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名もなく

作者: 北長六功

はじめに

 父のことを書き残そうと思った。同時に、書くべきかどうか、迷いが出た。

 そこそこ奇異な生き様で面白いと思う。逆に、大したことがないとも思うから、このまま消えてしまっても良いような気もした。人様に読ませるにも、昭和の初めに生まれた人には、さして珍しくもない話かもしれない。

 公表するのだから、有り体に書いたら迷惑を被る人がいる話は避けねばならぬ。情けなさ過ぎる事項もある。しかし死後四〇年も過ぎれば多くの人が他界しているし、大概のことは時効だろうと思ったりもする。

 まあ、実体験を元にして真情を吐露する、それでいて恥ずかしい言動は避ける私小説なんて便利なジャンルもあることだし、これもありか。

 いざ書こうとすると、父の記憶は断片的にしかないことに驚いた。それを書き連ねると、起承転結をつける小説の体をなしていない。

 とはいえ、ほら吹きの父が自分を語るとき、面白くするために話を盛っている。それは作り物語そのものではないかとも思う。実際、親父のエピソードのかなりの割合を占める母から聞いた話は、物語を聞いているような気分であった。

 思いは様々。ともかくも綴ってみた。


第一章 少年期 (昭和一一年(一九三六年) 親父〇歳~昭和二八年(一九五三年 親父一七歳) 

 息子から見て、親父の子供時代はあまり幸福ではなかったように思う。親父本人がどう思っていたのか、はっきり聞いたことはない。多くの子供が自分の不幸を自覚しないように、自分ではそうでもなかったのかも知れぬ。

 この時代の多くの農村がそうであっただろうように、田舎の貧しい百姓家は裕福ではなく、次男以下は粗略な扱いを受けた。


   エンジンと煙草(昭和一一年(一九六三年) 親父〇歳)

 親父の名は誉という。

 最初は航空エンジンが由来だと思い込んでいた。親父の長兄は旧日本軍海軍航空隊の整備兵だったから。誉エンジンは紫電改などに装備された高出力エンジン。

 そうではない。当時、祖父が吸っていた煙草の銘柄が誉だからだと、父は言っていた。そのくらいの無思慮はやりそうな祖父であった。

 「誉」が安物の煙草だと知ったのは、父の死後、だいぶ経ってからだった。


   五男だか六男だか(昭和一一年(一九六三年) 父〇歳))

 父は昭和十一年、大分郡西庄内村、現在の由布市庄内町に生まれた。

 晩年のことになるが、戸籍を見ると六男になっているのを見て、『五男と聞いていたのだが』と、言ったそうだ。

 母は、本当は六男なのを、祖父母は夭折した子を飛ばして数えたからではないか、と言っていた。確証はないが、ありえる。祖父に複雑な感情などなく、単に面倒くさかったからに違いない。そういう祖父であった。

 幼児の死亡率が高い昭和初めには、その逆はままあったと聞く。生まれてすぐに死んだ子の戸籍はそのままになっていて、次に生まれた子をそのまま兄の戸籍で育てる。今ほど戸籍が厳密でなく、人の死が日常であった時代には、どうということはなかったらしい。

 余談ながら。そのまま実年齢より一つ上の年齢で育つと、戦前なら一年早く徴兵されることになる。それが昭和二十年だと、『兄貴のおかげで兵隊に行く羽目になった』という古老の話を聞いたことがある。実年齢なら翌年は敗戦後で徴兵制はなくなっていたのに、ひどい目に遭ったと。

 更にひどい人になると、それでシベリアに抑留されたとか。

 ともあれ、親父の兄弟が何人なのか知らない


   田んぼ

 むかし、五反百姓という言葉があった。農業で一家が生活するのに必要な水田面積が五反と云われていたことから、最低限自立した農家という意味。親父の頃には転じて、余裕のないが貧乏な農家という意味合いが強かった。

 親父は実家を「三反百姓」と言っていた。並の貧乏より更に貧しい、との意味らしい。実際、そのくらいの水田しか持っておらず、足りない生活費を、祖父は郵便馬車やセコいやりくりでまかなっていたらしい。

 その頃の貧しい農村を卑下するのに、「ムシロ三枚、田が隠れる」と言う。平坦地が少ないから、そのくらい狭い水田にしか整備できない。だから米の収穫が少なく貧しい。

 親父が良く言っていた、冗談とも本当ともつかない話は、それより酷い。

 自家の田の数を数えた。一〇枚のはずが、何度数えても一枚足りない。よく見たら、自分の立っているところが田んぼだった。

 本来は広く平坦なはずの水田が、田かどうかも分からないほど狭い、という意味。

 それでも親父は百姓仕事は好きで、死ぬまで百姓をしたがっていた。


   祖父について

 ひどいケチであった。

 そんなにがめつく金を貯めても、生きてるうちに使わずどうするのだと諭されたら、『死んだら閻魔大王の席を買う』と答えたそうだ。

 結局、どのくらいの財産を残したのか。別に知りたくもないが、田舎の三反百姓――五反百姓よりまだ貧しい、たぶん父の造語――が生活を切り詰めてためた金など大したことはなかろう。

 祖父は私が三歳の時に他界しているから、そのちょっと前だろう。一緒に飯を食っていたら米を一粒落とした。祖父が「拾え」という。拾ったら、「喰え」と言う。幼児だから言われるとおりにした。なぜかそれが記憶に残り、米粒を拾って喰うくせになった。祖父が私に残してくれたものは、この癖ぐらいだろう。

 祖父の葬式は大人数がいたと思う。その頃の田舎の通夜から葬式は、ただ酒を目当てに来る客が多かった。宴会になって大笑いするのを喪主の伯父(三男、長兄と次兄は既に死去)が、「こら、葬式だ。静かにしろ」と言って回った。そのくらい悼む者はいなかったと、親父は自嘲気味に語っていた。

 その葬式の最中、伯父は私に「お前は爺さんに似ている」と言ったそうだ。三歳児が伯父に食って掛かって反発し、「あんな爺さんと一緒にするな」と言い、伯父は謝ったと。親父は後々まで楽しげに何度も語っていた。

 伯父には随分と可愛がられたから、葬式で恥をかかせて悪かったと思う。記憶にないのだが。


   曾祖父について

 祖父がケチになったのは、曾祖父の散財が影響しているらしい。酒飲みが過ぎて、一山飲んでしまうほどだったと。

 それでも懲りずに、最期まで飲んべえだった。今際の際に、死に水は酒にしてくれ、と言った。周囲が呆れて普通に水を含ませたら、「こりゃ水だ」と言ったとか。

 どこまで本当かは知らない。

 祖父は、「あの山の杉は俺が植えたんだ」と、その頃は人手に渡った山を寂しそうに見ていたと、親父は言っていた。


   伯父について

 親父の長兄は丸一という。名付けられた時は「○一」であったそうな。高祖母が祖母を嫁いびりして、それが孫の何まで及んだと聞く。普通、嫁は憎くても孫は可愛いものだが。

 何歳の時かは聞き損なったが、伯父は改名を要求して実家だかの二階に立てこもったそうだ。それで「丸一」に改名したのだと。

 長じて海軍航空隊の整備兵になった。この時代に海軍に入ったのだから、親父の身びいきを抜きにしても、優秀だったのだろう。

 昭和一八年に大分基地で戦死している。エンジンの始動中にプロペラに巻き込まれたそうだ。事故死だが、当時の軍隊では訓練中の事故は戦死扱いになるそうだ。

 「名誉の戦死です」と言われ、祖父は直立不動で「ありがとうございます」と答えた。祖母は文字どおり、腰が抜けたそうだ。

 親父の一家はあまり仲が良くはなかったが、長兄は慕っていたようだ。『兄貴が生きていれば、俺はこんなにはならなかった』と母に漏らしたと聞く。

 私はこの長兄に似ていると親父は言っていたらしい。親父が私を溺愛したのは、それも理由であったのだろう。


   祖母について

 自分で云うのも気恥ずかしいが、幼い頃の私は大人に評判が良かった。「そこで温和しくしていろ」と言われたら、長時間じっとしてた。待っている間、目に映る物を観察したり次の動きを想像したりするのは楽しいから、放っておいてくれる方がうれしいくらいなのだが、大人から見れば『こんな育てやすい子はない』少年だった。

 だから父の一族にも随分と可愛がられた。伯父(三男)は従兄弟たちのうち、露骨に私を贔屓したから、叔母は怒ったそうだ。伯父は反省するどころか、私がいかに従順かを叔母に怒鳴り返したそうだ。私は一人で空想に浸ったりするのが好きなだけで、偉くも何ともないのだが。

 しかし私は、父の実家の暗い雰囲気が苦手であった。逆に母の実家の明るさが好きで、交通の便もあって物心つくと母の実家にばかり、自分で行くようになった。幼児期は父が背負って汽車に乗り、実家に帰っていたらしいが。

 祖母の記憶は多くはない。

 苦労の多い人生だったろう祖母は、私の足が遠のいたことの不満を漏らすことはなかったと思う。一度だけ、「お母さんの実家にはよく帰っているのかい」と寂しげに尋ねられ、答えに窮したことはよく覚えている。


   旅の武士(昭和一八年(一九四三年)頃、父七歳ぐらい)

 親父の実家の墓場は家の近くにあった。昔の田舎だから近くの家々が一緒に使っている。無縁仏もある。その中に「旅の武士」と記された墓標があったと言っていた。

 人魂を見たと言っていたのも、その墓場であろうか。親父の前の世代は土葬もあったようなので、燐火であったのかもしれない。


   軍靴(昭和一九年(一九四四年)頃 父八歳)

 家の近くに軍の倉庫があったそうだ。田舎のことで見張りもいない。親父は『兄貴(次兄、三兄?)と一緒に盗みに入った』。中は全部靴。しかし右側しかない。これでは盗んでも使えない。

 『靴の裏に番号が書いていた。同じ番号を書いた左側が、どこか分からないが、別の倉庫にあるんだろう。』

 頭がいい、と親父は感心していた。


   遠足(昭和二〇年(一九四五年)頃 父九歳)

 親父は子供の頃から目端が利いてはいるが、いい加減なところがあった。

 小学校の遠足は毎年同じ場所だったそうだ。だから一人で先に目的地に行ったら、その年だけは別の場所で、後で散々に叱られたそうだ。


   牛の頭絡とうらく(昭和二一年(一九四六年)頃 父一〇歳頃)

 頭絡とは牛の頭から鼻環に通すひものこと。大分ではタツと言う地域が多いようだ。親父が何と言っていたかは忘れた。

 これに引き綱を付けて牛を引っ張る。その頃の牛は農耕用で、たいがいの農家は牛を飼っていたから、農家の必需品であった。

 祖父のケチは尋常ではない。買った牛の頭絡が牛に使うには立派でもっいないと、そこらに落ちている紐と付け替えた。

 親父はその作業中、恥ずかしくて仕方が無かったと、言っていた。


   スイカ(昭和二三年)(一九四八年)頃 父一二歳頃)

 畑からスイカを盗むのは、空腹よりも悪戯心からだったらしい。

 盗まれる方も警戒しているから、そのまま畑に入ったのでは気づかれる。夜中に畑の近くまで這って進み、そこから節を抜いた竹を伸ばす。竹竿をスイカに突き刺し、中身を吸う。距離が長いときは竹を何本か継ぎ足す。遠目には食われたように見えないから、しばらくはバレずにすむ。

 そんなので本当に食えるのか、食えるとしても量はしれていよう。


   鎌(昭和二三年(一九四八年)頃 父一二歳頃)

 祖父はケチで人をいたわることを知らないから、親父も小さな頃から、朝早くから百姓仕事を働かされたらしい。

 時間が無いときは、畑に行く道すがら、馬の背で鎌を研いだ。「水がないから唾をかけてな」

 そういった生活だから、親父が鎌を持つと様になった。ベルトに鎌を挟んでいるのは、後ろに短刀を挿しているようで、妙に格好良かった。

 「鎌を持ち運ぶとき、人が危なくないようにするには、刃先をつまむ。そうすると腕を振っても、刃が人に当たらない。逆に自分が怪我をしたくないなら柄の先を持って、刃は後ろを向ける。」


  はらいせ(昭和二四年(一九四八年)頃 父一四歳)

 何が理由であったのかは失念したが、近所に腹の立つ奴がいたそうだ。親父はその人に家の戸に細工して、開くと肥たごが引っ繰り返るようにした。

 気取られないように短時間で音もなく仕掛けたのに、親父の細工は的確に働いた。その人が朝起きて外に出ようとしたら、玄関前が糞尿まみれになった。

 憤慨して誰の仕業だと怒る相手に、親父は『そんな悪いことをする奴は庄内にはいない。よその奴だろう』と答えた。


   いたずら(昭和二四年(一九四八年)頃 父一四歳)

 昔の田舎ではウサギを家畜として飼っていた。ウサギは発情周期が短いからよく繁殖する。しかし、あまり短期間に出産させると無理がたたって寿命が縮む。親父は出産後間もない雌のオリに雄を入れる。飼い主が妊娠が続くのを不思議がっているのを、親父たち悪童は笑っていたそうだ。


   伯母について(昭和二五年(一九五〇年)ごろ 父一四歳)

 後継者や人手不足の近頃の農業とは逆で、当時の貧家は家を継ぐ長男以外の男手を家から出さなければ生活が成り立たない二・三男問題が深刻であった。

 血縁者はまだしも、伯母(親父の兄嫁)には、親父は早く家から出て行って欲しい存在であったらしい。親父は随分といじめられたようで、空の弁当箱を持たされたりもしたという。

 この話を教えてくれた母は、それゆえ伯母をあまりよく言わなかった。「農家が威張っていた時代に嫁いできたから、美人でいいとこの出だけど意地が悪い」

 私は信じていない。親父の家とあまり折り合いが良いとは云えなかった母の誇張か思い違いではないあろうか。少なくとも伯母は私に優しかった。食べさせることが最上のもてなしだった時代を引き継いだ人で、切れ目無く子供が好みそうな副食を出してくれた。幼い私の姿が見えないと、すぐに心配して探し回った。


   駅(昭和二五年(一九四九年)頃 父一五歳)

 庄内駅だったと思う。引き込み線を見ながら、「むかし、止まらなくなった汽車を、駅員がレールを切り替えてこちらに入れて、脱線させて止めた」と言っていた。


   初恋(昭和二七年(一九五二年)頃 父一六歳頃

 親父の話は母から聞いたものが多い。これもその一つ。いつ頃の話かは聞きそびれた。

 親父の初恋の相手の名は、けいこ。お妾さんだったそうだ。当然、報われぬ恋であった。美人であったという以外、人となりは母も聞いていないらしい。

 親父は後々まで、酔って時々その名を口にしたそうだから、よほど慕っていたのだろう。

 妻にそれを言うか。母は怒るより呆れかえっていた。


   わら縄(昭和二七年(一九五二年)頃 父一六歳頃

 親父は縄と言っていた。その頃のことだから、米俵を固定するわら縄であったろう。わら縄は雑に扱うと切れてしまうから、縛るのはようりょうがいる。親父も下手ではなかったはずだが、『上手な年寄りには敵わなかった』そうだ。

 若い親父が力を込めて縛っても、腕力に劣る老人が締めた方が縄が短くて済む。つまり、老人の方がきつく締めているのだと。


第二章 自衛隊時代(昭和二九年(一九五四年 父一八歳)~昭和四二年(一九六七年) 父三一歳 息子四歳) 

 親父の長くはない人生で、一番楽しかったのは自衛隊時代だったろう。国防だの大仰な思想は関係ない。集団生活とか大家族主義とかで、自衛隊が水に合っていたのだろう。海外派兵はもちろん、災害出動もほとんどない時代だから、今よりは自衛官も気が楽ではあったろう。

 この頃に別府に居を構えた。別府が好きだったのかどうかは知らないが、死ぬまで別府市民だった。

 親父の死から四半世紀ほど後、母の三回忌の法事が終わった後に地連(=自衛隊地方連絡部、後の地方協力本部)の人がお悔やみに来た。自衛隊の家族以上の結びつきに恐れ入った。家族的にはあまり幸福とは云えなかった親父は、そういうのを求めていたのだろう。

 死ぬまで予備自衛官だった。


   自衛隊入隊(昭和二九年(一九五四年) 父一八歳)

 親父がいつ入隊したのかは聞いていない。中学を卒業した昭和二六年から、自衛隊創設の昭和二九年七月までの、少なくとも三年半は家にいたのだろう。学校には行っていない。親父は中卒。あのケチな祖父が、五男か六男だかに義務教育より上の学費を出さなかったのは容易に想像できる。 

 当時の田舎の百姓はそんなものだ。長兄は家を継ぐとして、次男以下は家を出る。仕事はない。

 親父が自衛隊に入ったのは、厄介払いで家を出されたからだろう。思想だの国防だの考えていたとは思えない。


   担え筒(昭和二九年(一九五四年)頃 父一八歳)

 創設時の陸上自衛隊の装備は、米軍の払い下げと旧軍の余り物が混在していたそうだ。小銃は旧日本軍の三八式歩兵銃がかなりあった。さすがに大日本的国、天皇の軍隊である象徴の菊の紋章は削り落としていたそうだが、いったいどこに仕舞ってあったのやら。

 アメリカ軍のはカービン銃。軽いから人気のあるアメリカ製は古参兵(自衛隊だと何て言うんだろう?)が持つ。新入りの親父は重くて性能が悪い日本製を持たされる。

 歩哨を交代するとき、銃の筒先を合わせて挨拶する(何て言うんだ? これも)のが、三八式歩兵銃は長くて、カービン銃は短いから合わない。それを合ったことにして「カチカチ」と口で言うのが子供じみていた、と笑っていた。


   三八式歩兵銃(昭和二九年(一九五四年)頃 父一八歳)

 太平洋戦争中、アメリカ軍は連射が出来る自動小銃を配備していた。旧日本軍が終戦まで使った三八式歩兵銃は、一発撃つと手動でボルトを操作して排莢と次弾装填をする。親父はこれを『一発撃っちゃガチャ』と自嘲気味に表現していた。

 自衛隊で両方を使った親父は、アメリカの武器がいかに優れているかを実感していたようだ。


  歌(昭和二九年(一九五四年)頃 父一八歳)

 「貧家の二・三男にして、親、養いがたし。それに目をつけし防衛庁は 松葉かきで松葉を集めるがごとく集め 麦飯にカレーをかけて洋食と称し……」

 創設当時の陸上自衛隊で流行った戯れ歌らしい。『教本より先に覚えさせられた』と親父は言っていたが、ホラ話かもしれない。

 『親、養いがたし』は親父そのもので、自嘲気味だった。母には大受けで、何度も聞いていただろうに、大笑いしていた。


   自衛隊の飯(昭和二九年(一九五四年)頃 父一八歳)

 今は違うようだが、貧乏暮らしの親父が閉口したぐらい、その頃の自衛隊の飯は不味かったらしい。まだ日本に食い物が少ない時代だから、「食えるだけでも有り難く思え」らしい。

 自衛隊にはいろんな男がいたらしい。飯はお焦げが好きな隊員がいた。飯ごう炊飯で焦げた飯を、普通に炊けた飯と変えて食ったという。

 随分と後になって、母が米を炊きそこない、黒くて堅く固まった米を見た親父は、「変なヤツだった」と楽しそうに語った。

 母は戦後の食糧難で苦労した。親父に言わせると「米は腐っていても食う」人だった。あながち冗談ではなく、少々の古い飯なら、焼きめしだの何だので食べさせられた。

 黒焦げのご飯を親父は嫌がったけれど、手を加えて食べさせられたのではなかったか。


   米が高価だったころ(昭和三〇年(一九五五年)頃 父一九歳))

 たぶん昭和30年代の初め頃だと思う。湯平温泉に女郎屋があったという。親父は家から米を持ち出し、リアカーだか大八車に積んで行き、代金の代わりにしたそうだ。それを教えてくれたのは母。女房に女郎屋通いを自慢するって、昔はあった話らしい。

 米をどのくらい持って行ったのかは聞きそびれた。


   ジープ(昭和三〇年(一九五五年)頃 父一九歳)

 パラシュートでの車両投下は、昔の自衛隊でもやったそうだ。米軍払い下げのジープは古い車体でも荒っぽい訓練しても何ともない。日本製は新しくても一度空中投下すると駄目になる。と言っていた。


   誰何すいか(昭和三〇年(一九五五年)頃 父一九歳)

 歩哨が「誰か?」と三回尋ねて、返事が無ければ撃ってよし。だから自衛隊員は早口で「誰か」と言う練習をする。

 除隊後、随分後になって聞いた。「そりゃ、軍隊の話だろ」と言ったら、親父はどう返事をしたのだったか。「本当だ」と言い張ったか、無視して話をつつけたか。

 親父は話を面白くするために時々ホラを吹く。


   選挙権(昭和三二年(一九五七年)頃 父二一歳)

 いつ頃の話か、よく分からない。たぶん、親父が選挙権を得た頃の話だろう。

 祖父が親父の住民票を勝手に動かして地元の住民にし、とある政党の候補者に投票する約束をした。なにがしかの金銭が動いたらしい。その政党の支持者は支持母体ぐるみで選挙前に住民票を移すって、真偽の定かでない噂は聞く。

 さすがに親父は怒った。親子の縁を切るとまで言ったそうだ。が、祖父は取り合わなかったのだと。

 親父の話だけなので、どこまで本当かは知らない。しかしあの爺さんなら、金が絡めばそのくらいのことはやりかねないとは思う。

 親父は政治信条なんて上滑りの理屈に無縁の男で、選挙で頼まれれば、付き合いを重んじて、たいがいの候補者とにこやかに接していたけれど、その政党だけとは距離を置いていたようだ。


   結婚(昭和三三年(一九五八年) 父二二歳)

 誰かの紹介で母と会ったのだろう。

 母の実家に挨拶に行ったとき、長く正座して足がしびれ、引っ繰り返ったという。母方の祖父は坊主だから、正座は平気だったはず。

 祖父は母に、父と結婚したら『一生、苦労するぞ』と言ったそうだ。

 祖父は住職でありながら、戦前、戦中に満鉄(南満州鉄道)で技師(?)をしていたとか、今となってはよく分からない経歴の人であった。本業は坊主だから、人を見る目はあったのだろう。祖父の見立ては正しかった。母は、親父には随分と苦労させられた。

 「じゃりン子チエ」じゃないけど、結婚させた責任者には『酷いことするなあ』と思う。 もっとも、父も母のヒステリーで命を縮めたから、修羅はお互い様だろう。

 なんだかんだ云いつつ二人は添い遂げたのだから、男と女は分からない。


   映画(昭和三三年(一九五八年) 父二二歳)

 恋愛時代、父は母に『僕は映画が好きで』と言ったらしい。当時はおしゃれな、あるいは女性に言うのに無難な趣味であったのだろう。

 何を見に行ったのかは聞きそびれたが、二人で映画館に行き、親父は横でいびきをかいて寝たらしい。母は呆れ、『映画が好きなんて嘘』と笑っていた。ほんと、この二人、どうして結婚までたどり着いたんだろう。

 しかし、親父が映画を好きだというのは嘘ではないと思う。「南の島に雪が降る」「ある兵士の賭け」がお気に入りで、あらすじを語っていた。

 後年、親父が私を連れて行ってくれた映画は「あゝ決戦航空隊」。鶴田浩二氏が演じる大西瀧治郎中将の、特攻を推進せざるを得なかった指揮官の苦悩を描いた戦争物。終盤の大西中将の割腹が恐ろしい。よくこんなもの幼児に見せるものだと、いまは思う。

 ただ、私が覚えていたのは空戦シーンのみ。零戦が後ろから銃撃され、その後ろからさらに別の零戦がアメリカ機を銃撃する絵だけが、鮮明に記憶に残っている。


   ダム工事のアイスキャンデー売り(昭和三三年(一九五八年)頃 父二二歳)

 ダム工事現場でアイスキャンデーを売って小遣い銭を稼いだそうだ。その頃に実家から通えた場所だろうから、たぶん櫟木ダムではなかろうか。

 アイスキャンデーは自作、たしか原料は山羊の乳だと言っていたか。原価がかかってないから、安値で売っても、けっこうな利益になったそうだ。

 親父は冷蔵庫まで自作したという。冷媒にアンモニアを使ったから、漏れるとトンデモなく臭かったと。

 後に大学で教官にその話をしたら「嘘をつけ」。いや、冷媒という言葉すら知らないだろう学のない親父に、そんな高度な嘘を創作するなんて出来まい。

 大学で教鞭を執るインテリには、親父のような庶民の経験則による知恵は測れまい。


   野菜(昭和三三年(一九五八年)頃 父二二歳)

 結婚した頃、母が野菜を買ってきたら、親父は「こんなものに金を出して」、とか言い出した。親父は百姓の出だから、野菜は自分で作るもの。就職先の自衛隊は三食支給されるから、それまで野菜を買ったことがないのはあり得る。

 母は、「買わずにどこから手に入れるのか?」と言い返したら、親父は黙ったのだと。


   義理の妹(昭和三四年(一九五九年)頃 父二三歳)

 親父は年の離れた義理の妹がお気に入りだった。お調子者の親父と、お侠な末妹は気が合ったのだろう。

 冬に寝るとき、義妹は「おお寒い」と親父の布団に入ってきたそうだ。苦笑する親父の顔が目に浮かぶようだ。

 だいぶ後、湯布院の駐屯地にいた頃、親父は叔母を温泉に誘った。叔母が喜んでついて行ったら、共同浴場は露天風呂の混浴。親父は叔母が逃げ出すのをからかってやろうと思っていたらしい。負けん気の強い叔母は混浴に入った。

 親父の方が困ったに違いない。


   ラクテンチのネオン(昭和三五年(一九六〇年)頃 父二四歳)

 ラクテンチは別府市に古くからある遊園地。ひなびた遊び場だけど、昔は別府市民の憩いの場で、親父は田舎者だから、若い頃から、けっこう楽しんでいたようだ。

 立石山の中腹にある、ラクテンチの大きなネオンサインは別府の市街地からよく見える。夜になるとリレー点滅して、逆から光っていったりした。親父は「チンテクラ」と声を合わせて喜んでいたようで、何が面白いのか、随分後になるまで飽きずに繰り返していた。


   死産(昭和三六年(一九六一年) 父二五歳)

 母は一度死産している。当時保育園で保母をしていた母が、跳び箱に着地した時に流産したという。

 これに関しては親父がどう思っていたのかは知らない。何のかの云いつつ親父は母には色々なことをしゃべっていたようだが、その思い出話を私にした母にも、親父は何も語らなかったようだ。

 その後、子供は私一人しか作らなかった。授からなかったのもあるが――母が、弟か妹とが出来たらどうするか、なんてことを言ったことがあるけれど、それっきりになったから妊娠ではなかったのだろう――親父は積極的に二人目を作ろうとはしなかったようだ。「子供は一人でいい」と言ったことがある。親父は兄弟仲が円満とはいえなかったのもあるだろう。


   南の島に雪が降る(昭和三六年(一九六一年) 父二五歳)

 太平洋戦争中、南方の部隊。慰問の演劇で紙吹雪の雪を降らせたら、北の日本を思い起こして兵隊達が泣いた、と言う話。

 親父はお調子者で明るい人間だったが、なぜかこの暗い戦争映画が好きだった。


   自衛隊、災害出動(昭和三六年(一九六一年) 父二五歳)

 一〇月二六日の豪雨による土砂崩れで、別大国道の路面電車が埋没。死亡者三一名、負傷者三八名の事故となった。

 こういった災害で、今でこそ自衛隊はすぐに出動するけれど、当時は自衛隊が動くための手続きは大変だった。

 親父は『クワ一本持って出動するのに五時間かかった』と自嘲気味に言っていた。

 即座に自衛隊が出動して、命が助かった被災者もいるだろうことは良しと云えようが、簡単に兵隊が動く制度はやはり恐ろしい。


   必死(昭和三六年(一九六一年) 父二五歳)

 ともあれ、自衛隊の災害救助だか復旧工事だかで、別府駐屯地から出発した親父達は別大国道の事故現場へ到着。事故発生から時間が経っているから、被害者の家族も現場に来ている。

 土砂の下敷きになっている電車に駆け寄ろうと泣き叫ぶ婦人を、親父たち自衛隊員が押さえる。

 親父は珍しく真面目な顔で、『(訓練で体を鍛えている自衛隊員の)大の男たちが小さなおばさん一人を止めるのに、渾身の力を出さねばならなかった。必死になった時の人間の力は恐ろしいものだ。』


   焼肉屋(昭和三七年(一九六二年)頃 父二六歳)

 親父の飲食は、どちらかと云えば地味な店を好んだようだ。安く飲めて、そこそこのつまみが出て、隣り合った客と気安く話が出来ればいい。

 店主は陽気な方がいい。店がなくなってしまったのを残念がっていた焼肉屋は、親父が行くと「よう大将、来たな」と案内したのだと。大将どころか、いつまで経っても二等陸曹――軍隊で云えば、准士官の曹長に上がれない万年軍曹なのだが。


   どんぶり(昭和三七年(一九六二年)頃 父二六歳)

 威勢のよい食べ物屋も好みだったようだ。

 行きつけのラーメン屋は、どういう具合か他店のどんぶりが軒先あると、店主は怒って、蹴飛ばして割った。と、面白そうに親父は言っていた。「なくなってしまったがな」と残念そうだった。


   盆栽(昭和三七年(一九六二年)頃 父二六歳頃)

 親父の趣味は盆栽だった。そこそこ上手だったようで、実家がくれた安物の松を、親父が丹精して何年か経ると、実家にあった高額な松より良くなったと、母は自慢していた。

 そう言いつつ、母には盆栽なんて地味な趣味はない。講演とかで飾る盆栽に、親父の鉢を勝手に持ち出して、小遣い銭を稼いでいた。

 日が当たらない会議室に半日も置くと盆栽は傷むそうだ。親父が「おかしいなあ。これ、動かさなかったか?」、というのを、母はしらばっくれた。

 自衛隊だから何日か家を空けることはある。親父は留守中の盆栽の手間を母に頼んだ。しかし母は興味ないから、いい加減な世話しかしなかった。返ってきた親父は傷んだ盆栽を見て、もう元に戻らないと母を怒った。素直に謝るような母ではない。言い争いになると、学のない親父は分が悪い。

 言い負かされて、「もういい」と怒鳴り、盆栽に灯油をかけて燃やしてしまった。


   黒人兵(昭和三八年(一九六三年)頃 父二七歳頃 息子誕生前)

 佐世保でのことだと聞く。

 酔った親父は、飲み屋で意気投合したらしい米兵を宿舎に連れて帰った。片言の日本語で、母に「オミヤゲ!」と寿司折りかなにかを差し出した。

 見上げるくらい大きな黒人兵に恐怖した母は、「ノーノーノー!」と追い出した。

 「おなかにお前がいるし、何をされるか分からない」――黒人を見ることはまれだし、ハッキリ云って、母には人種差別があった。

 「言葉が通じないだろうに、よく家に連れてくるほど仲良くなったな」と問うと、「虐げられた者同士だから気が合うのよ」

 親父が知ってる英単語は「ジャパン」ぐらいではなかったか。それと英語圏の氏名は名字が後だと知ってるくらい。後々まで、機嫌良く酔うと、それだけで人を笑わせた。


   ラジオ(昭和四〇年(一九六五年)頃 父二九歳 息子二歳)

 そのころ親父は携帯ラジオを大事にしていた。

 母と喧嘩すると、『ラジオを持って家出する』と言っていたという。当時はトランジスタラジオは高価だったから、質草にするとそれなりの金額になったらしい。

 ラジオが安価になったころには放置されていた。乾電池の液漏れのせいもあったろう。接触が悪くなり、やがて音が出なくなった。


   シーツ(昭和四〇年(一九六五年)頃 父二九歳 息子二歳)

 親父の布団シーツは自衛隊の所属隊名と氏名が墨黒々と大書していた。このくらい書いておかないと隊内で盗まれる、と母は言っていた。事実かどうかは知らない。

 物持ちがいい親は、退役後十年くらいはそのシーツを使っていた、


   隠し芸(昭和四〇年(一九六五年)頃 父二九歳 息子二歳)

 親父は無芸であった。陽気で人を笑わせるタチではあったが。

 宴会で舞台に立った親父は『それではギターを弾きます』。楽器なんぞ、およそ親父に縁がないのを周囲は知っているから、観衆が驚いた。

 ギターを受け取った親父は、舞台の袖まで引きずって歩いた。


   冷蔵庫(昭和四一年(一九六六年) 父三〇歳 息子三歳)

 新しいのを買って、使わなくなった冷蔵庫を母の実家に持ってきた。自衛隊のジープで隊員服を着て。親父は自動車免許を持たないから、運転していたのは部下であったのか。

 幼い私は親父を見て大喜びしたけど、勤務中にどう誤魔化して抜け出したのか。


   薬莢(昭和四一年(一九六六年)頃 父三〇歳 息子三歳)

 戦争しない国の軍隊の自衛隊は、銃器の管理は厳格。薬莢ひとつ無くなっても中隊総出で探し、見つからないと始末書以上の大事だったそうだ。

 それほどの問題になるのは親父のホラ話かもしれないし、いまはどうかは知らない。

 薬莢なんて、撃てば銃から飛び出していく使い捨てだから、親父に言わせると、ひとつ残らず集めるのは無理だそうだ。器用な親父は薬莢を受ける袋を自作して、小銃に取り付けた。薬莢探しから解放されたけど、上官に叱られ禁止されたそうだ。


   視力検査(昭和四一年(一九六六年)頃 父三〇歳 息子三歳)

 昔の眼科は視力検査表を壁に貼っていた。自衛隊も同じだったそうだ。親父は不良隊員達をそそのかして、検査表を暗記させて視力検査を受けた。学力が無くて昇進試験は受からないくせに、そういう悪戯には頭が回る。

 小隊だか中隊だか、全員が急に視力二.〇になれば、誰だって変だと思う。中隊長か医務官に散々に叱られ、以後、別府駐屯地の視力検査表は身体検査時以外は厳重に仕舞われるようになったという。


   祖父の葬儀(昭和四一年(一九六六年) 父三〇歳、息子三歳)

 祖父のケチは常軌を逸していた。それ以外にもかなり癖の強い人間だったようで、晩年は家族にも煙たがられていた。

 危篤になり、親戚一党が集まった。昔のことだから、祖父は入院もせず、家で寝ていた。なにかの拍子で誰も見ていない時があった。親父が様子を見に行くと、息をしていなかった。「親父、死んどるぞ」

 昔の田舎のことだから、人の生き死にはサバサバしたものだった。葬式後の公民館で開いた直会で出た飯が美味く、味噌汁を三杯もおかわりして、嬉しそうに「うまい、うまい」と言ったのを、誰からも咎められなかったのは覚えている。


   やろうと思えば(昭和四一年(一九六六年) 父三〇歳、息子三歳)

 どういう適正かは知らぬが、親父の兵科(自衛隊は何て云うんだっけ?)は特科、いわゆる大砲撃ち。

 別府駐屯地の大砲を扱っていた。『やろうと思えば、別府市のどこでも火の海にできる』。

 笑えない冗談。


   自衛隊員(昭和四一年(一九六六年) 父三〇歳 息子三歳)

 自衛隊には気の合う仲間が多かったらしい。後になって話すのに「いろんなヤツがいた」

 小銭を菓子箱だかに少しずつ貯め、一杯になったら銀行に持ち込んだ隊員がいた。「銀行員が三人がかりで勘定した」とは、話を盛っているのかもしれない。けれど結構な金額だったのは本当らしい。

 正確な額は親父も覚えていないらしいけど、「その金で背広を買ってな」。親父はうらやましかったらしい。

 金があれば酒を飲む親父には無理な工面だ。


   良い自転車(昭和四一年(一九六六年) 父三〇歳 息子三歳)

 自衛隊に長くいたのに、親父は自動車免許すら取っていない。実技はともかく、筆記試験がタメだったためだろうと、容易に想像できる。当時の特科――大砲撃ちは自動車の運転はしなくてすんだのだろうか。いや、使い物にならないから糧食に回されたのだろうか。

 後年、母に強制されたか、仕事のため取らざるを得なかったのか、原付免許を取るまで、親父の主な移送手段は自転車だった。

 業務用自転車が好みだった。親父が言うには、性能の良い業務用自転車は、一漕ぎで進む距離がオシャレな自転車より長いので、走るのが楽なのだそうだ。


   手の水鉄砲(昭和四一年(一九六六年) 父三〇歳 息子三歳)

 親父から教わったのは、右手の人差し指と中指の間に左手の親指を入れ、両方の掌を開いたり閉じたりして水を飛ばすやり方。人によってやり方は色々あるようで、親父も他にいくつかやり方を知っていたものの、これが一番多くの水を飛ばせるようだ。

 親父は起用だから、遠くまで正確に水を飛ばした。そんな遊びをしなくなる年まで、けっこう練習したけれど、親父には敵わなかった。


   実家の玄関(昭和四一年(一九六六年)頃 父三〇歳 息子三歳)

 親父の実家は通りから入って左に納屋、その隣に勝手口がある。玄関はそこから回り込んだ奥になる。

 たぶん家を建てた後に車道が通ったから、そうなったのだろう。勝手口と書いたが、そう呼ぶには大きめの戸で、入ると土間、かまど、食卓、その奥に上がり口があるから、生活するのはそこから出入りする方が便利だった。

 慣れとは恐ろしいもので、親父は最初に母を実家に連れて行ってからずっと、勝手口から母を上げていた。

 母は後々までヒステリーを起こすと、それで親父をなじった。玄関から入らせないのは、嫁の扱いではない、と言いたいらしい。母は旧家の出だから礼儀作法を知ってはいる。日頃は大雑把で作法なんてかまわないくせに、機嫌が悪いと礼儀作法を持ち出して怒り出す。

 親父は黙って頭を下げていた。山の神に歯向かう無謀を知っていたから。黙って聞いて無視する。

 だいたい、親父自身が実家の玄関から出入りしたのを見たことがない。

 たしか二枚だったと記憶する、戦死者が出た家であることを示す「遺族の家」の札が貼られている方が玄関だと知るのは、随分と後になってのことだ。


   別府の飲み屋街(昭和四二年(一九六七年) 父三一歳 息子四歳)

 隙あらば飲みに行く親父に困った母は、幼い息子を付けておいた。子連れでは飲み屋に行けまい、との算段。

 私に記憶は無いのだが、だいぶ後になって母が言うには、私と別府の商店街を歩いていると、きれいなお姉さんが私に声をかけて来た、と。

 「今の、誰?」「お父さんとジュース飲みに行く所のお姉さん」。親父が飲んでる最中、私はジュース飲んで温和しくしていたのだろう。いや、この父子だから、二人で漫談して店を沸かせるくらいはやったかもしれない。四歳ぐらいの私は、親父の行きつけの店では人気者だったらしい。

 母は呆れかえり、息子を親父から引き離した。


   足の指(昭和四二年(一九六七年)頃 父三一歳、息子四歳)

 親父は手先だけでなく、足の指も器用だった。裸足なら、落ちた鉛筆とかを足の指でつまんで拾い上げた。面白がって真似していたら、私も出来るようになった。

 ぼーっとしてると、気づかれないように足を伸ばしてきて、親指と人差し指でつねってきた。やり返そうとしたが、これは真似できなかった。

 親父は水虫だったから、これをやると母が「汚い」と怒った。


   糧食班(昭和四二年(一九六七年)頃 父三一歳 息子四歳)

 親父の最終階級は二曹だった。旧軍の階級だと軍曹。そこまでは年数で昇進するけれど、そのうえの曹長は准士官だから、基本的に専門教育を受けないとなれない。親父は学力試験に通る訳がないから、すっと二曹。旧軍でいうところの万年軍曹。

 除隊後随分経って、一曹と書いた隊員服を持っていた。「一曹だったっけ?」と尋ねたら、笑って返事をしなかった。親父のことだから怪しげな手段で体格に合った隊員服を調達したのかもしれない。

 それはともかく。

 出世しない親父は糧食班になった。旧軍でいう炊事軍曹は食糧を管理しているから、いつ食料品の補給が切れるかしれぬ前線に行くほど、実質の権限は強かったそうだ。平和になった日本の自衛隊でそんなことはあるはずがなく、退職前の隊員が配属されるそうだ。

 ある時、味噌汁を台車で運んでいたらひっくり返してしまい、大鍋を半分ほどにしてしまった。作り直す時間も材料も無いから、減った分を水を入れて、蒸気を通して熱くした。

 今日の味噌汁はやけに薄いと隊員達にいわれたけど、知らん顔してたそうだ。


   学力試験で引導を渡される(昭和四二年(一九六七年)頃 父三一歳 息子四歳)

 親父は自衛隊が好きだった。だぶん、集団生活で大勢で酒を飲むのが性に合っていたのだろう。親父が求めていたのは楽しい家族だったと思う。仲間を大事にする自衛隊で、親父は幸せだったようだ。

 親父の不幸は、自衛隊は試験で昇進することだった。馬鹿ではないが、学がないから――祖父は子弟の教育に金を使う人間ではなかった――ペーパーテストが通らない。下士官の下から二番目、二曹までには勤続年数で昇進するらしいのだが、それから上に行くための試験がまるで駄目。

 旧軍では「万年軍曹」は蔑視でもあり、経験豊富だから戦闘では頼もしい実務者として重宝されたらしい。が、戦争しない当時の陸上自衛隊に、そういう出来の悪い隊員は不要だったらしい。

 中隊長に引導を渡されて退官した、と母が言っていた。

 自衛隊は各種免許が取得できるのが、勧誘の一つである。だが親父は普通自動車の免許すら取らなかった。後に原付免許を取るにも学科試験で苦労していたから、たぶん自衛隊時代も似たようなものだったのだろう。平和な国の軍隊で、親父が退官せざるを得なくなるものも無理はない。

 それでも死ぬまで予備自衛官だった。定期的に訓練に招集されるのを、喜んで出て行った。その後の酒飲みが楽しみだったのだろうと、母は揶揄していたが。


第三章 壮年(昭和四三年(一九六八年) 父三二歳 息子五歳~昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳

 書きまとめながら、親父の壮年と云える時期の短さに驚いた。このころの親父は、まあまあ幸せであったろうか。どうやったって生きてはいける、多分そう思えるくらいの心のゆとりはあったろう。

 自衛隊を退官した親父は、大分市の埋め立て地の肥料工場に勤めた。

 給料はあまり良くなかったのだろう。借りたアパートは狭くて暗かった。大分市の端が職場なのに別府に住んでいたのは、最初から長く勤めるつもりはなく、つなぎの仕事だったのかも知れない。

 この頃の親父の記憶は少ない。夜勤明けで寝ているのが印象に残っている。うるさくしても、親父は不機嫌になるくらいだったが、母にはひどく叱られたような気がする。

 

   赤飯の缶詰(昭和四三年(一九六八年) 父三二歳 息子五歳)

 いつ頃までだったろうか。赤飯や炊き込みご飯の缶詰がいくつも家にあった。自衛隊のものだと知った頃は、親父が退役して随分たった頃だったはず。大事に取っていたのか、予備自衛官の訓練で支給されたものを持って帰ったのか。なんやかや、バレない程度にくすねていたようだ。

 缶詰一つが二~三合ぐらいだったろうか。一家三人の一食分は、金のない家計を助けたはずだ。しかし不味いので、幼児にはありがたみがなかった。質より量の、食料が足りない時代の発想を引きずっているのではないかと思う。そもそも赤飯を缶詰にする発想が間違っていると思う。

 今の自衛隊の飯は随分と美味くなったと聞く。


   親父の御馳走(昭和四三年(一九六八年)頃 父三二歳 息子五歳)

 親父はカマボコなどの練り製品が大好きだった。貧家の出だから気取った美食は口に合わないらしい。

 山育ちだからカマボコが珍しいのだろう、と母は言っていた。そうではなく、極端にケチな祖父が金を払う食材を嫌ったせいで、自分で飯を買えるようになるまで、カマボコを食べたことがないのではないかと思う。

 とまれ、親父が料理を作るとカマボコの煮付けになった。炊事軍曹していたから味付けは悪くないけど、具材がカマボコだけなのは閉口した。しかも一つのカマボコを二つに切っただけの大きさだから食べにくい。「普通は端っこが分からないように切るけど、お父さんが切ると全部が端に見える」と、母は笑っていた。


   実家の川(昭和四三年(一九六八年) 父三二歳 息子五歳)

 親父の実家は家の下に田が並んでいた。田の間に川が流れていた。親父達は川と呼んでいたが、幅が二メートルもない、水路と呼ぶべきもの。だが、そこそこの速さで、子供が落ちたら自力では出られないだろうくらいの水量があった。

 「この川は別府に流れている」。この川のおかげで別府は水に困らないと、今にして思えば大きなホラを吹いていた。

 「この川に流されていけば、別府に帰り着けるぞ」。試してみようとは思わなかった。


   五右衛門風呂(昭和四三年(一九六八年)頃 父三二歳 息子五歳)

 親父の実家が五右衛門風呂だったのは昭和四〇年代の半ば頃までだったろうか。

 風呂釜をそのまま熱するから、料理で鍋に使う落とし蓋のようなのを踏み込んで入る。釜に背中を当たると火傷するから中腰で沈み込む。

 親父は慣れてるから平気だけれど、こっちは生まれた時から別府の広い銭湯に入ってるから、狭苦しくて体を動かせない五右衛門風呂に閉口した。親父の説明を聞いても、風呂とは思えなかった。


   一番好きな酒(昭和四三年(一九八六年)父三二歳、息子五歳)

 親父はアルコールなら何でも飲んだ。好みがなくはない。日本酒の甘いのは「安物は乾くと砂糖で飯台がザラザラする」と悪口を言い、ジョニ黒は「高いが美味い」。

 沖縄のオリオンビールは「熱い所向きなんだろう、軽くて(自分の口には)合わない」。そう言いながら、慰安旅行でたっぷり飲んだようだ。

 「一番好きな酒は何?」と尋ねたら、真面目だか、とぼけてるのか判別しかねる口調で「ただ酒」


   栓抜きに鍵(昭和四三年(一九六八年) 父三二歳 息子五歳)

 その頃のビールはほとんどが瓶だった。飲み屋では店員が客の前で栓を抜く。なぜか店に栓抜きが少なくて、持参する客は店の受けが良い、と親父は言う。だから始終飲みに行く親父は栓抜きを身についていた。

 店員に栓抜きを貸すと、しばしば戻ってこない。その頃の簡易な栓抜きには、これまたなぜか、ひもを通せる穴が空いていた。親父はそのひもに鍵を結んでいた。

 「これは家の鍵だから、必ず返してくれ」と言って貸すと、栓抜きは戻ってくるのだと。

 その栓抜きにはビール会社の刻印があったから、ただでもらった試供品であろう。セコいと言うなかれ。物のない時代の知恵だ。


   散髪(昭和四三年(一九六八年) 父三二歳 息子五歳)

 「散髪に行ってくる」言って、親父はと鏡の前で髪をとく。これから切るのになでつけなくてもよかろうに、と母に笑われても、毎回、キチンと髪を整えて出かけた。

 「あれでオシャレなんだ」と母は言っていた。その割には飾りっ気のない、短く切った髪型以外はしたことがない。


   鼻(昭和四三年(一九六八年) 父三二歳 息子五歳)

 親父は美男とはいえないが、極端な醜男ではなかった。愛嬌がある表情は何割かの女性に好感を持たれた、かもしれない。

 酔ってこけた親父は顔をすりむいた。額と頬から血を出しているのに、鼻は無傷だった。顔の中で鼻が一番低いのか、と、母と私は笑った。親父は反論しなかったと思う。


   射撃(昭和四四年(一九六九年)頃 父三三歳、息子六歳)

 別府ラクテンチの遊具に射撃があった。自動小銃を模した遊戯銃は、そこそこ本格的な形であったと思う。それで親父に照準の付け方を教わった。そりゃ、本物の自動小銃を撃つのが仕事の自衛隊員だったから、正確に知っている――はずなのだが、親父の射撃はあまり当たらなかった。

 死後、随分後になって出てきた予備自衛官手帳に射撃訓練の結果が載っていた。毎年〇点だった。


   貴様(昭和四四年(一九六九年)頃 父三三歳、息子六歳)

 貴様とは相手を侮蔑する時の呼びかけだが、親父が言うには「「貴」も「様」も相手を敬う字だ。だから「貴様」は相手に敬意を示した言葉のはずだ」

 聞いたときは感心したものの、今にして思えば、こういう屁理屈は親父の知恵とは思えない。旧軍では普通に二人称として使われていたそうだから、それを受け継いだ自衛隊の伝承だったのではなかろうか。


   空き缶の筆洗い(昭和四四年(一九六九年) 父三三歳 息子六歳

 幼稚園のお絵かきはクレヨンで、小学校の図画工作は水彩絵の具になった。だから絵筆を洗う容器がいる。多くの子供が買ってもらうビニール製の折りたたみのは、小さくて収まりが悪いので使い勝手が良くない。

 親父は太いジュースの空き缶を三つ縛って筆洗いを作った。かさばるのが難点だが、丁寧で頑丈な親父の作は使い勝手が良く、私は自慢していた。真似して空き缶で作る子もいたが、親父のが一番出来が良かった。

 中学卒業まで使い続け、今も捨てずにある。


   船(昭和四四年(一九六九年) 父三三歳 息子六歳)

 親父が勤めた肥料工場は海沿いの埋め立て地にあった。工場に材料を運ぶ小舟を夫婦二人で操っているのが、山育ちの親父には印象的だったらしい。低速で、沖に行くのに随分と長く見えていた、と言っていた。


   石灰窒素(昭和四四年(一九六九年)頃 父三三歳 息子六歳))

 親父が勤めた肥料会社が作る肥料に石灰窒素があった。これを扱った日は酒を人ではいけない。酷い二日酔いになる。

 分かっているのに飲んでしまうのが飲んべえ。母は後々までそれで父をなじっていた。


   紙鉄砲(昭和四四年(一九六九年) 父三三歳 息子六歳)

 親父の世代は物がない時代に育っているから、玩具は自分で作る。私らの年代が、それを教わった最期の世代だろう。

 竹は優れた素材だ。紙鉄砲、水鉄砲、竹とんぼ、竹馬、凧の竹ひごも自作するのがあたりまえだった。

 親父に教わって、最初に作ったのは紙鉄砲だったと思う。もっとも、最小限しか教わらなかったから、なかなか上手く飛ばなかった。細かいようりょうは叔父(親父からすると義弟、母の兄弟の次男)に教わった。「もっと細くて長い竹を使わなけりゃダメだ。」「芯の竹に節があると折れる」など。

 親父とこの叔父はお調子者同士で気が合っていた。好き放題言う義弟を、親父は苦笑いしながら受け流した。


   竹の貯金箱(昭和四四年(一九六九年) 父三三歳 息子六歳)

 竹筒を使った貯金箱の作り方も親父に教わった。

 竹は縦に割りやすく切りやすい。木よりも切りやすく尖らしやすいから、木材より加工しやすい。親父の教え方は言葉じゃなく実践だから、身には付く。が、理屈の説明が少なくて下手だから、聞くだけだと分からない。自分でやってみて失敗して、ようやく親父が言ってる意味が分かる。

 そこから更に自分で工夫しないと、親父と同じような工作はできない。

 おかげで竹の使い方は覚えた。


   風呂 その一(昭和四四年(一九六九年)頃 父三三歳 息子六歳)

 その頃の別府は、アパートはもちろん、家に風呂がないのは珍しくなかった。別府はあちこちに温泉の銭湯があるから。

 別府はヤクザが多いから、そういう人と銭湯で一緒になるもの日常だった。

 親父が言うには、派手な彫り物のあるにいさんが髭を剃っているところに、何を思ったか私は後ろから金玉を握ったそうだ。驚いたにいさんはカミソリを滑らせ、頬から血が流れた。

 親父は平謝りに謝って許してもらったそうだ。私は全く記憶がないのだが。


   汽車、その一(昭和四四年(一九六九年)頃 父三三歳 息子六歳)

 住家の別府から親父の実家の庄内に汽車で行くのは、日豊線で大分駅まで、そこで久大線に乗り換えて小野屋駅か庄内駅で降りる。

 汽車が混んで席が足りないとき、親父は一駅ごとに座るのを交代しよう、と言い出した。「まずはおまえが座れ、次の駅で交代だ」、と。

 久大線は駅が多い。短時間で交代になる。が、駅によっては間隔が長い。親父はそれを知っているから、「ここはもう一回座っていいぞ」とか言って、自分が長く座るように調整する。こっちはそんなこと知らない子供だから、親父にいいようにあしらわれた。

 周りの乗客もそれが分かるから、大笑いしていたと、だいぶ後になって母に教えられた。

 親父はそういう小ずるいところがあった。息子にも容赦ないのは、もしかしたら教育のつもりだったのかもしれない。


   汽車、その二(昭和四四年(一九六九年)頃 父三三歳 息子六歳)

 停車中の汽車のなか。駅の反対のホームにも汽車が止まっている。親父が唐突に「いま、動き出したのはこの汽車か、向こうの汽車か?」。急に言われると慌てる。「うーんと、この汽車」「いや、向こうの汽車だ」。落ち着いていれば、なんてことはなく分かることだが。

「そういうときはな、向こうの汽車とその向こうの樹を一緒に見るんだ。汽車だけが動いていたら、向こうの汽車が動いている。汽車と樹が一緒に動いているように見えたら、こっちが動いていて、向こうは止まっているんだ」


   汽車、その三(昭和四四年(一九六九年)頃 父三三歳 息子六歳)

 昔の汽車の座席は下がすいていた。親父は駅弁とか食べ終わると、弁当ガラを丸め、「よっ」と言いながらそこに放り込んだ。

 今にして思えば、国鉄に迷惑かけてた。


   牛の糞(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳)

 親父の実家の近所は、その当時の田舎だから、牛馬が道を歩いて糞をする。街頭なんてないから、夜になるとどこに糞があるのか見えない。

 慣れとは恐ろしいもので、私には路肩すら見えない道を、親父は星明かりで平気で歩く。「星がきれいだ」

 確かに美しかった。見とれて歩いていると、足の裏に柔らかい感触が。

 「牛の糞、踏んだ」。匂いがなかったから泥を踏んだのだ、とは後になって思うこと。泣き出した私を、親父は川に連れて行った。足を洗えと言われても、水面が見えない川は恐ろしい――とも思わなかった。頭真っ白で、泣きじゃくっていた。

 「きれいになったか?」「まだ!」の会話を何度か繰り返し、さすがに親父がイラつき、「もういい、来い」と実家に帰った。


   画板の紙挟み(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳)

 母は私にいくつか習い事をさせた。貧乏なのに子供に教育をするのは、今にして思えば頭が下がる。しかし、申し訳ないことに、モノになった学芸はひとつも無い。

 絵画教室は小学校の二年生から卒業まで通った。先生はそこそこ名の知れた美術教師だったようだ。毎週テーマを決めて、あとはほとんど好きに描かせるやり方は、芸術とはそういうものなのかもしれないが、図化工作の成績向上を願って、安価とは云いがたい月謝を払っている親からしたら、ほとんど詐欺ではなかろうか。

 それはともかく。私の画板の使い方が荒いからだろう、紙挟みが弱くなった。親父はバネの留め具をペンチ出て少し潰して締め付けを強くした。

 そういう知恵はいくらもある男だった。だから物持ちが良い。周囲にも随分と重宝されたはず。なのに金は貯まらない。器用貧乏そのものだった。


   動物図鑑(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳)

 友達が動物図鑑を見せてくれた。鮮やかな色彩で描かれた世界各地の動物に引きつけられた。

 家に帰って母におねだりした。良いことだと頷いた親父は、早速買ってきた。しかし、子供は勝手なもので「これじゃない」と泣き出した。友達が持っている、表紙に大きく描かれたライオンが格好良くて、同じものが欲しかったのだ。親父が困惑したか怒ったかは覚えていない。

 母になだめられたり怒られたりして、その動物図鑑を開いた。内容は友達のより親父が買ってくれた図鑑の方が充実していたと思う。すぐに夢中になって読みふけった。

 気を良くした親父は、同じシリーズの図鑑をいくつも買ってくれた。昆虫、植物、恐竜、魚類は子供が喜ぶとして、鉱物図鑑は小学校低学年にはやり過ぎであろう。


   母の勘気(昭和四五年(一九七〇年)父三四歳 息子七歳)

 母は酷いヒステリーだった。夜中に親父を正座させ、頭を押さえつけて床にぶつけたりした。父は黙ってその仕打ちに耐えていた。

 時に子供の私も一緒に叱られ、座っていろと言って自分は寝てしまったりもした。親父はおまえは寝ろ、と言って、一人で座っていた。何を怒られたのか、そのときにも分からなかった。


   いとこ会(昭和四五年(一九七〇年)頃 父三四歳 息子七歳)

 親父の一族は喧嘩してる訳ではないが、親密とはいえなかった。それを憂う人もいたようで、いとこ会を開こうと提案した。

 親父は「その前に兄弟会を開け」と突き放した。それきり、一族の親睦会は沙汰止みになった。


   ある兵士の賭け(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳

 親父は石原裕次郎さんのこの映画が好きだった。朝鮮戦争後、別府市の孤児院を立て直す金を得るため、アメリカ軍少佐が、座間から別府までの一三〇〇キロを二週間で歩く賭けをする、というもの。 

 テレビの深夜劇場で一緒に見たこともある。が、子供むけではないため、途中で眠ってしまった。親父はあらすじを説明してくれた。

 それから四〇年以上経ち、レンタルDVDになって全部見た。親父の説明と、だいぶ話が違っていた。

 別府市で歓迎を受けるシーンは、その後に自分が建てた家のすぐ近所だと、親父は気づいていただろうか。


   海水浴(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳)

 たぶん職員互助会の主催であったと思う、希望する家族の団体で海水浴に行った。あまり凝った企画ではなかったが、子供は海で泳ぐだけでも面白がっていたし、親はそれで喜んでいた。ただし、なぜかあまり子供はいなかったと記憶する。

 だから私は大人達と離れて、勝手に遊んでいた。集合時間は決まっていたけれど、時計なんか持ってない。返ってこない私を大人達が探したらしい。見つけた親父に酷く叱られた。


   トロ舟(昭和四五年(一九七〇年)頃 父三四歳 息子七歳)

 セメントを混ぜるとき、トロ舟の両側に一人ずつ立って、交互にセメントを動かすことがある。相手に沢山混ぜさせて、自分は楽をするやり方があるそうだ。上手い人は相手が素人だと、そうと気づかせない。さらに上手い人は、それが分かる熟練者が相手でも、自分が楽をするように仕向ける。

 親父はそれが出来た。何かの工事で親父とトロ舟を使った土方は、母に『あんたの亭主は汚い』と言ったという。


   足を引きずる(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳)

 袋に足を突っ込んで、引きずって歩いていた。私はふざけて遊んでいただけだけど、親父は怖い顔して「本当に足が悪いのでなければ、そんなことはやめろ」


   退職金(昭和四五年(一九七〇年 父三四歳 息子七歳)

 肥料会社には数年もか務めなかったから、退職金はたいした額では無かったろう。が、親父はその金を全部飲んで帰ってきたそうだ。母は後年、呆れ笑いしながら言っていた。ヒステリーを起こさなかったのは、金額もあるだろうけど、飲兵衛に諦めもあったのだろう。


第四章 晩年(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳~(昭和六〇年(一九八五年) 父四九歳 息子二二歳)

 あまり待遇が良くなかったらしい肥料会社を退職し、親父は有職者の口利きで市役所に勤めるようになった。その頃のことだから、情実が通ったらしい。

 住み込みで保育園の用務員になった。

 六畳一間の用務員室で親子三人、七年間暮らした。

 保育園の用務員は雑用だらけで、器用な親父は上手くこなしていたようだ。だが、女だらけの職場が親父に合わなかった。露骨ないじめではなかったろうが、男一人は疎外されるのはきつかったのだろう。

 もともと多い酒量が更に多くなり、酒を飲む時間が早くなっていった。隙があれば勤務中でも飲むようになる。酒毒が体を冒す、死に至る。

 誰も親父を助けられなかった。親父は私に精一杯の愛情を注いでくれたのに、ろくに親孝行しないまま逝かせてしまった。


   鶏(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳)

 親父はどこからかもらってきた鶏を、保育園の隅に鶏小屋を作って飼った。白い小型、品種名を聞いたら「チビ」だという。そんな品種はないと思うが。

園児の愛玩目的が名目だったのだろうが、実質は自分の家族がタマゴを食べるために飼っていた。公私混同だが、実害はないので黙認されていたようだ。

 けづめはライターで焼いて折ればきれいに取れる。と、親父は言う。自慢げに語って、やったら上手くいかない。焼けた皮はむけるが、折れはしない。「親父はこうやっていたがなあ」と首をかしげていた。

 園児たちが、お祭りの夜店だかで買ってきたヒヨコを、飽きたら持ってくるようになった。一番多いときは十数羽いただろうか。そういうのは採卵鶏の雄で、飼っていてもタマゴを産むわけはなく、やかましいだけ。

 「餌代がたまらん」と、親父は手伝いを呼んで、いっぺんに屠殺した。どういう知り合いなのか、その人は鶏の頭をたたいて殺すための鎚を持っており、殺し方を説明してくれた。

 保育園の調理室で解体して、肉は全部唐揚げにした。肉用に飼育したのではない雄鶏なんて、唐揚げにしたら堅くて食えたもんじゃない。「おまえら肉じゃない、ゴムだ」と私はわめき、皆を苦笑させた。


   亀(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳)

 保育園の小さな池に亀がいた。親父は逃げないように甲羅の端にドリルで穴を開けてひもをつけた。けど、いつの間にかいなくなった。


   あじさい(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳)

 保育園の庭にあじさいが植わっていた。私は何を思ったか、それで接ぎ木のまねごとをして遊んだら、親父はむすっとして全部こき落とした。


   大工仕事(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳)

 保育園の裏口の脇にカンナ掛け台や作業場を作り、棚を作ったり建物の補修や改修をしていた。結構古い保育園だったが、親父の在任中は補修を工務店に頼んだことはなかったようだ。

 工具は親父の私物だったはず。材料費は公費だったろうが、ちゃっかり私用に流用するぐらいはやったかもしれない。


   酒王 貴運久(きんぐ)(昭和四五年(一九七〇年) 父三四歳 息子七歳)

 大工仕事をするとき、「酒王 貴運久(きんぐ)」と染め抜いた前だれをつけていた。随分後になって知ったのだが、親父の里にある酒蔵らしい。

 どこから持ってきたのか尋ねたら、『カッコ良かろうが』と答えた。


   辞書のインデックス(昭和四六年(一九七一年) 父三五歳 息子八歳)

 親父は古い小さな辞書を使っていた。それにアカサタナの行ごとにインデックスを貼っていた。親父のやることだから、キチンとそろっている。

 なぜか母はこれが気に入らず、怒って全部引き破った。

 その後、その辞書を見なくなったような気がする。かんしゃくを起こした親父が捨ててしまったのかもしれない。


   保育園の生活(昭和四六年(一九七一年) 父三五歳 息子八歳)

 住み込みだと、段々と保育園の施設で生活するようになる。保育園の一室に布団を川の字に敷いて寝る、休日は園児の机を並べて卓球台代わりにして、友達と遊んでいた。親父は園の許可は得ていると言っていたが、どこまで本当だったのか。


   缶ぽっくりと竹馬(昭和四六年(一九七一年) 父三五歳、息子八歳)

 親父が竹馬を作ってくれたのは、私がねだったからだったか、親父が思い立ったからだったかは覚えていない。

 親馬鹿の親父は張り切った。まず練習用に缶ぽっくりを作った。親父は子供の玩具でも丁寧に作る。乗りやすい空き缶を選び、持ちやすい紐を用意し、最適になるように穴を正確に開け、紐の長さを何度も調節した。そこまでしなくても機能は同じだと思うけれど、几帳面な親父は手を抜かない。

 缶ぽっくりなんてものは、五体満足なら親父が懇切丁寧に教えなくても、少しの練習で歩けるようになる。

 これで気を良くした親父は、更に綿密に竹馬を作った。日本の丈の長さ、節の位置、足の高さや角度。

 竹馬は自転車と同じように、コツを掴めば乗れるようになるけれど、バランスを体が覚えないとなかなか乗れない。私はこのようりょうが悪い。器用で学問のない親父は言葉で教えるのが下手だ。

 上手くいかない子供はぐずる、泣く。教える親父は段々イライラしてくる。そうこうしているうちに、肥満児の私が無理をするので竹馬の足が折れた。素足で乗っていたから、多少の怪我はあったろう。親父が言うには、靴下をはいていたら滑るし、足の親指と人差し指で竹をつまめないから乗れない。

 これで私がかんしゃくを起こした。一所懸命に竹馬を作って教えた親父も怒る。「勝手にしろ」とか言われたか。

 それでも竹馬を、前より頑丈に作り直してくれるのが親父。

 その後、なぜか乗れるようになった。この種の遊びは天才的だった叔父(母方の次兄)に教わったのか、自分で工夫したのかは覚えていない。

 息子が竹馬で歩く姿を見た親父は、怒ったことなどなかったかのように大喜びしたのではなかったか。


   歯(昭和四六年(一九七一年) 父三五歳 息子八歳)

 私が知る限り、親父は歯医者に行ったことがない。歯が丈夫でもあったのだろうけれど、虫歯にならないように気をつけていたのだろう。

 それに似ず、息子は時々歯医者に行った。出来るだけ行きたくないから、歯を磨く習慣は身についた。

 親父が私を賞して「こいつは偉い。ジュースとか甘いものを口にしたら、歯を磨くか、その後水を飲むかうがいするかしている」。

 言われた本人は、そこまで気をつけていたかな、と思ったけれど、ほめられて悪い気はしなかったので訂正せずにおいた。


   東映まんが祭り(昭和四七年(一九七二年) 父三六歳 息子九歳)

 その頃はまだ、映画は子供の娯楽だった。子供は父兄同伴が多いから、その分だけ入場料が入るので、映画館としても子供向けの企画は悪くなかったと思う。

 その頃の東映まんが祭りは、新作映画を一本とテレビ漫画を何本も合わせて上映していた。たいがいは大人が見て面白いものじゃない。

 付きそう親父は時間つぶしにポケットウイスキーをちびちび飲んだ。そのうちに寝てしまう。子供達が大騒ぎしてる映画館で、よく眠れるものだ。

 寝るだけならいいのだが、親父のイビキがうるさい。映画を見られたもんじゃない。文句を言ったら、次からは映画館の入り口で待っているという。

 親父は映画館から椅子を借りて、もぎりの下に座っていた。私を見落とさないように、わざわざ目立つところに座っていたようだ。

 子供は勝手なもので、恥ずかしいからやめてくれ、と文句を言った。

 次の年からは、映画は一人か友達と一緒に行くようになった。


   すき焼き(昭和四七年(一九七二年) 父三六歳 息子九歳)

 その当時の我が家で一番の御馳走はすき焼きであったろう。

 親子三人仲良く――ではない。親父と私は肉の取り合いだった。子供はそれほど上手に箸が使えないのを、親父は「おら、おら」と言いながら肉を取っていく。愛情表現のからかいにしては容赦なかった。

 親父の幼少期に比べれば、随分とやさしいのだろうけれど、幼いこっちはかなり真剣に箸を使った。おかげで箸の使い方を覚えた。


   外国人選手(昭和四七年)(一九七二年) 父三六歳 息子九歳)

 親父はあまりスポーツをする方では無かった。市役所の部署対抗野球で、代打でヒットを打つのを見たことがある。元自衛隊員だから、そこそこ身体能力はあるはずなのにスタメンではないのだから、さほど上手かった訳ではあるまい。

 その頃のことだから、スポーツといえば野球だった。さして贔屓のチームはなかったが、好きな球団は巨人軍だった。理由は外国人選手を入れないから。

 『日本の野球だから選手は日本人だろ。王(貞治)さんのように昔から日本に住んでいる人は別だが、日本語もしゃべれないヤツが日本で野球するって変だ』。色々と議論はあろうけれど、親父の考え方は単純だった。

 後に巨人軍に外国人投手が入団した時、親父が宗旨替えしたのかは聞き損なった。

 『広島が強くなったなあ。昔の巨人戦はコールドゲームになるぐらいの点差が開いたものだが』、と広島ファンが聞いたら目をむくようなことを言っていた。


   切符の自動販売機(昭和四七年(一九七二年) 父三六歳 息子九歳)

 大分駅に切符の自動販売機が設置されて、まだそう経っていない頃。前で切符を買った女学生達が券売機の横で、おつりが少ないんじゃないかと言っている。親父は私に「いいから早く買え」、と硬貨を入れさせる。返却口の端に五〇円玉があるのが見えていたのだろう。切符と一緒に五〇円玉をつかんで、さっさと改札に向かった。


   手のひら(昭和四七年(一九七二年) 父三六歳 息子九歳)

 出が百姓で自衛隊だから、よく見たことはないが、親父の手は肉体労働者のものだった、ように思う。

 「堅いぞ」と自慢したこともあった。「これに比べれば、お前の手のひらの皮なんぞは紙だ」。

 「人間、苦労しなきゃいかん。便所で泣くような目に二・三回遭わなきゃ、一人前にはなれん」


   ラクテンチの写真(昭和四七年(一九七二年)頃 父三六歳 息子九歳)

 別府市のラクテンチは観光地であり、別府市民の遊び場である。年々寂しくなっていったものの、その頃はまだ動物園もあり、近隣に大規模な遊園地もなかったから、安く入場できるラクテンチは、休日に家族ずれで賑わっていた。

 そのころ、入り口付近で写真屋が露店を出していた。入ってくる客を撮影し、返ってくる頃には現像して飾っているのを販売している。自撮りなんか誰も考えつかない時代だから物珍しくはあったけれど、あまり安くはなかったこともあり、さほど売れてはいなかったと思う。

 親父は「こんなところに分身を置いて帰る訳にはいくまい」と、写真屋を喜ばせるようなことを言って物色した。そう言いつつ、自分よりも家族の写りが良いのを買ったのではなかったか。


   スギノイパレス(昭和四七年(一九七二年)頃 父三六歳 息子九歳)

 懐にもう少し余裕があり、夜の園芸を楽しむときに、別府市民はスギノイパレスに行った。往時にはけっこうな人気芸能人がショーを披露していた。

 ちなみにスギノイパレスの演芸場は芸能を披露しにくい、と聞いたことがある。温泉地の大演芸場だから、客は浴衣で胡座をかいて飲み食いしている。その最中に、ちょっと高いだけのステージで歌を歌うのは、素人の余興みたい。屈辱的な舞台でやる気がなくなる、のだとか。

 そのせいなのか、親父が贔屓にしていた田端義夫さんのショーを見た感想は「たいしたことなかった」だった。

 ともあれ、様々な施行をこらした大温泉に入り、飲み食いして返るのがその頃の娯楽の定番だった。親父は田舎者だから、それだけでかなりの贅沢だったはず。


   芋畑(昭和四七年(一九七二年) 父三六歳 息子九歳)

 保育園の体験農園は、土地の借用から栽培まで、親父が企画・運営したらしい。野菜の管理は親父がして、園児には芋掘りをさせた。余り物の芋が我が家の食卓に並んだ記憶が無いところをみると、収穫した芋は全部、園児に配分したのだろう。親父にしては珍しい。

 芋掘り体験をした保育園児の一人が「こんなことしなくても店で買える」と言ったのを、「今どきの子はそう考えるのか」と、根が百姓の親父は驚いていた。


   友達(昭和四七年(一九七二年) 父三六歳 息子九歳)

 親父は人当たりが良かったので友達が多かった。人がいいので、ときには嫌な思いをすることもあったろう。苦労人で小狡いこともあったけれど。

 大分市郊外の土地を買うことになった。自衛隊時代の友人に、一人では買い切れないので二人で折半して買うよう頼まれたから。親父はさほど乗り気ではなかったようだが、地主は親父を気に入り、「あんたになら売る」と言ったそうな。

 道路に接した面を折半する約束だったはずが、いつの間にか測量杭を引き抜かれ、親父の取り分は道路と離れた場所になっていた。

 親父は約束の境と違う場所に刺さっている竹棒を引き抜き、「これはおかしい」、と憤った。

そう言いつつ、怒る母をなだめたのは、友達を信じたかったのだろう。

 そうこうしているうちに友達は自分のいいように家を建ててしまった。親父の土地は道路と接していないから、家が建てられなくなった。その人はそうしておいて、親父の取り分を安く買う算段だったらしい。「同じ釜の飯を食った仲間に騙された」、親父は寂しそうだったと、母は言っていた。

それでも「そのうち、ヒツジでも飼うか」と気楽なことを言っていた。

 地目は山林――平地だが、雑な杉が植えられていたから間違いではない――で、税金がかからないから放っておいた。

 管理しない杉が友人の家に倒れかかったのは、親父が死んで数年後だった。良い機会だから土地を売った。使いようのない土地だからと、不動産屋に買いたたかれた。

 売買に購入価格が必要だからと、地主に問い合わせたら、親父が払った金額より安く売ったことになっていた。地主の税金対策だろう。母は昔の領収書を保管ししていなかったから、地主の言い分が通った。

 人の良い親父は、死んだ後まで損をした。

 母は怒るより、もはや笑っていた。


   くしゃみ(昭和四八年(一九七三年) 父三七歳 息子一〇歳)

 親父のくしゃみはうるさかった。ただでさえ大きな音なのに、くしゃみに合わせて「ハクショーン」と大声を出す。

 「やかましい」と怒鳴られても、平気で同じことを繰り返す。

 それから三〇余年、娘のくしゃみが親父にそっくりだと気が付いたのは、「やかましい」と怒鳴った後だった。娘は親父の死後一〇年以上だって生まれている。当然、会ったこともない。遺伝とは恐ろしいものだと思った。


   白髪(昭和四八年(一九七三年) 父三七歳 息子一〇歳)

 親父は少しずつ白髪が出てきた。気にして、母や私に抜かせた。面倒くさくて嫌がるようになると、小遣いを出すという。1本1円で始まり、1本10円までなったか。

 それでも嫌がると、親父は寂しそうにしていた。


   ジル耳(昭和四八年(一九七三年) 父三七歳 息子一〇歳)

 親父は湿った耳あか、ジル耳だった。母は耳かきを一々ちり紙で拭くのを嫌がった。私はさほど気にならなかったから、このころは私が親父の耳あかを取っていた。けっこう上手かったようで、親父は喜んだ。

 耳掃除は人にしてもらうものだと思っていた。耳掃除が上手でも、世間で役に立たない技能だと知るのは、だいぶ後になってからだった。


   誰とでも仲良くなる(昭和四八年(一九七三年) 父三七歳 息子一〇歳)

 スキノイパレスの宴会場だったか。親父が親しげに談笑している。「息子が来たんで、じゃあ、また」とか言って別れる。

 「いまの誰?」と尋ねると、「さあ、知らん」

 初対面の人に何かの拍子で話しかけられて、そのまま話し込んだらしい。家族同伴でなければ、そのまま酒飲みに行ったであろう。


   足音(昭和四八年(一九七三年) 父三七歳 息子一〇歳)

親父の足音は独特だった。前足をトンと着いて、かかとが落ちるまでに少し間があり、音は大きく低い。妙に間延びしたテンポは、何人も足音が混じっても明確に聞き分けられた。

 保育所に住み込みの用務員をしていて、家族が住む用務員室に親父が近づくのはすぐに分かった。それで私は勉強しているふりをいて、漫画本を隠して教科書を机に広げたりした。バレたのは一度だけだった。

 最近、何かの拍子で自分の足音が耳に残った。親父のとそっくりだった。


   竹を切る(昭和四八年(一九七三年) 父三七歳 息子一〇歳)

 母の実家の裏が竹藪になっていた。誰がどう頼んだのか、青年団だかボランティアだかが伐採した。一見綺麗になったのを見た親父は、憮然としてノコギリを持ちだした。

 青年達は小竹を鎌かナタで切ったので、切り口が斜めに尖っている。「踏み抜いて怪我をする」。確かに、竹槍を並べているようなものだ。

 親父は一人で、ノコギリで全部、地際から真っ直ぐに切り直した。


   梅の木(昭和四八年(一九七三年) 父三七歳 息子一〇歳)

 母の実家の裏庭に梅の木がある。あまり実が成らず、成っても梅干しにすると、日の丸弁当の時代――梅干しが主要なおかずだった頃――の大きさになるので、あまり手入れをしていない。

 剪定すると言い出したのは親父だったろうか。幹に登ってノコギリを使っていたら、枝を踏み折った。

 「兄さん、よりによって一番枝振りのよいのを」と、親父と気が合う叔父(母方の次男)がからかう。親父は何も言い返さずに剪定を続けた。

 それから四〇年近くたって、ふと梅の木を見たら、親父が折った跡が残っていた。


   野球拳(昭和四八年(一九七三年) 父三七歳 息子一〇歳)

 親父の酒は、どちらかと云えば大人数の宴会で騒ぐより、酒自体を味わうこぢんまりした酒席を好んだ。とはいえ、酒が飲めるならどこでも出かけていった。

 その当時の宴会の余興に野球拳があった。じゃんけんで負けた方が服を一枚ずつ脱いでいき、全裸になったら負け。それを周囲が囃し立てる。だいたいは宴会場に雇われた女が適度に負けて場を盛り上げる仕込みであったらしい。

 その種の機微は親父も熟知している。グー、チョキ、パー、次に何を出すか女がこっそりと指示するのを、親父はわざと打ち合わせと違うのを出して女を慌てさせる。それを見る客は大喜び。

 そうなると女と親父の純粋な駆け引きになる。遊び事で腹の探り合いになると親父は強い。女を全裸にしたと母に自慢していた。

 それを聞いて笑っていた母も剛気なんだか、考えなしなんだか。

 それで思い出した。道楽者の遊びは「飲む、打つ、買う」という。親父は酒を飲みすぎだが、他の遊びはしなかった。

 ばくち打ちはむしろ母だった。晩年、病に冒されている肺に紫煙が悪いと分かっているのに、時々パチンコに行った。その当時は禁煙のパチンコ屋なんてなかったから、パチンコに行くと何日かは咳が止まらなかった。そこまでしていくほどパチンコは楽しいそうだ。

 母は勝った話ばかりをしていたが、どこまで本当だったのか。

 すると女を買うのは息子か? 「これで身上潰す」と笑っていた母は、やはり剛気なんだろう。

 今のところ、家は潰れていない。


   家(昭和四八年(一九七三年)頃 父三七歳 息子一〇歳)

 家を建てようと考えたのは三十代半ばぐらいであったろう。

 その前から家に対する考え方は固まっていたようだ。親父は『家はアクセサリーではない』と言っていた。生活の場だから気取った飾りはいらない、実用本位であるべき、という意味らしい。

 だから親父が建てた家は装飾がほとんどない。収納スペースが多いのも特徴だろう。階段の下、一階と二階の間など、余剰箇所は物入れになっている。

 失敗したといっていたのは、部屋と廊下に段差があること。廊下のほこりが部屋に吹き込まないと考えたらしいのだが、埃がたまりやすく、掃除がしにくい。

 漬物や酒を収納する倉庫を、親父は自分で裏に作った。たぶん自分で作るつもりで、裏に場所を残しておいたのだろう。


   紙のグローブ(昭和四九年(一九七四年) 父三七歳 息子一一歳)

 小学館の学習雑誌、たしか五年生だったと思うが、新聞紙を折って作る野球のグローブの作り方が掲載されていた。

 『そんな物が役に立つか』と親父が言う。じゃあ、使ってみようと、保育園の園庭で、親父がゴロを投げるのを取った。ほとんど素手で捕球するのと変わらないのだが、少しぐらいなら破れずに使えた。

 「どうだ」と自慢げに見せる私に、親父は憮然としていた。かなり加減してボールを投げたに違いない。


   教育観(昭和四九年(一九七四年)頃 父三八歳 息子一一歳)

 親父は息子を溺愛した。時々怒られたが、さしたる教育観はなかったと思う。あったとしても、学がないから明瞭な言葉で表現できなかったろう。

 母がヒステリックに叱りつけるのは嫌だったようで、何かの拍子で見ていた教育番組で子供を一方的に叱りつけるのは良くない、とか言ってるに、「お母さんは間違ってる」と言っていた。

 そうは言いつつ、親父は母に直接言えないようだった。

 その頃だったか。テレビのニュースで、幼児を裸足で遊ばせるのを見た親父は、「子供はペットじゃない」と非難した。裸足とペットがどう結びつくのかは聞き損ねた。


   釘締め(昭和四九年(一九七四年) 父三八歳 息子一一歳

 親父は大工道具を大事にした。几帳面な性格だから、道具箱にキチンと並べて収納していた。

 その反動か、息子は大雑把で片付けが出来ない。親父の金槌やペンチを勝手に使っては置きっぱなしにした。不思議と親父はそれを怒らなかった。

 板きれや竹に玩具のモーターとスクリューを取り付けて、池で走らせて遊んだ。半分に割った竹筒にモーターと電池を入れると、トップヘビーで転覆する。バラスト代わりに親父の道具箱から持ち出した釘締めを取り付けた。

 上手く浮かんだ竹筒の船を親父に見せたら、「こんなところにあったか」。その時はそのままにして、飽きた私が竹筒船を放り出してたら、親父は釘締めを外して道具箱にしまっていた。


   信楽焼(昭和五〇年(一九七四年) 父三八歳 息子一二歳)

 母は仲間内で旅行によく行った。親父がついて行くことは無かったと思う。子供の頃の私は、さして行きたいとも思わなかったが、母に連れられていた。

 京都に行ったとき、伏見稲荷に土産物屋が並んでいた。狐の商品がいくつも並べられているなかに、信楽焼の狸があった。真面目なようなすっとぼけたような顔つきで、何とも情けない目つきが親父に似ている。

 親戚にバカ受けしたが、似ていると言われた親父がどういう反応をしたのか、覚えていない。時々埃を払っていたようだから、嫌ってはいなかったのかもしれない。

 久しく玄関に飾っていたのを、なぜか叔母が気に入って持って行った。父の死後、これまたなぜか叔母が返してきた。

 だから狸は今でも玄関にある。


   タクシー代のチップ(昭和四九年(一九七四年) 父三九歳 息子一一歳)

 親父は車の運転が出来ないから、汽車やバスの都合が悪いとき――贅沢なのでそうそうは乗らなかったが――タクシーを使った。

 料金が九八〇円だったか。親父は千円札を渡して、「つりはいいです」。それを言い出すタイミングや口調が絶妙で、わずかな金額のチップなのに、運転手は「こりゃ、どうも」と大喜び。

 苦労人だから、人が嬉しがる機微を体得していたのだろう。

 もう少し後の話で、似たようなことがあった。

 家庭訪問で担任の相手をした親父、先生が帰り際に書類をしまおうと鞄を開けたときに、「先生、つまらんものですが、どうか息子をよろしく」とタバコのカートンを差し入れた。

 そのタイミング、所作や口調が見事。先生は「いや、それは」と言いつつ、断れないように持っていく。

 上手いもんだと感心した。いまだに真似は出来ない。

 もっとも、親父の芸は効果がなかった。担任によろしくはされはせず、いじめを放置されたとか嫌な思いしかない。


   親父の道案内(昭和五〇年(一九七五年) 父三九歳 息子一二歳)

 親父は土地勘が良かった。一度通ればだいたい覚えて、道に迷うことがなかった。狭苦しい昔の別府の町中も、的確に説明できた。

 しかし親父の説明はあまり喜ばれなかった。「道しるべが飲み屋と質屋ばかりで分かりにくい」


   旧別府市役所(昭和五〇年(一九七五年) 父三九歳 息子一二歳)

 別府市は古い町で戦災に会ってないせいもあり、道は狭くて入り組んでいる。住宅地図にある道が見つからない。よくよく探したら、カニ歩きしないと通れないほどの狭い通路で、それを抜けると目当ての住宅地だったりする。どうやって資材を持ち込んだのか不思議に思う。今は都市整備でだいぶ分かり易くはなったけれそ。

 その頃の旧別府市役所は、道を知らない人が迂闊に自動車で行こうとしたら、一方通行だらけで近くにあるはずなのにたどり着けないようなところだった。

 親父は旧市役所に道案内した。遠くても表通りを行けば良いのに、怪しげな店が並ぶ狭い露地を通るものだから、案内される女性が、「どこに連れ込むんだ」と怒りだした。

 親父は、「親切に連れて行ってるのに何を言うか。真っ直ぐこの先だ。後は一人で行け。」 たぶん帰り道に迷うだろうけれど、親父は珍しく腹を立てたようで、置き去りにして帰ってしまった。

 その人も自意識過剰だけど、薄暗い路地裏を行く親父も迂闊だ。気が回るくせに、そういう無神経な一面がある男だった。


   バス賃(昭和五〇年(一九七五年) 父三九歳 息子一二歳)

 私は母方の祖母になついていた。共稼ぎで日中は両親とも家にいないせいもあって、小学生の頃、夏休みとか、ほとんど母の実家にいた。

 親父は車の免許を持たないから、移動はバスが多かった。小学校中学年ぐらいから、一人でバスに乗っていた。その日も、親父は祖母のところに行けとバス賃を出した。

 バスを降りるときに料金を払おうとしたら、車掌さんが足りないと言う。日頃は財布なんか持たない子供だったから、親父にもらった金しかない。仕方がないと降ろしてもらったけど、子供にはきつい体験だった。

 今にして思うと、車掌さんは、発育の良い私を半額料金の小学生とは思わず、大人料金を請求したのかもしれない。だとしても、親父がくれた金額では往復のバス賃には足りない。

 帰りのバス賃は祖母がくれた。

 用意周到な親父にしては珍しい失敗。家に返って親父に文句を言ったはずだが、親父がどう反応したかは忘れた。


   ミヤマキリシマ(昭和五〇年(一九七五年) 父三九歳 息子一二歳)

 親父は時々、山からミヤマキリシマを掘ってきたそうだ。天然記念物だけど昔は規制がゆるかった、と言っていた。親父のことだから、バレなきゃ盗掘ぐらいはやったろう。

 山から取ってきたミヤマキリシマは、平地ではなかなか根付かないそうだ。上手く育つと、今度は大きくなりすぎて見栄えが悪いのだと。

 「難しいからやめた」そうだ。


   カブトムシ(昭和五〇年(一九七五年 父三九歳 息子一二歳)

 その頃はまだ、母の実家の近くの山に行けばカブトムシが捕まえられた。なぜか祖母がカブトムシの居場所を知っていて、夏になると捕まえた。毎年、二〇匹ぐらいは飼っていたのではなかろうか。

 上手に飼う友達は越冬させたり繁殖させたりしたけれど、私はそこまで丁寧ではないから、冬になると死んでいた。その年はどういう案配か、寒くなっても何匹も生きていた。「そろそろ放してやろう」と言い出したのは母だったか。スイカの皮を餌にしているのが、夏を過ぎればスイカが売られなくなるという事情もあったろう。

 これまたどういう心情だったのか覚えていないが、私は素直にしたがった。

 「ここが良かろう」と親父が示したのは、捨てられて朽ちかけた畳。越冬するカブトムシは朽ち木や土にもぐるそうなので、親父はそれを考えたのかもしれない。

 私がカブトムシを飼うのは、この年が最後になった。


   母のヒステリー(昭和五〇年(一九七五年) 父三九歳 息子一二歳)

 親父の酒飲みに母は終生苦しめられた。逆に母のヒステリーに親父は辛い思いをした。

 何がきっかけだか覚えていないが、母が親父を酷くなじった。苦労して身体を悪くした、健康な身体を返せ、と。言いがかりとは云えないが、母が吐血したり子宮を患ったりしたのは親父のせいだけではなかろう。

 感情が高ぶった母は、親父の髪を掴んで頭を揺さぶり、「返せ」と連呼した。

 親父はその仕打ちに黙って耐えていた。


   英語塾(昭和五〇年(一九七五年) 父三九歳 息子一二歳)

 母は子供を、いくつもの習い事や塾に通わせた。芸事は社交に有利だし、学歴がない不利は身にしみていたから。裕福ではない家計の負担であったはずだが、母はそれを私には口にしなかった。

 親の心子知らずで、習わされる方は負担に感じていた。ほとんど身につかなかった。

 その最たるものが小学校五年生ぐらいから通った英語塾。老先生が一人で教える塾は成績が良くなると評判だった。しかし教え方は厳しい。出来が悪い塾生を他の子供の前で笑いものにした。

 私はこれがつらくて、塾に行けなくなった。それを知らない両親は律儀にお中元を届けた。老先生は親父が勤める保育所にやって来て、おたくの息子は来ていないから受け取るいわれは無い、と突き返した。衆人環視の中、大声でまくし立てられた親父は恥じ入るばかりだった。

 日頃は息子を溺愛する親父も、さすがに怒った。多くは言わなかった。「俺も悪いことはしたが、お前のように卑怯なことはしなかった」


   ジョリカン(昭和五一年(一九七六年) 父四〇歳 息子一三歳)

 石油ストーブの灯油缶に金属製のごついのがあった。暗緑色で部隊名も入っていたと思う。親父が自衛隊から失敬したに違いない。それを問いただすと親父は苦笑いしながら、「まあ、なあ」とか曖昧なことを言ったか。

 親父が泥棒したのが嫌で、私は泣き出した。唐突に子供返りした息子を母親が慌ててなだめた。「これはもう捨てようね」。

 親父も使うのはやめたけれど、庭の端で朽ち果てるまで置いていた。


   夏休みの宿題(昭和五一年(一九七六年) 父四〇歳 息子一三歳)

 私は夏休みの宿題は早めに片付ける方だったが、中学一年の技術科の宿題は手がつかなかった。課題は「廃材を材料にして、家で使うものを作れ」。

 教えられた通りの答案を書くのはそれなりに出来た子供だったけれど、創造的なアイデアは出せない。ずるずると日が過ぎていく。

 やきもきした親父は頼まれもしないのに作った。電線のガイシを四個持ってきて、それを足にした木の台を作った。表面に焦げ目を入れた、けっこう凝ったものだった。

 教師には好評で、高得点をもらった。それを親父に告げると、「お前が作る程度に下手にするのが大変だった」

 母には叱られた。だから中学二年からは、技術の宿題は、親父が動く前に自分で作った。

 教師の評価は散々だった。


   左利きの遺伝(昭和五一年(一九七六年) 父四〇歳 息子一三歳)

 私は左利きである。しかし箸と鉛筆は右手で使う。強制された記憶はないが、何となくそうなってしまった。

 ものによって利き腕が違うと、スポーツの指導はやりにくいらしい。野球のグローブを借りるのに左利き用を頼んだら、「おまえ、鉛筆は右手じゃないか」と変な顔をされた。

 何かの拍子で教師と親父がその話になった。「遺伝でしょう。私の実は左手の方が強いから」。親父は何をするのも右利きだった。

 後年、私に子供が出来た。二人とも左利き。遺伝というものはあるのだなあ、と思う。子供達には鉛筆だけは右手で持たせた。


   五寸釘(昭和五一年(一九七六年 父四〇歳 息子一三歳)

 親父は大工仕事が上手かった。仕事が丁寧で、材料を安く見繕う頭の良さは大したものだった。母は随分と重宝していた。その割に、親父が新しい電動工具が買うのは許さなかったが。

 母が嫌がったのは、親父がやたらと太い釘を使いたがること。親父が作った棚や箱には釘がデンと刺さっている。木材をきれいに仕上げてるから、それが余計に目立つ。

 私が技術家庭で習った、木材の厚みに対する適切な釘の大きさと比較しても、明らかに一回り大きなグギを使っていた。教科書を示してそれを指摘しても、親父は聞く耳を持たなかった。

 見ようによっては質実剛健で格好いい。真似して私も太めの釘を打つと、板が割れる。釘の打ち方にもようりょうがあるのだろう。逆に釘を小さくすると、こんどは強度が弱い。このバランスを見極める親父の経験則には、いまだに敵わない。

 ともあれ、母は親父にあれこれ作らせるくせに、釘で見栄えが悪いと、半ば呆れて笑いながら文句を言う。「どこでもここでも五寸釘を打って」

 親父は母に聞こえないように「五寸釘じゃない」。流通している釘はメートル法で一五センチだから、五寸より一五ミリ短い。

 「今はもう、本当の五寸釘はないんだ」。母が何と言おうと、親父はもっと長い釘を使いたかったようだ。


   乗馬(昭和五一年(一九七六年) 父四〇歳、息子一三歳)

 親父は馬に乗れた。農耕に馬を使っていたからで、乗馬を習ったのではない。乗馬クラブに行くと、親父の乗り方は変だったらしい。

 馬に乗る時は、夏でも大きな半纏を着た。馬が暴れた時は頭から被せるためだと言う。急に周囲が暗くなると、馬は気が弱いから温和しくなるのだと。周囲に笑われ、嫌がられても、頑として自説を曲げなかった。

 乗馬クラブで素人を乗せるための馬は、めったなことでは暴れないよう調教されているようで、親父の言うことが本当なのか知る機会はなかった。

 馬は眠る時でも立っている。それが牛と違う。と言っていた。

 西部劇とか見ていて、馬が倒れるシーンがあると、「すごい、馬をねかせた」と感心していた。

  

   金冷法(昭和五一年(一九七六年) 父四〇歳 息子一三歳)

 睾丸を冷やすと精子が増大する金冷法というのがあるそうだ。精力によいとも云う。俗説で、医学的根拠があるのかは怪しい。

 親父は何を目的としていたのかは知らぬが、風呂上がりに股間に冷水をかける習慣があった。

 住み込みの保育園の風呂は温泉が引かれている。出しっぱなしだと熱湯が流れる。

 何を勘違いしたのか、冷水と取り違えて熱湯を股間にかけた。一物も火傷して、しばらく治療していた。


   時代劇が好き(昭和五一年(一九七六年) 父四〇歳 息子一三歳)

 親父は時代劇が好きだった。その頃はテレビでいくつも時代劇を放送していたから、親父は良く見ていた。

 テレビで毎週放送する時代劇はパターン、特にクライマックスは決まっている。好きな人はそれが面白いのだけど、やんちゃな子供はそれを笑いものにする。いい案配に、からかいがいのある時代劇好きが横で見ている。

 水戸黄門なら、悪徳商人がワイロを出すと「天井裏に弥七がいるぞ」。悪代官が善人に無実の罪をなすりつけてると「黄門様の笑い声」と先を言う。

 黄門様の「懲らしめてあげなさい」から「こちらにおわす御方をどなたと心得る」云々の決め台詞は一呼吸前に真似する。回によってバリエーションのあるゲストの台詞も、大体言い当てる。

 楽しく見ている親父はたまったもんじゃない。それでも怒りはしなかった。


   赤外線治療器(昭和五一年(一九七六年) 父四〇歳 息子一三歳)

 直径二〇センチほどの筒の中に、赤外線こたつの発熱部のようなのが入っている。痛む場所に光を当てると良い、らしい。

 買ってきたのは、たぶん母だったろう。親父も腰痛気味だったから、夫婦でちょくちょく使っていた。

 親父は凝り性だから、熱心に取扱説明書を読んで、母に使い方を説明していた。

 この種の健康器具はだいたい一過性のものだ。先に飽きたのは母だったと思う。

 透明フィルムのカバーが割れたせいもあって、そのうちに親父も使わなくなった。ものを捨てない親父には珍しく、いつの間にかなくなっていた。その程度の効果だったのだろう。


   原付免許(昭和五一年(一九七六年) 父四〇歳 息子一三歳)

 親父は自衛隊でも運転免許を取らなかった。実技はともかく、学力試験がダメだったのだろう。

 原付免許は学力試験のみである。逆に実技だけだったら、親父は楽だったろう。苦手な勉強をして免許を取ろうとしたのは、仕事の都合だったのか、母にやかましく言われたからだったのか。

 免許の説明に二輪販売店が家まで来た。各社から扱いの楽なスクーターが発売され始めた販促で、当時は原付免許の取得にそこそこ営業価値があったのだろう。

 原付免許の試験は、いまでも容易に取れるようだが、親父は落第した。母になじられて、しどろもどろになったのが可哀想だった。

 二回目か三回目かで合格した。

 几帳面で器用だから、親父のスクーターはいつもきれいだった。二サイクルオイルはもちろん、予備のガソリンまで倉庫に備蓄する(その頃はガソリンの保管の規制が緩かった)抜かりなさだった。

 親父はスクーターの整備も含め、運転を楽しんでいたのだろう。

 アル中になったから、運転免許は取らない方がよかったと家族が思うのは、もう少し後のこと。

 このころ、生活は安定して家も建てたから、傍目には親父は幸せに見えただろう。しかし、実際には仕事や家族に悩みがあったようで、もともと多い酒量が更に増えていた。


   親父の戦争観(昭和五一年(一九七六年)頃 父四〇歳 息子一三歳)

 親父は日曜の朝は時事放談を見ていた。過激な発言に「そうだそうだ」と面白がっていた。おとなしめの論調になった頃は「最近は面白くない」。

 やはり休日に放送されていた政党討論会を見て、与党自民党が野党に非難されるのを見て、「もっとやれ」。

 だいたいのパターンとして、共産党がネタ振りをして、社会党あたりがそれに乗って自民党を攻撃する。答えに窮する自民党を見て、親父は大喜び。公明党が更に発言すると、その言葉尻を捉えた自民党が論点をずらして逃げ切る。「公明党はいらんこと言う」と親父はイラつく。

 あれは、そういうのが好きな母に引きずられていたのか。

 日頃は、親父は政治信条をほとんど語らなかった。学がないので難しいことは言おうとしても言えなかったろうけど。

 なにかの拍子に戦争の話になった時、短く「日本は負けて良かったんだ」とだけ言った。


   ビワ(昭和五二年)(一九七七年) 父四一歳、息子一四歳)

 親父が勤め、家族が住み込んだ保育園の裏庭にビワの木があった。たぶん親父の世話が良かったのだろう。けっこう実がなった。

 そのビワの木は良い案配に通りに面しているので、悪ガキが失敬していた。「俺、ここのおっさんに怒鳴られた」といいながら歩く中学生がいた。ひとしきり親父の悪口を言っていた。

 その息子だと知れたら仕返しがこっちに来そうで、見つからないように保育園に入った。


   たいまつ(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 私が通う中学校は登山して一泊するキャンプがあった。夜はキャンプファイヤーで点火式をするから、たいまつを用意するように通知された。

 普通の家にたいまつなんかない。あんまり出来の良くない生徒が多かったせいもあり、たいがいは無視するか、いい加減なものを用意した。

 こういうときに張り切るの親父で、竹棒の先端にボロ布を巻き付け、間に松の木切れを差し込んだ、凝ったたいまつを作った。

 長さ一メートルほどで、かさばるし悪目立ちするからら、私はあんまり喜ばなかったけれど、親父の労作をむげにも出来ず、担いで山に行った。

 大人数のキャンプは時間どおりに進まない。キャンプファイヤーの時間は遅れた。大半の生徒がたいまつを持ってこなかったこともあり、点火式は代表者だけになった。

 親父のたいまつは使われないまま終わった。


   相互銀行(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳、息子一四歳)

 普通銀行転換により商号が銀行になる、だいぶ前のこと。相互銀行は親父名義の預金が一番多い銀行だった。

 いくつもの銀行と付き合っていたのは、用心深い母が危険分散したため。あと、大した預金額ではないけれど、昔は優遇措置が銀行ごとに適応されたためであったようだ。

 親父が住宅ローンを申し込んだら、相互銀行は否決した。親父は即座に預金を全額引き上げた。「勘弁してください」と行員が泣きついたら、親父はひょうひょうと「あんたんとこが金貸してくれないからしょうがないだろ」。取り付く島もなかったらしい。 

 住宅ローンはその預金を全額持ち込んだ信用金庫で借りられた。

 その後、私が大学で県外に出た時、仕送り用に相互銀行の口座を作り直した。当時、県外で自動支払機が多く、キャッシュカードが使いやすいのが相互銀行だったらしい。卒業して仕送りをしなくなったら、即座に解約した。

親父は人が良くて損をしていたけれど、勝てると踏んだら冷徹になる男だった。


   終の棲家(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 結局、住み屋を立てた土地は、母の母の実家筋から買った。親戚だから安くしてもらったらしい。が、親父は一族の長から『奥さんの親戚が多いから辛い目に遭うかもしれない、それでも良いか』と言われたらしい。親父は「そういうのは気にしない」と答えたという。

 実際、その程度のことで親父は動じなかったようだ。

 「俺は名(名字)の変わらん養子だ」と言ったこともあったか。自嘲だったのか冗談だったのか、よく分からない。


   倉庫(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 土地が不等辺だから、四角に家を建てたら角に余地が出来る。親父はそこに一坪ほどの倉庫を建てた。材料はどこかの家を解体した柱をもらってきたりしたから、ほとんどかからなかったらしい。

 屋根の寸法や傾斜を付けるための柱の高さはチョコチョコ計算していたが、図面の一枚も引かなかった。「そんなことしてる間に建てちまうよ」。余り物をもらってくるから、調達できた材料の大きさや数で設計が変わっていく。一々図面をやり直すより、実際に作りながら考えた方が、出来上がりのイメージが掴みやすいらしい。

 それでちゃんと、床がセメント張りの木造倉庫が建ってしまった。親父は馬鹿ではないと見直した。


   床の間(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 親父はやろうと思えば大工が務まったと思う。

 逆に下手な大工仕事を見ると――周囲に嫌がられるのを避けるため、身内にこっそりとだったが――ここが空いているとか寸法が狂っているとか言っていた。

 建てたばかりの自分の家も、気に入らないところがいくつもあったようだ。なんやかやと建設屋に手直しを注文したようだ。障子の立て付けが悪いぐらいは自分で直していたけれど。

 「うちの床の間を作った大工さんを寄越してくれ」と人の指定までして。親父が見るところ、床の間をを作った大工が、工務店の中でいちばん腕が良いのだと。その大工さんがやめてしまったと棟梁に言われ、後で母に「あの工務店じゃ、腕のいい職人はいつかんだろうな」。

 そういいつつ、頭領とは親しくしていた。人がよいのではない。仲良くしていた方が家の修繕を安く出来るとかの損得勘定からだ。


   庭、その一(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 家を建てた土地は元が田だから水はけが悪い。それをよくしようと石を入れたらしい。

 親父は家を建てた後に、庭に更に砂利を入れた。国鉄が日出の路線を改修するのに撤去する砂利をただで運んでもらった。廃材の処理に難儀しているらしい作業員は、トラック二台入れて、十分だという親父に「もういらないのか」と言った。

 そのうえに土を入れて庭を造った。

 これは失敗だった。田は下の粘土層を壊さないと水はけはよくならない。

 親父は百姓仕事をしないと気が済まないタチだから、庭の大半を畑にしたのが、表層が浅いのもあって育つ野菜が限られた。サツマイモはダメで、ツルが伸びず、ほとんど収穫できなかった。

 親父の死後三〇年も経って、私が畑の石を掘り起こして深耕したら、ようやく大根や芋が育つようになった。


   庭、その二(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 庭と称しているが、親父は庭木は壁際にツツジやらを植えて、残りはほとんどを畑にした。「家は飾りじゃない、住みやすいように作らなきゃならない」と実用一点張りの設計で、庭もその思想だった。「庭に芝生を敷くもんじゃない。土をむき出しにして、子供に土遊びをさせるんだ。」、一人息子は土遊びをする年でなくなってたのだが。親父は自分が家庭菜園で遊びたいから、そんなことを言ったのではなかろうか。

 ともあれ、八畳ほどの畑を作った。母に「半分ずつにしよう。朝日の当たる東側をあげる。」と言った。母はだいぶ後になって「ここは朝日よりも夕日が当たる時間が長いから、西側の方が野菜がよく育つ。そういう土地だって、おとうさん、知ってたはずよ。」、親父は自分の方が野菜作りは上手い、と自慢していたそうだ。母は親父の小狡いのを怒るより、子供っぽいのを笑っていた。


   庭、その三(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 庭の壁際に桜を植えた。桜は結構手のかかる作物で、防除しないと虫に葉を食い荒らされる。花も咲かない。

 桜にたかるイラガの幼虫に母が音を上げた。気持ち悪いし刺されると痛い。「これはもうだめだ」と数年で切り倒してしまった。

 そのあとには梅を植えた。梅には毛虫はあまりたからなかった。梅干しを作る目的もあったようだが、親父の生前はほとんど実がならなかった。


   庭、その四(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 親父は庭木の害虫防除に農薬をあまり使わなかった。布袋にタバコの吸い殻を詰めた布袋をジョロに入れ、そこに水を注いだ抽出液を庭木に振りかけた。

 無農薬だの環境など考えていたのではない。単に、庭木に金をかけたくないだけだろう。どのくらいの効果があったのかは分からない。


   庭師(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 母が言うには親父は庭師が出来るぐらい石や樹木に詳しいのだそうだ。自分の家の庭は縁石を綺麗に並べていたから、誇張はあるけれど、そこそこの技量はあったようだ。保育園の樹木は親父が綺麗に管理していた。池の縁の修繕とか、用務員の域を超えていたと思う。

 そうはいっても仕事にはしなかったから、親父自身は素人の域だと思っていたのではなかろうか。

 大工仕事も下手な大工より上手で、保育園の棚や収納、あれこれ作った。けれどそれで手当が出るわけではないから、金にはならなかった。

 器用貧乏を絵に描いたような男だった。


   日の丸(昭和)五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 祭日に日の丸を掲げようと言い出したのは母だったろう。母はそういうのが好きだった。あるいは、その頃は近所でそうしている家がけっこうあったから、真似したかっただけかもしれない。親父はそういうことに頓着ない男だった。

 だから日の丸のセットを買ってきたのは母だった。それを玄関に掲げるよう言われた親父は、留め金を固定するのに壁に穴を開けねばならないと説明した。

 母がかんしゃくを起こした。新築の家に穴を開けるな、と。例によって親父は黙って聞いていたけれど、腹が立ったのだろう。母がいなくなった後に、「なら、使えないものを買ってくるな」。

 しょうがないから、私が旗竿を門扉に縛り付けて固定した。祭日が終われば、ほどいて片付ければ良い。

 親父はその雑な仕事が気に入らなかったのだろう。見栄えが悪いとか、珍しく息子のやることに文句を言っていた。

 日の丸の出し入れは私の仕事になった。飽きっぽい母は、最初こそ祭日の度に掲示を言いつけたが、そのうち熱が冷めたようで、やかましく言わなくなった。だから、めんどくさがりの私は何年かでやめてしまった。


   おむつ(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 親父が可愛がった義妹に子供が出来た。親父はこの女の子と、二年後に生まれたその妹も可愛がった。

 それもあって、この子を時々家で預かった。

 女達は、子煩悩な親父は赤ん坊の世話ぐらい出来ると思っていたのだろう。考えおちしていたのが、親父が育てた赤ん坊は一〇年以上前の男の子だけだということ。その育てた子は一人っ子だから、なおのこと赤ん坊の世話が分からない。

 女の子のおしめの締め方が分からない。親父はその時、昼間から酔ってもいたと思う。二人して、ああでもないこうでもないとおしめを着けたり外したり。その間も赤ん坊は泣く。慌てるとますます分からなくなる。

 「これでいいと思う、たぶん」と、まいたおむつはあからさまに不格好で、少し動けば外れてしまいそう。

 帰ってきた母がやり直した。二人してこっぴどく叱られた。


   三重町の紫雲石(昭和五二年(一九七七年) 父四一歳 息子一四歳)

 親父は庭師の知識があった。価値のある石の目利きが出来たらしい。

 盗掘が禁止される前だと言っていたか――禁止されなくても、勝手に持ち帰るのはいけないと思うが――大分県大野郡(現在の豊後大野市)三重町の河原から紫雲石を取って来ていた。どこからそんな情報を仕入れるのか、値打ちのある紫雲石が取れる場所を知っていたようだ。

 家族が呆れかえったのが、別府から三重町まで自転車で往復したこと。帰りは重い石を積んで、けっこうな坂を上ってきた。こっちは石に興味ないから、親父の石を見もしなかった。

 だから親父の死後、その紫雲石がどこにあるのか知らない。


   社会党(昭和五三年(一九七八年) 父四二歳 息子一五歳)

 母の弟が市議会議員に立候補した。労働組合の活動が高じて、というか祭り上げられて選挙に出るってのは、社会党(後の社会民主党)では珍しくはないだろう。そういう場合、これも良くあることのようだが、親戚はいい顔しない。気性の激しい母は怒鳴りつけて反対していた。まあ、最終的には選挙活動を手伝ったのだが。

 親父は親馬鹿だけじゃなく、友人知人を自慢する人で、身内が先生になると大喜び。後援会連絡所の立て看板を玄関前に掲げた。母に邪魔だと怒られても片付けなかった。

 当時の社会党は、自衛隊は違憲だと主張していた。死ぬまで予備自衛官だった親父が、嬉しそうに社会党の応援する。それを息子にからかわれても笑っていた。

 親父のような苦労人の一般大衆には、政治信条なんぞ、毛ほどの重みもない。


   老眼鏡(昭和五三年(一九七八年) 父四二歳 息子一五歳)

 親父が老眼鏡をかけ出したのはこの頃だったろうか。視力が良い人は老眼になるのが早いという。親父はそれだ。若死にしたのは酒飲みすぎのせいだけど、老化が早かったのかもしれない。

 盆栽の解説書以外の本を買ったのを見たことがないけれど、新聞はよく読んでいた。


   魚屋(昭和五三年(一九八七年) 父四二歳 息子一五歳)

 近所に魚屋が開店した。親父は「長くは持たん」と言う。元は雑貨屋だかを改装してガラス戸を広く、明るくしたのがよくない、と言う。「あんな日差しの強いところに魚を置いたら、すぐに痛む」。

 なるほどと思った。しかしその魚屋は結構繁盛しているようで、長く続いている。親父には冷房とか冷凍ケースという発想がなかったらしい。


   睡眠哲学(昭和五三年(一九八七年)頃 父四二歳 息子一五歳)

 『人間、食べて寝てれば何とかなる』。親父は学がないので難しい理屈はない。しかし苦労人の経験則は学問を超える。

 実際、何か辛いことがあると酒飲んで寝てたようだ。母は睡眠哲学と呼んでいた。


   浪曲のステレオ(昭和五三年(一九七八年) 父四二歳 息子一五歳)

 家族三人で代金を折半してステレオを買った。家のインテリアにもなると中座敷においたのは失敗だった。元は水田に建てた家は湿気が多い。家の中央、風呂の向かいに置いたレコードは、油断してるとカビが生える。

 始終かけていればそうでもないのだけど、親父はスイッチが並んだステレオの操作が覚えられないから、音楽を聴く時は私を呼んだ。こっちはそれを面倒くさがる。親父が好きな浪曲なんか、聞きたくもない。で、親父はたまにしか聞けない。

 そのうちに、黒いレコード盤に白いカビが生えた。こりゃもう、かけられないと言うと、親父は怒り出した。いまにして思うと親不孝であった。

 ステレオを二階に動かしたのは、親父の死後、家を改築した後だった。


   風呂 その二(昭和五三年(一九八七年)頃 父四二歳 息子一五歳)

 何かの拍子で家の風呂に入れないことがあった。近所の銭湯に行けばいいのに、親父は私を連れて駅前の温泉館に行った。二人で家族風呂に入り、休憩室でジュースを飲んだ。何故そんな贅沢をする気になったのか。尋ねたが、憮然とした顔で返事はなかったと思う。

 私が喜ぶと持ったようだ。幼い頃に、杉の井パレスの大浴場でははしゃいだことがあるからだろうか。


   菊(昭和五三年(一九七八年) 父四二歳 息子一五歳)

 親父はその当時の農家の次男以下の常で、育ち終わると家から出された。それでも農業が好きで、死ぬまで農業をやりたがった。しかし、どのくらいの農業技術を持っていたのかは分からない。

 田植えのやり方を教えてくれたのは伯父か従兄弟だったか。親父はその時何も言わなかったと記憶する。任せたのではなく、伯父よりは稲作を知らなかったような気がする。

 盆栽作りはそこそこ上手だったようだが、菊の栽培はダメだった。菊花展の見事な一輪咲きを気に入って鉢植えを始めたところ、親父が手をかけて出来上がった菊は、小さな花が数輪咲いていた。余った苗を畑の端に植えて、放置した菊の方がまだ大きな花を咲かせていた。

 それをからかうと苦笑いしていた。

 もっとも、親父の家は稲作主体の三反百姓だから、花き栽培の経験はなかったろう。


   ストリップ(昭和五三年(一九七八年) 父四二歳 息子一五歳)

 義弟(実の妹の夫)とは気が合っていたようだ。たぶん飲みに行ったときだろう、「ストリップに行きましょう」と誘われた親父は断った。

 「兄さんがあんなに堅い人だとは思わなかった」と叔父は半ば怒っていたそうだが、そうではない。女だらけの職場でいじめられ、女に嫌気がさしていたのだろう。

 この話は母から聞いた。女がらみはおおらかな夫婦、一族であった。

 今にして思えば、そのくらい明け透けに話が出来たのだから、この頃に仕事を変えてもらえれば、親父はもう少し長生きできたかもしれない。


   親子の癖(昭和五四年(一九七九年) 父四三歳 息子一六歳)

 親父は行動の合間に大きく息を吐く癖があった。文字通り「一息つく」。大げさだなあ、と思っていたけど、気がついたら自分も同じことをしていた。


   勉強(昭和五四年(一九七九年) 父四三歳 息子一六歳)

 親父は中卒だった。あのケチな祖父が、義務教育はともかく、五男だか六男だかに学費をかけるはずがない。使えるだけこき使ったに違いない。

 なにかの拍子で親父が言った。「お前はいい、好きなだけ勉強できるんだからな」


   インシュリン(昭和五四年(一九七九年) 父四三歳 息子一六歳)

 親父は飲み過ぎで糖尿病になった。そのころ、血糖値を下げるインシュリンの注射が自宅で出来るようになった。押し入れにけっこうな量がストックされていた。

 実際に注射しているのを見たことはない。母が打っていたようだ。「いくら打っても、酒を飲むんだから、糖尿病はよくならない」と怒るやら笑うやらしながら、まめに親父の面倒を見ていたようだ。


   塗料ビンの箱(昭和五四年(一九七九年) 父四三歳 息子一六歳)

 私はプラモを作る。プラモ用の塗料のビンは直径三センチ強と小さいが、色は種類が多いから、数をそろえるとけっこうかさばる。整理が面倒になるから、ひとまとめにする箱が欲しい。母が親父に告げると、「そうだな、作ってやろう」と言った。

 以前ならすぐに取りかかるところだが、親父がこの箱を作ることはなかった。この頃からアル中になり始めていたから、好きな大工仕事をすることも少なくなっていた。

 似たようなことはいくつかあった。

 茶の間の縁側はまだ酒毒に犯される前の親父が作った。濡れ縁は雨で痛む。暴雨剤を塗らなければと言っていたが、そのままであった。

 朽ちると、見よう見まねで私が作り直した。土台は親父が作ったのを使っている。


   叔母の娘(昭和五四年(一九七八年) 父四三歳 息子一五歳)

 叔母の下の娘は、甥姪の中で親父にいちばん可愛がられたと思う。酔っ払った親父の背中を蹴飛ばして、親父が振り返ったときには通り過ぎる。その親父の間抜けな反応を見て喜んでいた。親愛が成り立っていたから出来る悪ふざけだったのだろう。

 親父が死んだとき、一番ショックを受けていたのはその子だったと、母は語っていた。


   ルパン三世カリオストロの城(昭和五五年(一九八〇年) 父四四歳 息子一七歳)

 確か日曜日の午後だったと思う、テレビで録画した「カリオストロの城」を見ていたら、親父も後ろで見ていた。こちらは誰が見ても楽しめる作品。たしか「面白かった」と言っていたと思う。

 その少し前だったか。テレビ「ルパン三世」で、石川五右衛門の『ルパンの弱点は毛が三本足りぬということだ』に大笑いしていた。

 漫画とか興味のない男だったが、ルパン三世は好きだったのかもしれない。


   息子の進学(昭和五五年(一九八〇年) 父四四歳 息子一七歳)

 親父は気楽な男だった。息子の大学受験が近づくと、母はやきもきしたけれど、親父は何を考えていたのやら。

 息子の担任と親の面談に、いつもは母が行っていたが、母の都合が悪くて親父が行ったことがあった。担任は、最近成績が落ちているから、もっと頑張らせろと言う。

 親父は「なあに、体が元気なら土方でも何でもやって食っていけますよ」

 担任は呆れかえり、後で母に電話してきた。母は担任に謝った。後になって、親父ならそのくらいのことは言いかねないと、笑って話した。

 親父は苦労人だから、思い悩んでも結果が良くなるものじゃないと実感していたのだろう。多大な期待はしないタチだった。

 そのくせ、息子が大学に進学すると大喜びで周囲に自慢して回った。「今どき大学に行くなんて珍しくもない。何年かしたら従兄弟が進学する。恥ずかしいから親馬鹿もたいがいにしなさい」と母がいさめても聞いちゃいなかった。

 反面、息子の進学先が農学部だったのは手放しでは喜んでいなかったようだ。農家の出だから農業を知っている自負があったようで、「俺が知ってることを、四年間、金かけて習ってくるんだろうな」。


   アル中(昭和五五年(一九八〇年) 父四四歳 息子一七歳))

 父がアルコール依存症になったのは保育園の保母さん、男が一人の職場で女たちにいじめられたせいだ、と母は云っていた。それが主因ではあろうが、いくつもの要因があったのではなかろうか。

 いきなり酒浸りになったのではない。酔って問題を起こすようになったのは用務員になって五年目ぐらいであったろうか。

 その頃は素面を見ることがなくなった。


   失禁(昭和五五年(一九八〇年) 父四四歳 息子一七歳)

 親父は仕事を抜け出して酒を飲んでいたようだ。

 この頃の親父は酔って帰宅することが多かった。飲まずにいられないほど辛かったのだろう、親をもっといたわるべきだった、とは、いまだから思うこと。その頃は、泥酔した親父が嫌で仕方なかった。

 その日は特に嫌なことがあったのだろう。酒量が多かったようで、歩くのもやっとで返ってきた。廊下で倒れ、そのまま寝てしまった。そのままにしておいたら失禁した。

 始末するのが嫌で、何もせずに学習塾に行った。返ってきたら母が始末していた。

 母は怒り、親父を引きずって私に押し倒した。酔いが覚めぬ親父は転び、敷居に頭をぶつけて血が流れ出した。

 さすがに母も、頭だから死にはしないかと慌てた。私は冷ややかに止血を見ていた。


   薬(昭和五五年(一九八〇年) 父四四歳 息子一七歳)

 深酒は体を蝕む。薬を処方される。

 当時、病院が出す薬は一回分を半透明の小袋を繋げて梱包したものだった。几帳面な親父は小袋にマジックで日付と朝昼晩を書き込んでいた。まれに飲みそこなったら、その分は別にしておく。これならいつ飲んだかが一目瞭然。

 そこまで気を使うなら、そもそも酒を飲まなければ良いのだが。


   ドブ川(昭和五五年(一九八〇年) 父四四歳 息子一七歳)

 親父が泥酔して川に落ちた。浮かんでいるのを見つけられたというが、生きていたのだから母が大げさに言っていたに違いない。見つけた人は肝を冷やしたようだが。

 落ちたまま寝ていたのは事実のようだ。


   平野文さん(昭和五六年(一九八一年) 父四五歳 息子一八歳)

 「うる星やつら」が流行っていた頃、大分市のデパートで、ラム役の声優、平野文さんのトークイベントがあった。私がそれに出かけたら、親父がついてきた。

 アニメの話題と彼女の唄。ファンは喜んだが、親父は何を言っているのか分からなかっただろう。会場でかなり浮いていたし、邪魔っ気だった。

 息子を溺愛する親父は、何でもいいから一緒に遊びに行きたかったのだろう。珍しく素面のままだった。親父なりに努力しているのに、邪険にして悪かったと、今は想う。


   叔母の一家(昭和五六年(一九八一年) 父四五歳 息子一八歳)

 この頃、親父も酷かったが、母の勘気も激しかった。

 親父は耐えられなくなると叔母の一家を遊びに来させたようだ。叔母とその娘達の明るさで、親父も母も随分と気が紛れた。

 しかし、叔母が頻繁に遊びに来るのは親父が呼んでいるのだと、母に露見したときのヒステリーはすさまじかった。


   機動戦士ガンダム(昭和五六年(一九八一年) 父四五歳 息子一八歳))

 大分放送では二年以上遅れて、平日の夕食時に放送していた。

 『戦死者に二階級特進が与えられた』の台詞に親父が反応した。酔い潰れる前なので何を言っているのかよく聞き取れなかったが、そんなものが何になるのかと非難しているようだった。


   親父を引き取る(昭和五六年(一九八一年) 父四五歳 息子一八歳)

 飲酒運転に寛容な時代であった。警官が言うには、捕まったとき、アルコール検査に息を吐くこともできないほどの泥酔状態だったという。あの頃とはいえ、よく職場から処分がなかったものだ。

 警察署で、母が親父を引き取る手続きをした。原付は私が押して帰った。坂道を何キロも押すのはきつかったけど、さほど腹は立たなかった。もう諦めの境地だったように思う。


   タバコ(昭和五六年(一九八一年) 父四五歳 息子一八歳)

 親父は大酒飲みでタバコも吸っていた。結婚するとき、家計が苦しいのでどちらかをやめるよう母に言われ、タバコをやめた。誰かにタバコを吸わないのかと聞かれ、『前は尻から煙が出るほど吸っていた』と答えた。しかし、時々隠れて吸っていたようだ。

 私が小学校低学年の頃、実家に向かう汽車が混み、経ってタバコを吸っていた火が私の腕に当たっていた。気づかず、何か痛いなと見たら火ぶくれになっていた。

 私が高校生の頃、アル中のせいだろう、隠れて吸ったのであろうタバコの吸い殻を風呂に置きっぱなしにした。母は親父と私のどちらが吸ったのか、二人で白黒つけろと激怒した。

 親父は酔ってろれつの回らないまま、「吸ったのか」。まともに相手をするのも嫌だったけど、吸ってないと答えた。親父はもう、直前の記憶さえなくなるほど、酒に蝕まれていたのだろう。


   実家に(昭和五七年(一九八二年) 父四六歳 息子一九歳)

 療養のため親父は実家に帰った。母が手に負えなくなったせいが大きかったと思う。しかし、生家でも親しくしていた姉の家でも受け入れてはくれなかったらしい。短期間で戻ってきた。


   離婚届(昭和五七年(一九八二年) 父四六歳 息子一九歳)

 引き出しに用紙が入っているのをみつけたのは、父の死後であった。母は耐えられず、用意したのだろう。

 それを知らない私は、母に離婚しないでくれと頼んだ。母のことを考えていない親不孝であった。しかし、もし離婚していれば親父を見取る人はいなかっただろうから、離婚しないでいてくれたのは親父には良かったろう。

 どちらが良かったのか、分からない。


   親父が来た(昭和五七年( 一九八二年) 父四六歳  息子一九歳)

 私が大学一年目の夏前だったろうか。朝、下宿の戸がたたかれた。開けてみると親父が立っていた。朝一番の汽車で来たのだろう。連絡もなしに来て、留守だったらどうするつもりだったのか。

 大学に行って、夕方にもとったときには、もう親父は返っていた。

 下宿の家主が言うには、親父は母屋の物干し場まで布団を運んで干したらしい。親馬鹿ぶりを発揮して、息子の自慢をしたらしい。

 そういうことが二、三度あったか。ろくに話もしなかったと思う。ただ、日曜日の朝に来たとき、朝食と一緒に昼食の味噌汁が廊下に置かれるのに憤慨していたのは覚えている。

 今にして思えば、もうアル中が酷かった時期なのに、親父は素面に見えた。かなりの気合いで息子を訪ねてきたのだろう。


   借金(昭和五八年(一九八三年) 父四七歳 息子二〇歳)

 酒を飲む金が無い親父はサラ金に手を出した。脱いだズボンから落ちた会員証を母が見つけて発覚した。

 母は叔父を伴って店に乗り組み、利息を払わないで済ませたそうだ。母は高利貸し相手に一歩も引かなかったらしい。叔父の方がビビっていたとか。

 親父のことだから、性懲りもなく、またどこかで謝金していないかと、母と私は半ば恐れ、死後は半ば笑い話にしていた。

 その後、借金取りは現れななかった。

 

   五円玉(昭和五八年(一九八五年) 父四七歳 息子二〇歳)

 小学校低学年の頃からだったと思う。五円玉を集めていた。買い物でおつりにもらうとかの度に取っておいた。穴にひもを通したり、製造年ごとに並べたりして楽しんでいた。

 子供の頃は親父とそれで遊んでいた。穴に通すのに太さの合う針金をくれたり、並べるのを手伝ってくれたりした。

 最後は二百円ぐらいずつを束にして紙にくるで引き出しに入れていた。全部で五千円ぐらいはあったろうか。

 いつの間にかなくなっていた。たぶん親父が酒代にしたのだろう。

 どう対応したかは思えていない。腹を立てたり、悲しんだりした記憶はない。そのころは親父のアル中を諦めて冷淡だったと思う。


   ふすま(昭和五八年(一九八五年) 父四七歳 息子二〇歳)

 母の実家は古屋で所々がたが来る。ふすまが閉まらなくなったので、直して欲しいと親父は頼まれた。

 以前ならどうということもない作業だったろう。しかし、この頃の親父は外に出ると酒を飲む有様だった。

 実家に行ったものの、酔い潰れて何も出来ず、一眠りして返ってきた。


   シートベルト(昭和五八年(一九八三年) 父四七歳 息子二〇歳)

 私が運転免許を取ったのは二十歳の年だった。中古の安いシビックを買ってもらった。一人息子の甘えん坊は全部、親がかりだった。これに関しては親父はほとんど何もせず、仕切ったのは母であった。

 しかしそのころ私の車に一番乗ったのは親父であったろう。何のかの用事を見繕っては同乗した。自分が運転できないから、嬉しかったのだろう。

 とはいえ、親父は文句が多かった。クラッチのつなぎ方が悪い、ハンドルを切るのが遅い、もっと速く走れ、等々。運転しにくいことこの上ない。親父は運転免許を持っていないけれど、機械への勘はいいから、車の操作方法は理解していた。

 そのころ、運転席と助手席のシートベルト着用が義務化された。親父はこれを嫌がって、警察に捕まって点数引かれるのは俺だというと、ベルトを手に持って締めているように見せた。それに文句を言ったら、後席に乗るようになった。

 後ろの席からやかましく指示されるのは難儀だった。閉口したのは、後ろから「あっちに行け」。「後ろで指さされて見えるか、右か左か言え」と言い返すと、しばらくはそうするけど、次に乗るとまた「あっちに曲がれ」。


   転勤(昭和五九年(一九八四年) 父四八歳 息子二一歳)

 その頃であったろう。親父は転勤で保育園の用務員から、清掃車のゴミ収集員になった。当時の市役所で一番きつい業務と言われていたと思う。

 捨てられた家具を拾って、修理して使ったりしていたらしい。その頃、私は大学生で、帰郷するぐらいしか家にいなかったので、母から聞いた以上は知らない。が、親父はどういう仕事でも楽しみを見つけるものだと思った。


   通院(昭和五九年(一九八四年) 父四八歳 息子二一歳)

 親父をかかりつけの病院に連れて行った。記憶していないのだが、車で送り迎えしたはずだ。

 診察にそう長くはかからず、調剤に少し時間がかかったぐらいだったろう。私は待合室でテレビを見ていた。終わるまで見る言って、親父の方を少し待たせた。親父は何も言わず、後ろに立っていた。


   カラーボックス(昭和五九年(一九八四年) 父四八歳 息子二一歳)

 私は大学で家を離れていたから、清掃員をしていた頃の親父の様子はほとんど知らない。帰郷すると親父は疲れているのか酔い潰れたのか、寝ていたのではなかったか。

 家に見慣れないカラーボックスがあるので母に尋ねたら、ゴミ捨て場から親父が拾ってきたのだと。そういう目端が利くのは健在だったようだ。


   入院(昭和五九年(一九八四年) 父四八歳 息子二一歳)

 入院した。隣が酒屋という、アル中には向かない病院で、専門病棟ではないから、抜け出しては飲んでいたらしい。その頃は店の一角で酒を飲ませる、カクウチが転々とあった。

 当然発覚する。二度と飲ませないでくれと酒屋に頼むが、効果は無かった。

 今なら飲ませた酒屋に何らかの責任が発生するのかもしれない。けど、当時は客がどういう状態であろうと、注文されればツケで飲ませるのが一般的だった。

 飲ませても金は払わない、と母が強攻策に出た。ツケを清算したら一万円ほどだったか。その頃、日本酒一杯が二百円もしなかったと記憶する。


   俺には何もなかった(昭和五九年(一九八四年) 父四八歳 息子二一歳)

 何かの拍子に親父は「俺には何もなかった」とつぶやいた。酒毒に犯され、余命がないことは自覚していたはずで、人生を振り替えると、何をなした訳でも、残すべきものも無い。

 それじゃあまりに寂しい。しかし、そうかもしれないとも思った。

 母は食ってかかって否定したが、親父には反論する気迫もなくなっていた。


   手術(昭和五九年(一九八四年) 父四八歳 息子二一歳)

 酒毒に侵された肝臓は回復することはない。肝硬変の手術をした。

 しかし、切開して中を見たら、もう手遅れで、医者は何も措置せずに、そのまま閉じた。


   卒業写真集(昭和五九年(一九八四年) 父四八歳、息子二一歳)

 大学の卒業は面倒くさかったけど、親父が出てきたので、しょうがなく出席した。

 親父はどうしても息子の卒業写真集が欲しいという。安くはないのだが。学校に行かせてもらえなかった親父には思い入れがあったのだろう。

 で、買った。私は中を見もしなかった。だいぶ後になって母が見ていて、「あっ」と声を上げた。卒業式が終わって式場から学生が出てくる写真の端に、親父が写っていた。

 「欲しがっていた人だからねえ」。見つけたのは親父の死後だったが


   お別れ(昭和五九年(一九八四年) 父四八歳、息子二一歳)

 私は大学を卒業して、就職は埼玉になった。夜行列車で行くのに、友達が車で家から別府駅まで送ってくれた。

 親父と母は玄関で私を見送った。「お父さんとお母さん、寂しそうだな」「ああ」

 それが生きて親父を見た最後になった。


   死(昭和六〇年(一九八五年) 父四九歳 息子二二歳)

 親父が私に会いたい、とつぶやいた。それを聞いた母が「何を言ってるの」と親父を見たら、血尿を垂らしていた。

 救急車を呼んだが手遅れだった。

 最後の言葉は母に向かって「おまえにも苦労をかけたな」。「これでやっと、親父とお袋の所に行ける」


第五章 死後(昭和六〇年(一九八五年) 父四九歳 息子二二歳~)

 もう手の施しようがないと医者に言われたのだから、ある程度の覚悟はしていた。とはいえ、いざ死なれると実感がわかないものだ。生き残った者は生活していくから、泣いてばかりではいられないのもある。

 いるべき人がいなくなったというのは、時間が経ってじわじわと実感が沸くか、何かの拍子に痛感させられるものだ。


   訃報(昭和六〇年(一九八五年) 父四九歳 息子二二歳)

 父の死を知らせてくれたのは母の弟(長男)だった。その前に取り乱して、とにかく帰ってこいと言う母の電話があったから、職員宿舎の共同電話から流れたのが叔父の声だと分かったとき、親父が死んだんだなと思った。

 羽田空港発の朝一番の飛行機で家に帰った。機内の音楽サービスで小泉今日子さんの「明るい男女交際」が流れ、状況と正反対のBGMがあるんだと、変な感心をした。


   死に顔(昭和六〇年(一九八五年) 父四九歳 息子二二歳)

 だから親父の死に顔を見たときは落ち着いていた。中座敷に寝かされた親父は死に化粧でもされたのだろう。死の苦悶もなく見知った顔であった。

 「おなかがすいたんじゃないか」と母に問われ、「うん」と飯を食った。

 素っ気ない態度に、誰かが聞こえよがしに非難がましいことを言っていたようだ。母は「あまり感情を表に出す子じゃない」と言い訳していた。知ったことか、俺ら親子のつながりが余人に分かるものか。


   葬式(昭和六〇年(一九八五年)、父四九歳、息子二二歳)

 親父の葬式は自宅で出した。葬儀場を使わなかった煩雑さを、母と私は後々まで、失敗だったと話すことになる。その理由の一つが、会葬者が予想以上に集まり、家に入りきれなくなったこと。

 まず自衛隊からの参列者が多かった。自衛隊は大家族主義だから、予備自衛官でも葬式には一〇人以上だったかが、制服でお参りする。

 更に予想以上に参列者が多かったのが社会党。母の弟(長男)が社会党(現、社会民主党)の市議会議員だから、党の関係者が何やかやとやって来る。 

 座敷と中座敷を打ち抜いた一二畳の左に自衛隊、右に社会党員がいっぱいに座る。社会党がまだ、自衛隊反対を声高に主張していた頃。葬式を取り仕切った叔父が困り果てる。呉越同舟で喧嘩を始めるんじゃないかと、入る余地の無くなった親戚が右往左往していた。

 母と私はその様子を面白がって眺めていた。


   香典の現金書留(昭和六〇年(一九八五年) 父四九歳、息子二二歳)

 親父の実家からは弔問がなかった。ことづけられた香典の中は現金書留だった。

 親父がアル中の療養というか、酒屋から遠ざけるために田舎の実家に帰ったとき、実家からただ飯を食うとか嫌みを言われたらしい。それを伝え聞いた母が送った現金書留が、そのまま香典袋に入れられていた。

 激怒する叔父を母と私がなだめた。親父は実家にかなりの迷惑をかけたはずで、無理もない、という気もしたから。


   挨拶回り(昭和六〇年(一九八五年) 父四九歳 息子二二歳)

 葬式の後、親父の仕事関係に挨拶回りした。いくつもの場所で『あなたがあの息子さんですか』と言われた。親馬鹿が息子自慢をしていたに違いない。それを微笑ましく受け取られるのは、親父の人徳だろう。


   筆跡(昭和六三年頃 息子二五歳)

 父の死後、何年目であったろうか。書いた覚えのない紙が出てきた。よくよく読んでみたら、父の書き置きであった。

 父は中卒で習字など習いはしなかったろう。私は曲がりなりにも国立大学卒、一〇年も習字教室に通わせてもらい、下手なままなのに、なぜか最高段までもらった。

 にもかかわらず、本人ですら見間違えるほど字体が似ている。血とは恐ろしいものだ。


   孫(平成八年(一九九六年) 子三三歳 孫〇歳)

 自分も結婚し、子が生まれた。

 息子は新生児室のガラス越しに初めて見た。まだ見えぬはずの、見開かれた目の不安げな、何とも情けない表情は親父にそっくりだった。

 輪廻や霊を信じぬ。が、親父が帰ってきたのだと思えると、涙が止まらなかった。

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