その5:図書室には秘密の地下室がある(3/3)
受付カウンターの向こう側にある控え室は職員室にあるような事務机が並んでいる休憩スペースで、図書委員は誰もいませんでした。
そして、部屋の奥にはご丁寧に下り階段と荷物運搬用のエレベーターがあります。
エレベーターはB1に向かってゆっくり下降中だったので、あたしは階段を選んで駆け下りていきます。
明かりがついていないせいか、地下室は真っ暗でした。サーバーの小さなLEDがチカチカと点滅して、星の少ない夜空を彷彿とさせます。
足を踏み入れると、ひんやりとした空気があたしの頬を撫でました。サーバー室はサーバーが熱暴走しないように低温を保っているという話を聞いたことがありましたが、なんだか嫌な温度でした。
うおんうおん、と断続的に鳴り響く駆動音が不気味さをより一層際立たせています。
七不思議なんてなくても、サーバー室というものは十分怖いものですね。
不意に頭がくらっとして思わず千鳥足になってしまいました。寝不足が応えているのでしょうか。いや、授業中たっぷり寝た気もします。
ちん、とエレベーターが到着する音がしたかと思うと、エレベーター内の光が闇に差す一筋の光のように走りました。そして、襟を立てた魔女かぶれの図書委員長が、樫の木を鳴らしながら降りてきました。
そして、サーバー室の照明をつけたのでしょう。一瞬目がくらんで部屋全体が明るくなりました。
「ひっ!」
あたしは、それを見た時、小さな悲鳴と共に腰を抜かしてしまいました。本当におぞましいものを見た時は、叫び声なんて出ないんですね。腰が抜けると、本当に地面にへたり込んだまま立てなくなるんですね。
あたしはそれを体験してしまったのです。
大きな機械が並んだ部屋の奥、うごめく黒い影がありました。3メートルほどの高さのあるそれは、枝葉が生い茂る樹木のようであり、ぬらぬらと動く枝や蔦はイソギンチャクのようでもありました。
ブヨブヨとした黒い体にすっと切れ目が見えたかと思うと、その奥に巨大な目の玉がありました。次々といくつもの切れ目が入っていくにしたがって、2つ、3つと不気味な瞳が増えていきます。
その1つと目が合った瞬間、背筋がゾクゾク走る感覚に覆われていきます。さらに目玉がぎょろりと動いて次々とあたしに視線を向けてきます。
あたしは恐怖のキャパシティをオーバーしてしまい、体中があたしの意識を無視してガクガク震え始めました。
「君は美術部の?」
図書委員長が、あたしのほうに目を向けました。声音は落ち着いていますが、瞳は驚いたように真ん丸でした。
その瞬間、真っ黒な蔦が何本もあたしと図書委員長に向かって伸びてきました。それは弾丸のように目にも留まらぬ速さで空間を滑ります。
思わず目を閉じてしまいました。
心臓が止まると思った直後でした。
図書委員長が、樫の木の杖で床を1つ小突く音が聞こえました。
《我ガ囁キハ、刻ノ縛メ!》
図書委員が何か異国語のようなものを口ずさみました。何と言ったかは全く分からないはずでしたが、なぜか意味が直接頭に伝わってきました。
そして、ゆっくりと目を開けると、時が止まったように伸びてきた枝が空中で止まっていました。その先の向こう、黒い影は何かに抵抗するようにぶよぶよとうごめいています。
図書委員長が樫の杖をうまく使って右足を引きずるようにしてこちらに駆けてくるのが見えました。ただ、今ケガをして動かなくなったという感じではなく、自由に動かない右足の使い方に慣れているような動作でした。
「君、何故ここに?」
「……あ、…………あ、」
ブルブルと神経の奥が震えているようで、思うように言葉が出てきません。
「君にもアレが視えるのか?」
図書委員長が視線を一度黒い影に向けて、あたしを見つめてきます。
声にならない言葉を伝えるために、あたしは精一杯の力を込めて一度うなずきました。それなのに、ほんの少ししかあたしの頭は動きませんでした。全身の震えに交じって、それが見た目として表れているか不安で仕方ありません。
しかし、図書委員長はあたしの意思をしっかりとくみ取ってくれました。
「分かった。後に訊こう」
そういうと、図書委員長はあたしと黒い影の間に割って入り、化け物に対峙しました。
別の枝葉がぐらりと様子を窺うようにうごめくと、あたしたちの間を取り囲むようにジリジリと動いています。
図書委員長が、樫の木の杖で床をコツンと一度叩きました。瞬間、地面には何重もの幾何学模様が浮かび上がりました。
《我ガ瞳孔ニ、燈ル漁火!》
図書委員長の口が聞き慣れない旋律を奏でたかと思うと、黒い枝や蔦があちこちでボウッと発火しました。地獄を思わせる深紅の炎は、瞬く間に広がりを見せます。
しかし、影の本体に火が届く前に自ら枝や蔦を落とし、その被害を最小限に抑えます。
そして、黒い影の本体から丸太のような太さの枝が伸びたかと思うと、薙ぎ払うように左から襲ってきました。
《我ガ左手ニ、霧ノ御剣!》
またもや図書委員長が杖で床を叩いて聞き取れないつぶやきをこぼしたかと思うと、勢いよく左手を振り上げました。
瞬間、ズバッと鋭い音が聞こえてドズンとけたたましい音が耳朶を打ちました。左を見ると、大木のような黒い枝が落ちています。
次にザワザワと風が枝葉を揺らすざわめきがあたりを満たしたかと思うと、黒い木の葉が大量の紙吹雪のように降り注ぎ、視界を闇色に覆っていきました。
《我ガ御御足ヲ、染メシ曙!》
歌うようにそらんじて図書委員長が左足を踏み鳴らすと、一瞬で周りの闇がさぁーっと消えていきます。
「埒が明かんな」
ぼそっとつぶやいた図書委員長が樫の杖でコンコン、と2回小突きました。すると、今までの何倍にもなる幾何学模様が足元に広がりました。
《我ガ憤慨ハ、神ノ雷!》
今までとはまた違う感情の込められた異国語が迸ったかと思うと、足元から何本もの光の束が立ち上りました。それがそのまま天井に吸い込まれるように消えたかと思うと、目を突き刺す閃光と耳をつんざく爆音が部屋中を揺らしました。
目は焼けそうでした。耳は破れそうでした。力強く瞼を閉じ、両手で耳をふさいでも、ただただすべての感覚器官が痛みを伝えてくるようでした。
その痛覚の奔流の中、かすかに2回小突く音がかすめました。
《我ガ怨念ハ、凍ル御棺!》
脳髄に直接届く意味を噛み締めた次の瞬間には、肌全体に痛いほどの冷気が這い回りました。
荒れ狂う吹雪の中にいるような感覚に翻弄されながらも、必死な思いで片眼を開けました。視界に映るのは激しくたなびく黄色いセーラー服の立てた襟とプリーツスカートだけでした。
再度、右手に握る樫の木の杖が床を小突く影が目の端にとらえられました。掻き消えそうな小突く音は3回でした。
《星影ノ、淀ミ祓ヒシ、墓守ノ、我ガ導キハ、黄泉ノ懸ケ橋!》
今までの中で一番長い歌うような異国情緒のあふれる旋律は、感覚飽和を起こしたあたしの意識の中でも確固たる存在感がありました。
あまりに痛覚の情報量が多すぎて意識が飛ぶと思った直後、急に無音室に放り込まれたようにすべての感覚が音を失い、無重力空間のような浮遊感があたしを包み込みました。
知らないうちに自分の神経が自分の体になじんでいました。恐る恐る体中に込めた力を少しだけ緩め、両目をそっと開きました。
そこは、何の変哲もないサーバー室でした。肌を包むひんやりとした空気、うおんうおんとうなる空調の駆動音、あちこちで明滅する小さな数々のLED。その何もかもが先の激動を感じさせないほど平穏なものでした。
あたしの体中を占めていた火照るような痛覚と恐怖感が、波のように穏やかに引いていきます。
「い、今……の、は……?」
現実感のない体験に呆けた声を漏らして床にへたり込んでいるあたしを、図書委員長が見下ろしていました。
そして、樫の杖を床に一突きしました。
《我ガ戯言ハ、夢ノ随ニ!》
あたしは美しい調べに誘われるまま、安らかな気持ちで満たされていきました。
――という夢を見ました。
夢オチで恐縮なんですけど、そんな体験が本当に起こるわけないじゃないですか。
魔法とか、化け物とか、ファンタジーの中だけの出来事です。
百歩譲って、いや1万歩譲ってサーバー室に化け物が現れて、魔法が使える図書委員長が撃退したとしても、あんな炎や雷、吹雪が暴れまわってサーバーが無事なわけないじゃないですか。そんなご都合主義にまみれた展開なんて、今どきの物語でもはやりませんよ。
あたしが目を覚ましたのは、保健室のベッドの上でした。隣には、副部長の梶原先輩が付き添っていてくれました。
「あずきさん、おはようございます。ご気分はいかがですか?」
夢うつつでぼうっとしているあたしに、副部長は柔らかい笑顔を向けてくれました。
「あ、あたし、どうして保健室で寝てるんですか?」
寝起きであまりいい活動をしているとはいえない脳みそをゆっくり試運転させながら、副部長に尋ねました。
「図書室で本の整理をしている時、たくさん本が落ちてきて、あずきさんが巻き込まれてしまったそうです。あずきさんはそのまま気を失ってしまったので、図書委員の方々が保健室まで運んでくださったのですよ」
「そう、だったんですね」
あたしは大きなあくびを1つしました。悪夢を見たような気持ち悪さが脳髄の奥に残っています。
たぶん、あたしも台車に乗せられて運ばれたのかな、なんてしょうもないことを考えていました。
「秋月先輩は?」
「相当あわてふためいていましたわ。自分が目を離したのが悪いと気を病んでいましたので、あとで励ましてあげるとよいと思います」
「すみません、ご迷惑をおかけして」
「いいえ、あずきさんがご無事で何よりですわ」
ばつが悪い表情をしたあたしを、副部長は柔らかい言葉で慰めてくれました。
居心地がよくなってきたあたしは、再びベッドに身を預け、しばらくまどろむことにしました。
胸のあたりがカサカサと気持ち悪かったのでまさぐってみると、真っ黒な木の葉が1枚出てきたので、何の気なしにベッドの外に放り捨てました。