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牛飼いの少年のはなし




「アーナスタシアー、アーナスタシアー、君は世界で一番かわいい子ー、世界で一番賢い子ー」



葡萄畑で十分な量のスケッチを仕上げて、イルゼとルイスが葡萄畑から出てきた時。

そんな歌を歌う素朴な声が聞こえてきた。



大きめの乳牛を引いた少年が一人、すぐそこの田舎道をイルゼたちの方に向かって歩いて来ていた。

そしてどうやら、この歌は彼の口で歌われているようだった。


カランコロン

牛の首に括り付けられているベルが鳴る。


「アーナスタシアー、アーナスタシアー、君は世界で一番やさしい子ー、世界で一番きれいな子ー」


カランコロン






「……ウグッ」


カラン……



その農民風の身なりをした少年は、歌いながら嗚咽を漏らした。

続きの歌詞はもう聞こえてこない。


「アー……ヒグッ、ウグッ」


正面から歩いてくる少年のその純朴な歌は、みるみるうちに泣き声に変わっていく。


突然の出来事だった。



鼻水をすする音が前方から聞こえ、田舎道を歩いているイルゼはルイスを見上げた。

ルイスも困ったような顔をしている。


このまま泣いている子供を無視して通り過ぎることだってできるけれど。

全然知らない子供だけれど。


(いきなり泣く子供って飴とかあげればいいのかな……弟は絵を描いてあげたら喜んでたけど……)


ローブの内ポケットに手を突っ込む。

その指に真っ先に触れたのはティッシュ。

後は消しゴムやら絵の具のチューブやらだった。



イルゼはその少年に、すれ違いざまにティッシュだけ渡してそのまま去るつもりだった。

しかし、イルゼが無言で少年の手の中にティッシュを押し込んだ時。


誰かの優しさが彼の涙の堰を切ったのか、少年はその場にへたり込んで呻くように泣き出した。

泣き止もうと嗚咽を抑え込んでいるようだが、押さえつければ押さえつける程涙が止まらないようだ。



「何故泣く……お前の牛も困っているだろ」


少年と目の高さを合わせるためにしゃがんだルイスも、泣く少年を放ってはおけなかったようだ。

語りかけられてそばかすだらけの顔を上げた少年の横には、つぶらな目をした乳牛がいる。


「アナスタシア……」


そして、少年はその牛をアナスタシアと呼んだ。

乳牛は宥めるように泣く少年に寄りそう。

少年は鼻水を再度すすり、イルゼから渡されたティッシュで目をゴシゴシと擦った。




「この子、アナスタシアっていうんだね」


ルイスに倣って、イルゼも道端にしゃがみ込む。

しゃっくりを上げる少年と目を合わせた。


「……うん」


「うん、世界で一番かわいいね」


泣きじゃくる少年を心配そうに見つめている牛を可愛いと思ったのも本当だし、イルゼが少年を励ますつもりで微笑んだのも本当だ。


イルゼはただ、少年を励ましたかっただけだったのだが。

何かが悪かったのか、少年は更に声を上げて泣き出した。


「わ、私、顔怖かったかな……」


横にいるルイスに助けを求めると、ルイスは「顔は大丈夫だ」という風にかぶりを振った。






蹲って泣く少年を今更放置など出来ず、イルゼとルイスは暫くその場でじっとしていた。



待っていたら、少年の声はだんだんと落ち着いてきた。


訳も分からないまま目の前で泣かれて困惑した表情を見せるイルゼたちに悪いと思ったのか、あのね、と少年はきつく唇を噛み締めて声を出した。


「あのね……アナスタシアは……今日、と、とちくじょうに……連れて行かなきゃいけなくて……もう……使えないからって……お乳も出さなくなっちゃったから……」


エリンと名乗った牧場で働いているという少年は泣いてしまったことを謝り、ぽつりぽつりと話し出した。

我慢しなくてはと思っているのだろうがやはり言葉にするのは堪えるのか、一言言葉を噛み絞めるたびエリンは小さな嗚咽を漏らしている。



「……乳を出さない乳牛は、肉にするしかないけど……でも……」


「お前は牧場で働いているんだろう。ならばそれは日常茶飯事なんじゃないのか。それでもお前は毎日泣くのか」


いち早く事情を察してエリンに話しかけるルイスは、穏やかだが強い声で言った。

その問いかけに、エリンはフルフルと首を振る。


生き物の命を金に換える仕事をしているのだから毎回泣いていてはキリがないのだと、エリンも承知してはいるようだった。


「でもね、アナスタシアだけは……この子は僕が初めて赤ちゃんの時から世話した牛で……アナスタシアは生まれた時、少し足が弱かったから、僕と母さんで面倒見て……そうしたら、よく食べるようになって、どんどん健康になって……お乳もたくさん出してくれるようになって……」


エリンを愛おしそうに見つめる乳牛に縋るようにして、エリンは鼻水をグシグシとすする。

イルゼが渡したティッシュはすでに底をつき、エリンは服の袖をベシャベシャにしていた。


「アナスタシアは、どの牛よりお行儀もいいし、可愛いし、賢い……どの牛よりもたくさんお乳も出してくれたし……僕が母さんに置いていかれた時だって、ずっと僕の傍にいてくれた……」


「僕ね、旦那様に僕がアナスタシアを屠畜場に連れて行きたいって頼んだんだ……だって、最初は、僕がきちんとアナスタシアを見送らなくちゃと思ったから……でも、でもね、やっぱり…………僕がこのまま屠畜場にアナスタシアを連れて行けば、アナスタシアは生きてるのに死んじゃうから……僕は……」


「僕が……」


「僕がアナスタシアを……」






「そ、そうだ。あのね、エリンくんあと30分くらい時間ある?」


優しく言葉を遮ったイルゼの声に、エリンが顔を上げた。

少し怪訝な顔をして、それでも暫く考え、時間はあるとエリンは正直にコクリと頷いた。


「じゃあえっと、そこに立ってみてほしいな。アナスタシアと二人で」


道端を指さしたイルゼはエリンと乳牛をそこに立たせると、素早くスケッチブックを取り出した。

鉛筆と、水彩絵の具と水を入れた水筒も一緒に取り出す。

エリンは不思議そうな顔をしながらもイルゼの指示に従い、鼻水を垂らしながら乳牛の隣に立った。










イルゼは30分と掛からず、一枚の絵を描き上げた。


「これ、よかったらあげる」


スケッチブックから丁寧にそれを切り離し、エリンに手渡す。



少しだけざらついた厚い紙の表面に少年と、若くない乳牛の絵。

それは、この少年が乳牛と一緒に過ごした最後の日の景色。


そばかすだらけの少年が、やがて大人になって色々なことを仕事だと割り切る日が来てしまっても、沢山の大切なものが他にできてしまっても。

はたまた、心優しい少年がずっと悩んで、見送るたびに悲しみ続けることになってしまっても。


この先の彼の糧になるであろうこの日を、そして楽しかったであろう日々を、忘れないでいてほしい。




「お姉ちゃん、絵、上手なんだね……」


絵をまじまじと見たエリンが眉を下げる。少年は少しだけ微笑んだ。

微笑んで、それでも涙が溢れてきて、エリンは急いで服の袖を引っ張った。

絵に涙が落ちるのを恐れたのだろう。



「私は絵を描くことしかできないから、こんなことしかしてあげられなくて、ごめんね。今はエリンくんが踏ん張るしかない。

アナスタシアにも……何もしてあげられなくてごめんなさい」


イルゼは最後に乳牛にぺこりと頭を下げた。

事の顛末を、この乳牛がどこまで理解しているのかは分からない。

育ててくれた少年との楽しい散歩だと思っているかもしれない。

はたまた、何も考えずただ引かれて歩いて来ただけなのかもしれない。

だが、いつまでも慈悲深く穏やかに見える乳牛のその瞳を見れば、何故か、全て承知しているようにも見えた。




「頑張れ」


イルゼがエリンに向かって呟くと、アナスタシアと呼ばれた乳牛が小さくエリンを引っ張った。

道草を食っていないで散歩を続けようと言いたかったのかもしれないが、やはりアナスタシアが全て受け入れたようにも見えてしまう。

動物は時折身勝手な人間に振り回されるのに、その死に向かう覚悟というのは、未練がましい人間よりもうんと潔いものなのだろうか。



べそをかきながら引っ張られていくエリンの頭をポンポンと撫でたルイスは、ポケットから出したハンカチを持たせてやっていた。


ハンカチのお礼を言ったエリンは、絵を大事そうに抱えて歩き出す。




目的地へ向かってゆっくり歩いていく。

そのエリンを気遣うように時折見上げる乳牛は、少年の母のようにも姉のようにも見えた。




「大事な家族だったんだよね」


イルゼは、消えていくエリンの背を見つめている。

道の先にあるエリンと乳牛の影はもう小さい。


「多分な」


「牧場も大変だよね」


「ああ」


「エリンくん、頑張って……」



(私の弟くらい、しっかりしてたな……)


(このボンボンは大人しかったな。士官学校にも行ってたし、『牛一頭死ぬくらいで泣けるなんて、平和な田舎は幸せだな』って嫌味の一つくらいは言うと思ったけど。むしろ、小さい子に優しかったな。意外……)


小さくなった少年の背中に小さく手を振って、イルゼは横目でこっそりルイスを見た。







「それより、お前が誰かと話してるのを見るのは何年振りだろうな。お前、ちゃんと人とコミュニケーション取れたんだな」


「えっ!私のことなんだと思ってるの!」


「ん?引き籠り」


「引き籠りでも、頑張れば君以外の人とだって普通に話せるんだから!」


そんなに鬼じゃないんだなと見直しかけたが、ルイスがあっという間にいつもの調子に戻ったのでイルゼも普段の調子に戻ってしまった。


家族が死んでからは本当に引き籠ってあまり人と話してこなかったイルゼだが、わざわざ心配されるほどではない筈だとイルゼ自身は信じていたい。信じられないが、信じていたい。



「ふーん。頑張れば?自信ないのか」


面白いものを見つけた悪戯っ子か、じゃれ付こうと狙いを定めている猫のように、ふふんとルイスは笑っている。楽しそうである。


「頑張れば話せる自信あるから!」


「別に頑張らなくていいだろ」


「いやいや実は、話さないだけで話そうと思えば話せるから!画材屋さんの店主さんとも、本屋の店主さんとも、神官のロイさんとだって楽しくおしゃべりできるから!」


「………………神官のロイさん?」


「うん、そうだよ」


笑っていたルイスの顔がするりと曇ったことに、馬車に向かって歩いていたイルゼが気づくことは無かった。










「そういえば、その大きいバスケットの中身なんだったの?」


「何でもいいだろ」


「一回も開けて無かったよね。使わないのに持って来たの?変なの」


「うるさい」


二人は馬車に揺られて帰路についたのだった。




バスケットの中身は一応最後に答え合わせあります


誤字報告ありがとうございます。とても助かります!

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