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葡萄畑のはなし



その次の日もルイスはイルゼを訪ねて来たが、イルゼは玄関扉を頑として開けなかった。



3日も連続して人と会うのは、とっくに引き籠りのイルゼの許容範囲を超えてしまっているのだ。

そして相手がルイスだと更に気が抜けないので、きっと今家に上げようものならその許容範囲はぶち壊れてしまう。



「お前の癖に俺を外に締め出すな。開けろ」


「調子悪いから寝るからだめ」


「なら尚更だ。薬もある。開けろ」


「お腹痛いから今から寝るから」


「お前、ちゃんと温かくしてるか?してないだろ。開けろ」


「今日は私の痣が疼くから君は帰った方がいい……」


「お前色々大丈夫か?開けろ」



追い返すのにまた嘘をついてしまうなど本当に救えない話なのだが、仮病に仮病を重ねて、ルイスに帰れと言い張った。






そんな仮病を使っている間にも、イルゼは罪悪感に怯まず全力で絵を描いていた。


日が暮れるのも気にせず、日が経つのも忘れ、ひたすらキャンバスに向かっていた。


そんな風にずっと引き籠っていたイルゼだったが、今日は画材を愛用の画材カバンに詰めていた。

外出の準備だ。



今日は、ルイスと約束をしていた、葡萄畑に行く日なのだ。



「行くぞ。乗れ」


「は、はい、お願いします!」


イルゼの小さな家の門に横付けされて、質の良さそうな馬車が停まっている。

その横に立つルイスが、馬車に乗り込もうとするイルゼに手を貸した。

ぶかぶかのこげ茶のローブを纏い、フードで顔を隠しているイルゼはローブの長い裾と共にルイスに手を握られ、馬車の中に押し込まれる。






「フードくらい取れ」


出発してカタコト揺れだした馬車の中、イルゼの正面に座るルイスが不機嫌そうに指摘した。


「あ、うん、忘れてた」


家から出る時はいつもフードをすっぽり被って顔を隠すことに慣れてしまっているイルゼなので、言われるまで気が付けなかった。

フードをしたまま家から出て馬車に乗り込んだのは、痣のない顔を公爵の関係者に見られてはならないと一応考えてのことだったが、馬車の中にはルイスしかいないのでイルゼは躊躇うことなくフードを取る。





「どれくらいかかりそう?」


目的地の葡萄畑までどれくらいの時間が掛かるかという意味だ。

馬車の窓にかかったカーテンを小さく持ち上げて、その隙間から流れゆく景色を見ながらイルゼはルイスに訊ねた。



「順調にいけば2時間くらいか」


「2時間か……その間、馬車の中では暇だねえ」


「ふーん、お前は暇なのか」


「そうだね、馬車の中で絵を描くと酔うからね。君は暇じゃないの?」


「……お前のアホ面見てるので忙しいな」


「やめといたら?私のアホ面見てると、酔っちゃうんじゃない」


「酔う……まあ、今更だな……」


ルイスが何かボソボソ呟いたが、イルゼにはよく聞こえなかった。


聞こえなかったが、「酔うかもしれない、だから馬車は嫌なんだ」といったようなことを言われたと思ったイルゼだった。

確かにルイスはいつも馬車ではなくて馬そのものに乗っている。


イルゼは馬車に酔わないおまじないをいくつかルイスに紹介することにした。

ちなみに、このおまじないを開発したのはイルゼ自身である。


「手に指でヒツジ描くと酔わなくなるよ」


「は?なんだそれは」


「おまじない」


「手のひらにチマチマ描くのか?それこそ酔いそうなんだが……」


「でも、私には効くんだけどな」


「絵が上手いお前が描くなら効くのかもな。ほら、俺の手貸してやるから描いてみろ」


「君の手に私が描くの?」


「そう言ってるだろ」


「いやいや、違うよ。私が描いても意味ないよ。これは集中して自分の手に自分で描いてこそ効果が発揮されるんだから」


「…………あっそ」




そうこうしているうちに乗り物酔い防止のおまじないの話も尽きたので、話題は絵の話に移行した。


いつものパターンだった。

なぜならイルゼは、口を開けば絵の話しかしないからだ。

絵の話、色の話、描き方の話、光の話、画材の話……。

当のイルゼでも少し心配になるほどの情報量だが、ルイスはいつもそんなイルゼの絵の話をきちんと理解して聞いてくれている。


(絵描かないのに一回説明しただけで理屈分かるって凄いな……)


(それにしても、貴族のボンボンなのに絵の描き方に興味あるのも珍しいよね)



最近使い始めた油絵の具の話や、林檎を描く時の色の混ぜ方について話をしていれば、馬車はあっという間に目的地に着き、軽快な音を立てて止まった。


「着いたな。降りろ」


「は、はい、ありがとう!」


先に降りたルイスに、乗り込んだ時と同じように手を取られ、イルゼは葡萄畑のあるニューリンの町の地面を踏んだ。

そこは、コーストサイドの街よりうんと田舎で、うんと空が広い場所だった。



すう。

目を閉じて、イルゼはそこにある空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

豊かな畑のにおいがする。膨らむ果実のにおいがする。穏やかな生物のにおいがする。

遠くにも近くにも、山が見え、畑が見え、牧場が見えた。小高い丘の上で小さな点のように見えるのは牛か羊だろう。



「いいところだね。ここにアトリエがあったらいいかも。畑描き放題だよ」


「牛も描き放題だぞ」


そう言ったルイスが顎で示した先には、たくさんの牛を連れて小道を歩く牛飼いの姿があった。

その牛飼いの隣には賢そうな顔をした牧羊犬もいる。


「わあ!」


おもむろに持っていた大きな画材カバンからスケッチブックを取り出したイルゼは、その光景をスケッチしだした。

比較的都会であるコーストサイドの街にある屋敷で、飾り立てられるか引き籠るしかしてこなかったイルゼが牛や牧羊犬を実際に見たことなど、数えるくらいしかなかった。


(生の牛、いいなあ!ブルンブルンしてる……!)


スケッチブック片手にその場に座り込んだイルゼは、何時間でも絵を描いていそうな勢いである。




「こら、行くぞ。まずは葡萄畑だ。目的は最初に果たしておかないといけないだろ。油断するとお前はすぐ道草をする」


暴走しつつあるイルゼを小突くルイスは、片手に大きなバスケットを持っている。

そして、空いているもう片方の手でイルゼの画材カバンを掴んだ。


「は、はい」と返事をしたイルゼが我に返ったことを確認して、ルイスはサクサクと歩き出す。




追い付いたイルゼがルイスに、画材カバンを持ってくれたことに対してお礼を言う。

立ち止まったルイスはそれに対して返事はしなかったが、その代わりに「なんだ、ここらしいな」と言った。


もう目当ての葡萄畑についたらしい。

先ほどの牛飼いが通りすぎていった小道とは、目と鼻の先にあった。


葡萄畑には小さな柵はあるものの、来るもの拒まず去るもの追わずと言わんばかりに出入り口が大きく開かれていた。

茂る葡萄の葉は陽に透けて、緑のアーチを作っている。

人の気配はしないが、イルゼたちを歓迎しているようにも見えた。


サクッと柔らかい土を踏み、柵の中へ入ってみる。

もう一歩サクッと歩を進めると、緑の屋根とねじれた柱の葡萄の家の中にいるような錯覚がある。



サクサク奥に進み、イルゼは葡萄の木の下に具合の良さそうな地面を見つけた。

葡萄の蔦と葉が作り出した緑のテントの下にある、乾いた地面。

そこに、イルゼは画材カバンから取り出した布をひょいと敷いた。


「はい、座りなよ」


「は?」


イルゼが示した、どう見てもひとりしか座れない布を見たルイスは、少しだけ赤い顔でイルゼを振り返った。


「座らないの?」


「いや、まさか、お前、俺の上に座る気か……?」


「まさか。ローブは洗えばいいから、私は地面に座るよ。でも君の服高そうだから、汚したらだめでしょ?」


「あ……っそ」


ルイスの表情がすんっと元に戻った。

どかっと必要以上に乱暴にハンカチの上に座ったルイスは、横目でイルゼを軽く睨む。


「確かに俺の服でお前のローブ千枚は買えるな。バーカ」


「いやいや、今日の私は特に馬鹿じゃないんだな。今日は私の我儘でついてきてもらったんだから迷惑だけはかけないようにしなきゃと思って、お茶も淹れてサンドイッチも作ってきたんだから。だから、お昼に食べよう」


「は……お前、サンドイッチの作り方知ってたのか」


「君がいつもうちのキッチンで作ってるじゃん。具材をパンに挟むだけでしょ?私、これでも器用な方だからやろうと思えばそれくらいできる」


「なら家にいる日も、ちゃんと作って食べろ」


「それは面倒くさい」


「ものぐさ女め」


仕方ない奴だと言うような顔をしているのに機嫌がいいのか、笑っているルイスを一瞥して、イルゼは持ってきた画材を新しく敷いた布の上に広げ始めた。


鉛筆、水彩絵の具、水、パレット、筆、定規……。

画材は丁寧に綺麗な布の上に並べていくが、自身は土の上に平気で座っているイルゼである。





シャッシャッシャッシャッ


葡萄の未熟な実も、蔦も、葉も、根も、余すところなく観察して、イルゼはそれらをスケッチブックに描きこんでいた。

見たものをイルゼの中で消化して、整理して、もう一度組み立てて。

できたイメージを鉛筆に伝えて、紙に表現する。


もっと、もっと。

もっと教えて。もっと私に見せて。

もっと描かせて。


絵を描いている時だけ、イルゼには世界が広がる音が聞こえるのだ。

こうなれば、イルゼはおなかがすくのも忘れて絵に没頭してしまう。



イルゼが何もかもを忘れて夢中でスケッチしている間ルイスは大人しく、イルゼが紙を捲るたび揺れる、ミルクティー色の長くて柔らかい髪を見ていた。








「あ!もうお昼かな!?」


唐突に、イルゼが顔を上げた。

毎日、昼食の概念などないに等しく四六時中絵を描いているイルゼが、昼時だと言い出すのは珍しい。

時計を見れば、少し遅めの昼食にふさわしい時間だった。

イルゼは、ルイスに感謝を示すために作ってきたサンドイッチの存在を忘れてはいなかったのだ。


「お昼ご飯食べよう」


「ああ……」


描きかけの絵を丁寧に布の上に置いて、イルゼは持参した大きな画材カバンの中から大きな水筒とサンドイッチの包みをテキパキと取り出した。


「はい。食べられるもので作ったから大丈夫、うん」


広げたサンドイッチの包みを、ルイスの目の前に差し出す。

包みの中には、綺麗に並べられたサンドイッチが見える。

具材はルイスが運んできてくれたトマトやレタス、チーズやハムなどのシンプルなもの。

単純だが鮮やかな食材の色が白いパンに映える。


「毒入れてないだろうな」


予想に反して美しいサンドイッチを見つめていたルイスが顔を上げた。


「うーん、君、私の恨み買うようなことしたの?」


「……感謝される謂れはあっても殺される筋合いはないな」


「うん」


頷いたイルゼはサンドイッチの包みをルイスに押し付け、いそいそとお茶を準備し始めた。

大きな水筒から澄んだ黄金色の液体と、良い香りがふわりと立ってきた。

二つのカップにそのお茶を注ぎ、その一つをルイスに手渡すイルゼ。


そんな様子を見ながら、ルイスは持ってきていた大きなバスケットがイルゼの視界に入らないように、そっと奥へ押しやった。


そして、イルゼの作ったサンドイッチを齧る。

パンにトマトとレタスとチーズとハムが挟まっているだけの単純なサンドイッチだったが、ルイスはそれを美味しいと思った。イルゼが持ってきていたお茶も、優しい味がして美味しかった。




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