷の望みに顔を上げる円。
感情を何度も上下させられ、円の精神もすでに冷静な判断力が保てなくなり始めている。
だが、それでも今回はすぐに警戒心が働いた。
自分に残された最後の希望を提示すると言うには、良善の顔はあまりにも邪悪な微笑を浮かべていたからだ。
「わ、私に……何を、しろって……言うんですか?」
「フフッ……私に、か。正確に言えば君達に、なのだよ。実はもうそちらとは話が付いているんだ」
「え? そちらって……」
「ごめん、円……心配、掛けた」
「――ッ!?」
円の肩に手が掛かる。
弾かれる様に振り向いたそこにあったのは、辛うじて目を開けたこの世界の司の精一杯の笑みがあった。
「あッ、あぁ……ッ! つ、司ぁッ!!」
大粒の涙を零して飛び込む様に抱き着く円。
そんな彼女の頭を弱々しながらもなんとか撫でるこの世界の司。
そして、まだかすれが残る声でこの世界の司は口を開き始めた。
「ま、円……よく、聞いて。俺も事情は……そこのおじさんから聞いてる。頭の中で会話するなんて初めての経験だったけど、もう、状況的に信じるしか……ないみたいだ」
頭の中での会話。
それは良善が最初の曉燕に治療される彼と接触した時のこと。あの時のこの司に他人の声を認識する余力などありはしなかったが、良善にとっては直接人の脳と会話することなど造作も無い。曉燕に治療箇所のレクチャーをしつつ密かに対話を行っていた良善は、もう一人の司の存在、彼と円が置かれた状況を説明して極めて卑怯な提案を持ち掛けていた。
「円嬢、君には我々側の司や美紗都の様にすでに特殊な力の土台は出来ている。その力を使い、君の司を別の存在へと変換して自分の身体に取り込みたまえ。そうすることで君達は永遠に離れることは無くなり、こちらとしても二人の司が目の前でお互いを認識し合っても存在のバランスが一変していることで対消滅は起こらず、安心して君達を迎えることが出来る。双方の落し処としてはこれ以上にない妥協点ではないだろうか?」
「えッ!? ち、ちょっと待って! 司を取り込む!? 何を言ってるのよ!? 意味が分からないわッ!!」
「分からないと言うことは無いだろう? 君もちゃんと見ていたはずだ。〝D・E〟の人の域を超えた力を。それが君にもすでに備わっている。そして、恐らく対消滅寸前までいった経験が引き金となるであろう君の固有能力なら……可能なはずだと私は見ている」
淡々と話す良善と絶句する円。
すると、言葉を失っていた円の身体が強引に引き倒される。
「ごめん、円。でも……俺にとって君が生きていてくれることが第一だし、おかしくなったおじさんやおばさんがお前を目の敵にする所なんて死んでも見たくない。二人と会わずにって言っても、もうこの世界で俺達はまともに暮らせない。だったら……俺はお前を少しでも安全に暮らせる場所に行かせたい」
「つ、司……」
胸元に円を抱き寄せつつ、この世界の司はそこで一度良善の方を見た。
「ラーニィドさん……さっき頭の中で話した約束、忘れてないですよね?」
「もちろんだ。〝鷺峰円には生殺与奪の権利及び戦闘への参加は自己意志で決定する権利を永久に付与すること〟〝鷺峰円には〝Answers,Twelve〟に対する不信感を抱いた場合に同組織を妨害なく離脱することを容認し、離脱以降は完全不干渉を厳守すること〟〝鷺峰円に衣食住全てを最低文化レベル以上で充足させること〟君がこちらの提案を呑んだ以上、私も誠意を持って対応することを誓おう」
「俺、そんな難しい言い回しをした覚えはないんだけど……」
「フフッ、別に意味を歪曲している訳ではないだろ? それにしても、君の肉体を対価にこちらへ要求するモノが全て円嬢に関することとは……奴隷でももう少し自己を主張するのではないか?」
「失礼なこと言わないでくれません? 愛に主従なんてありませんから」
「フッ! 歯が浮く様なセリフだがこの状況でそれを言えるというのは君が男として立派であることを証明するのかもしれないね」
「待って! 勝手に二人だけで話を進めないで! 何!? 何の話をしてるの!? 身体を差し出すってどういうこと!? 私に取り込ませるって、司が死んで私の養分にでもなるってことなの!? そんなの絶対に嫌だからねッ!?」
「円、お前だって分かってるだろ? ここはもう俺達が生きていけない場所にされた。生き永らえるためにはラーニィドさん達に付いて行くしかないけど、俺はこのままじゃ一緒には行けない。俺は円に生きていて欲しいし離れたくもない。お前を一人で預けるほどこの人達を信用してる訳でもないけど他にやりようがない。どういうことなのかまだよく分からないけど、お前とずっと一緒に居られるならお前に取り込まれたってかまわない……身体なんていらない」
「だ、だったらッ! だったら私がッ! 私が司に取り込まれるッ!」
「それは無理だよ。彼には〝D・E〟を与えていな――」
「あんたちょっと黙っててッッ!!」
喚き叫ぶ円に良善は肩を竦めて閉口する。
円は司の身体を抱き締めて揺すり、何度も何度も首を横に振り愛する恋人の説得を拒否した。
しかし、たとえ拒否し続けても進める道が一つしかないなら、それはもう立ち止まってただその場で地団太を踏んでいるだけの無駄な行為でしかないことを円も理解はしていた。
「ねぇ……ねぇ、なんで? なんで、私達……が、こんな思い……しないといけないの? わけ、分かん……ないぃ……」
血の染みが残るシャツを握り締め、震え泣きながら声を絞り出す円。
「俺だって、分かんねぇよ……。少なくとも、お前がこんな目に合う理由なんて一切無いはずなんだけど……」
「司にだって無いッ!! こんな……こんなの……許せないぃッ! ……あいつ? もう一人の司と戦ってたあの男……〝ロータス〟のせい? 私……無理、私ぃ……絶対に……あいつらを……許せない……ッ!」
「そうだよな……俺だって、別に聖人気取ってるつもりなんてない。復讐なんて虚しいだけとか、よく聞くけど……あれって、ホント綺麗事なんだな。嚙み砕いて……呑み込む、なんて……無理だろ」
抱きしめ合い怨嗟を滲み出させる二人。
負の感情が煮え混じり次第にその濃度を増していく。
それを見る良善は司が口にした在り来たりなフレーズとよく似た言葉を思い出す。
(憎しみは新たな憎しみの連鎖を産む……か。まさにその通りだな。実に結構。連鎖……繋がり……如何に汚らわしかろうがそれも一つの向上だ。実に……実に素晴らしい)
もう間違いなく口元はニヤけている。
絶望を比較するなど無意味だが、今この二人から新たに芽吹いた怒りはこちらの司や美紗都に勝るとも劣らない。
良善はまるで二人に気を使うかの様に踵を返して少し二人から距離を取った。
「つ、かさぁ……ずっと、ずっとぉ……一緒、なんだよね? 私のこと……一人に、しない……よね?」
「うん……っていうか、あぁ……えっと、俺が……離れたくない。一緒に居させて、欲しい」
「……馬鹿ぁ、なんでこんな時に……いつも恥ずかしがって、言ってくれない様なこと……言うのよぉ……」
円が司の身体を少し引き上げ、司の片手が円の項に辛うじて掛かり……唇が触れ合う。
紛れもなく愛し合う二人の口付けだというのにどこか物悲しい。
司の力の無い表情には安堵と弛緩が見て取れるが、涙を流す円の表情には無念さが滲んでいた。
愛し合っている事実は揺るがないのに胸の内は微妙にズレている。
純粋だが歪な愛。
そして、閉じている円の目元から溢れる血色の輝き。
それは涙をまるで血涙の様に照らし、二人の周囲に寒気のする空気が渦巻き始めると同時に司の身体が瘦せこけていく。
(……あれは後に響くだろうな)
肩口からそっと覗く良善には、目を閉じて司を抱きしめる円と、愛する者の腕の中でというロマンチックさを掻き消すほどに痛々しく次第に骨と皮だけになっていく司。
この後の思惑的に、彼女が目を開けた時に変わり果てた恋人の無残な姿を見るべきではないと判断した良善は、干乾びていく司の足先からその身体を分解させてゆき、最後に触れ合っていた唇の片方が消え去り円が目を開けた時にはもうその腕の中に恋人の姿は無かった。
「…………なんで、かな」
しばし呆然と地面を見ていた円がおもむろに呟き良善を見る。
司や美紗都にも劣らないその瞳の赫色に、良善はまた得難い存在を手に入れたことを確信した。
「なんで、とは?」
「司がいなくなって、悲しいはずなのに……今、私全然悲しい気持ちがしないの……酷い彼女だよね」
「それは私に言われても困るね。本人に聞いてみたまえ。その顔を……その姿を……想像してごらん」
「…………」
生気が抜け落ちた様な無表情で良善を見る円。
涙の跡はくっきりと残っているが、確かに良善からも円が随分と落ち着いている様に見えた。
すると……。
『大丈夫だよ、円。俺も思ってたほど悪い感じはしない。寧ろさっきまでより気分が軽いくらいだ』
――ズルッ……。
決して見ていて気分の良いモノではない。目に不快で毒々しい赤黒い泥が円の首筋から半身を覆う様に溢れ出て、その泥の膜から腕が飛び出したかと思った矢先、その腕に連なる様にして消えて無くなったはずの円の司の上半身が現れて円を再び抱き寄せる。
「司ぁ……つ、か……さぁ……」
『大丈夫……大丈夫だ。お前と俺が一緒にいる。今までと何も変わらない。今は……それでいいんだ』
変わっていないが変わり果てた司に頬を撫でられ、再び円の両目に涙が溢れる。
ただ、その涙を赤黒い泥から現れた司はいつもと変わらぬ笑みを向けて拭い、ようやく少しだけ円の顔に安堵が戻った。
(司で確立し、さらに改良して美紗都に与え、そこからさらに細部を詰めた今回の〝D・E〟ではついに〝固有能力の顕現〟からスタート出来る様になったか。しかし、これ以上の段階省略は研鑽意欲や自己向上心の欠如を招く。改良もここらで打ち止めだな)
「どうだい、円嬢? 自分の血液に恋人を宿す感覚。そして、恋人の血液の一部になった気分はどうかな、鷺峰円の司?」
円の血液になった司。
正確には円の血中に漂うナノマシンが、吸収した司の情報を基に外骨格を形成して疑似的に人体を構築していた。
これが円の〝D・E〟
それまで生きて来た中でもっとも強い欲望が能力の引き金になるという性質を持つナノマシンは、円の脳内を隈なく探りこの個体に相応しい能力の種を探ったが、何不自由なく健やかに育って来た円に目立った渇望はなかった。
その代わりに際立ったのは直近の対消滅体験。
自分が自分以外の何かに侵食されて混ざり合い自分という存在が無くなっていく未知なる恐怖。
円にその時の明確な記憶は無くとも、深層心理に刻まれた衝撃とそれを必死に拒絶しようとする生存本能は十分に能力の依り代になり得え、そうして目覚めたのは存在の形や在り方を変質させる能力。
自分で作り出し、臨床実験二人分を経て〝D・E〟を頭打ちまで改良し切った良善の予測はおおよそ的の中心を捉える結果のなった。
「う、うぅ……んッ! か、身体は……気持ち悪いくらいに普通。ただ、ちょっとむくんでるっていうか……張ってるっていうか……でも、日頃の体調変化と変わらないかな。誤差の範囲って感じ」
『俺も特段変な感じはない。今も下半身の感覚はないけど上半身に関しては身体があった時と全く変わらない。しいて言えばまだ少し頭がぼんやりしてるくらいだな』
「それは結構。ただ……まだ少し骨格の形成が甘いな。右腕と左腕で太さや長さが違い過ぎるし、左手首に関節が無い。彼の意識はナノマシンのネットワークで補完されているが、その身体の構築には円嬢の外骨格形成の技量に掛かっている。愛する者のためにもっと精進したまえ」
『そうだな……出来れば何か着るモノが欲しいかも。上裸で女の子の背後からニュルッと生えてるの、かなり変態に見えちゃうよ』
「ちょっと、無茶言わないでよッ! こっちはまだ全然要領得ないまま言われた通りイメージだけでやってるんだからッ!」
少し調子が戻った? いや、それにしてはどちらもやけに急なテンションの変わり様だ。
もう後戻り出来ない一線を越えてしまった事実の衝撃を少しでも緩和しようとしているのだろう。
流石の良善も少々気の毒に思えたが、なにはともあれまずは性能検査を行いたいので何かしらハプニングでも起こしてやろうかと思った矢先、遠くから重い旋回音が聞こえて来る。
向けた視線の先には、両翼に随分と物騒な兵器を吊り下げた戦闘ヘリがこちらへ向かって真っすぐに飛来していた。
「おや? ……フッ、ルーツィアか。相変わらず痒い所に手が届く」
このビルへ攻め込んで来ていた部隊を壊滅させたあと、そのままルー達を使って編成した部隊で残党狩りをしていたルーツィア。あの戦闘ヘリは彼女が上手く誘導してこちらへ寄こした練習用の的と思われた。
「先輩の計らいだ。円嬢……どうだ? あれを撃ち落とせるかね?」
『円、無理に従わなくていい。ラーニィドさん、そういう契約だよね? 円には自分で戦うかどうかを決め――』
「ねぇ、司? あのヘリに乗ってる人にも、きっと家族がいるよね?」
『――え?』
こちらへ向かって飛行して来るヘリに正対する円。
妙に高まっていたテンションが再び異様に落ち着き、少々精神の不安定な状態が見受けられた。
しかし、その表情に浮かぶ辛辣さは揺ぎ無いくっきりとした輪郭を形成している。
残念ながら、彼女本来の愛嬌のある顔立ちには全く嚙み合ってはいなかった。
「大切な家族がいたり……愛する人がいたり……みんなそうだと思う。私にもいた。でも……それを奪われた」
血色の瞳が輝きを増し、セミロングの髪が揺らめき周囲の空気を押し退ける様な圧がその身から溢れ出始める。
「私は今、最低のことを考えてる。それを誰かが否定して来るならそれでもいい。でも、もう自分から弁えてこの思いを止めれるほど……私は人間出来てない」
そこで円はスッと心細そうな眼差しを司に向ける。
それだけで、円の司は全てを悟った。
『……いいよ。お前が世界中から忌み嫌われる様な存在になっても俺だけはお前の味方だ』
「あははッ……まさかたとえじゃなくて本当の意味でそんな言葉が聞けるなんて思わなかった。……嬉しい」
泣きながら笑う円の目から何かが消えた。
そして、司は円の背後に寄り添う様に回り込み、涙をぬぐって再びヘリを正面に据えた円は、先の攻防の衝撃に砕けた瓦礫を拾い上げると、まるで血管の様な赤い筋がその表面を覆う様に這い包む。
――バシュンッッッ!!!
戦闘ヘリからミサイルが撃ち出され、白い軌線を引きながら真っすぐにこちらへ向かって来る。
『……円』
「うん」
円は瓦礫を持つのとは逆の手をミサイルに向けて突き出す。
そして、それに呼応する様に背後に立つ司は両手を広げ……。
『おらぁぁッッ!!』
まだ人を辞めたばかりで慣れてないせいか、司の気合の掛け声はいささかチープだった。
しかし、その声と同時に振り抜いた両手は一瞬その形を乱れさせて、まるで手を洗ったあとの水滴を払う様に赤い雫が散り跳び、それは散弾の様に広範囲へ飛び広がって目前に迫っていたミサイルにその内の一滴が命中して爆散した。
爆風がビルに叩き付けられ、窓ガラスが粉々に砕け散る。
だが、屋上にいた良善は帽子を片手で抑える程度、円も少し突風に吹かれた感じに目を細めるだけでその両足は半歩も下がってはいなかった。
「本物の爆弾、危ないわね……ふざけんじゃないわよ」
「あぁ、もし俺達が普通の生身だったら、死んでもおかしくなかっただろ……ふざけんじゃねぇよ」
「『私の男に何すんのよッッッ!!!』」
怒号を揃え、円は手にした瓦礫を振り被ってヘリに向けて投げ放つ。
しかし、か弱い少女の投擲など十mも飛べば大したモノ。ビルの上から投げたとて、すぐに勢いを無くして下向きに放物線を描くのが関の山。
だが、円の投げた瓦礫は落ちない。不自然なほどに真っすぐにしかも徐々に勢いを増して数百mは離れている上空でホバリングするヘリに向かい突き進んでいく。
さらに、赤い筋に覆われたその瓦礫は筋に沿って光を放つとその形をヘリがこちらへ向けて放ったミサイルと同じ様な円筒状に変化させ、ようやく飛来物に気付いたヘリ側も急いで回避する様に上昇していくが……。
『もう遅いよ』
司が指二本をクイッと上向ける。するとミサイルを模した瓦礫は謎の推進力で滑らかに上昇してヘリの底面を貫き……。
「自分がされて嫌なことは他人にしちゃダメなんだよ?」
――ドゴォォォォォォォォンッッッ!!!
一瞬、円の片手とヘリの底面に極細の赤い線が引かれた様に見えた次の瞬間、
「……見事」
何の感慨も湧いていない無表情で地面に落ちていく炎に包まれたヘリの残骸を見る円と司。
その背中を見つめながら、良善は吊り上がる口元を手で隠して込み上げる愉悦を堪える様に小さく賛辞を送った…………。
読んで頂き、ありがとうございます。
作者の活動報告などに関してはTwitterで告知してます。
良ければ覗いてみて下さい。
峪房四季 @nastyheroine