その6:時計塔には魔物が棲む(3/3)
ベッドで座っているあたしをよそに、沼津先輩は人体模型に対峙します。
コツン、と樫の木の杖を突きました。
一瞬、頭がぐらっとしました。視界が揺らいだと思った次の瞬間には元の保健室の風景でした。
ただ1つを除いて。
かわいい顔した人体模型、ジンモちゃんの体中を太い金色の鎖が縛り付けていました。ジンモちゃんは鎖を解こうと身じろぎし、ジャラジャラと耳障りな音が聞こえます。
「ユルサナイ。アナタ、ユルサナイ」
低くくぐもったこの世のものとは思えない声がこだまして聞こえます。これは、ジンモちゃんの声なのでしょうか?
それでもジンモちゃんは、人形みたいな無表情のままです。まあ、もともと人体模型は人形みたいなものですけど。
「魔物と語らう趣味は無い故」
対する沼津先輩はいつもの小さく威厳な声でつぶやき、杖で床を小突きました。彼女の足元に幾何学模様が乱舞します。
《我ガ行キ先ヲ、照ラス蛍火!》
沼津先輩が呪文のようなものを唱え、杖の頭をジンモちゃんに振りかざします。瞬間、杖の先端に炎が逆巻き球を形作ると、射出された弾丸となってジンモちゃんにぶつかり、爆炎を上げました。のどが焼けそうな熱風があたしの方までやってきます。
前回の戦闘のおかげで少し余裕のできた今だから言います。絶対、蛍火っていう火力じゃありません!
対するジンモちゃんは、ラバーの皮膚が溶け出し、顔や腕をはじめとする体のあちこちが異様に変形しています。大きく開いた前面部から肺の片方がどろりと落ちました。
「ユルサナイ。アナタ、ユルサナイ」
嫌な記憶に残りそうな奇声を再び発します。無理に鎖を引きほどこうとして腕を動かし、ジャラジャラミシミシとけたたましい騒音をまき散らします。ビニールを焦がしたような危ない臭いが鼻をついて、今朝の軍曹お手製ビーガンお弁当を戻しそうになってしまいます。
気持ち悪い感覚刺激をしてくるジンモちゃんに眉一つ動かさず沼津先輩は樫の杖を突いて続けます。
《我ガ呼ビ掛ケニ、咬ミ付ク氷柱!》
詠唱すると同時に、勢いよく左手を振り上げます。同時に、ジンモちゃんの周りの地面から斜めに伸びる鋭くとがった氷柱が四方八方から刺し貫きます。ジンモちゃんの皮膚の裂け目から赤黒くどろりとした液体が白く透き通った氷柱を黒く染めていきます。無表情の口から同じようなヘドロが吐き出されます。あまり直視できない情景です。
間髪を容れず、2回コンコンと床を小突く音が聞こえました。ひときわ大きく複雑な幾何学模様が張り巡らされます。
《我ガ安寧ハ、千歳ノ瓦!》
そらんじた言葉に合わせて、左手をかざします。今度は何が異空間から現れるのかと身構えましたが、特に見た目の変化はありませんでした。
あたしが訝しげに疑問符を浮かべた直後、ジンモちゃんのあちこちからあふれ出たまがまがしい汚物の飛沫の一粒一粒がまるで生き物のように一斉に飛びかかってきました。
しかし、沼津先輩とジンモちゃんの間で次々と線香花火のようにバチバチと光と音を放って消えていきます。まるで世界が2つに分かたれたように、ジンモちゃんの体液は沼津先輩に近づくことができず、火花を散らして空気になじんでいきます。
その様子を見て初めて沼津先輩が防御をしていることに気づきました。
沼津先輩は全く隙がありません。
大量の氷柱がジンモちゃんを貫いた時、さすがにジンモちゃんもこれでおしまいと思いました。相手がもし人間だったら確実に勝負が決したはずでした。
しかし沼津先輩は、次のジンモちゃんの攻撃を完全に読み切り、油断も慢心もせずに杖を2回突いて大きな魔法陣を描き、完璧な防御態勢に入って迎え撃ちました。
もう、完全にファンタジー系のバトル漫画のワンシーンです。あれ、もしかしてあたし、主人公の横で解説する脇役じゃない?
「ユルサナイ。アナタ、ユルサナイ」
光と音の雨あられがやんだ直後、バキバキという破壊音と共にジンモちゃんが動き出します。氷柱を砕き、鎖をちぎり、腕がもげ、足がひび割れてでも沼津先輩に襲いかかります。
沼津先輩が樫の木の杖で小突いたのは同時でした。
《我ガ囁キハ、刻ノ縛メ!》
何となく聞いたことのあるような呪文を唱えた直後、ジンモちゃんの動きがピタリと止まりました。
続いて、リズミカルにコン、コン、コンと樫の木の杖を鳴らしました。最大限の魔法陣が展開されます。
《古ニ、響キ渡ルハ、星ノ唄、我口遊ム、絆ノ鎖!》
沼津先輩が旋律を歌い上げた直後に鋭く人差し指を突き付けると、ジンモちゃんの周りにいくつもの光の球が浮かび上がりました。光の点が互いに線を結んだかと思うと、急速に互いを引き寄せ、ジンモちゃんに巻き付く形で締め上げました。バキバキと力強く締め上げたかと思うと、光の帯は金色の鎖に変化しました。最初にジンモちゃんに巻き付いていた鎖と同じものです。
身動きを封じられたジンモちゃんはバランスを崩し、何の抵抗もなく倒れました。しかし、頭を地面にぶつけた直後に首が取れ、ゴムボールのように跳ね上がったかと思うと口が大きく裂け、鋭い牙をむき出しにして沼津先輩に襲いかかりました。
「――ッ!」
沼津先輩の顔に初めて焦りの色が浮かびました。大きな術式を唱えた直後の思わぬ奇襲に、なすすべもなく左腕を犠牲にするように差し出しました。
そう見えたのは、あたしだけでした。それを知らせてくれる杖の音が聞こえていました。
《我ガ衣手ニ、茂ル宿リ木!》
言い終わるが早いか、宙を舞う首がガブリと沼津先輩の左腕に牙を突き立てました。沼津先輩が左腕を振り下ろすと、いとも簡単に首は地面に叩き付けられ、跳ね回ります。いつすり替わったのか、化け物がかじりついていたのは腕ほどの太さの枝でした。
沼津先輩は次なる隙を与えません。流れるような動作でコンコン、と床を小突きます。
《我ガ戦慄ハ、偽リノ鋲!》
左手人差し指を立てて地面に転がった首に向けて振り下ろすと、漆黒の太い針が中空から出現し、首を貫通して地面に刺さりました。
胴体は金色の鎖で拘束され、頭部は漆黒の針で釘付けになっています。
どうやら勝負は決したみたいです。最も、あまりにも刺激的な光景の連続に、あたしはただただ固まって見つめることしかできませんでした。
仕上げとばかりに沼津先輩は、樫の木の杖で床を三度小突きました。
《星影ノ、淀ミ祓ヒシ、墓守ノ、我ガ導キハ、黄泉ノ懸ケ橋!》
沼津先輩がこれで終わりと言わんばかりに詠唱しました。これも聞いたことがある呪文です。ただし、その顛末は初めて見ました。
空間に一筋の黒い影が縦に伸びたかと思うと、観音開きの両扉が開くように世界が歪み始めました。その向こう側は、漆黒の闇に光を散りばめた、宇宙空間に似た世界でした。
光も音も臭いも、すべての感覚が吸い込まれるような重力に体が揺さぶられ、一瞬気が遠くなったかと思った瞬間には、何事もなかったかのように保健室の風景が広がっていました。
地面に倒れたジンモちゃんの胴体と床に転がる頭は傷一つなくそのままに、光の鎖も闇の針もきれいさっぱり消えていました。
あたしは、ただただ絶句するだけでした。
すべてを終えた沼津先輩は杖を突きながらもふらふらとした足取りでベッドの横までくると、一度床を小突いて魔法陣を出現させました。
《我ガ指先ニ、集ヒシ禊!》
沼津先輩の人差し指が、あたしの額をつんとつつきました。そこからじわっと温かいものが体中に広がっていきます。負の感情が洗われるようにゆっくりと消えていきます。
「これで、二度とアレを見るまい」
術式を終えた沼津先輩は、ぼふっとあたしに密着する形でベッドに身を預けました。
「……少し休む」
ただそう一言残し、すやすやと寝息を立て始めました。相当疲れていたみたいです。
あたしの方も今までの不眠が嘘のように眠くなってきたので、そのまま睡魔に体を預けることにしました。