会えたはなし
(いや。まず、あいつが生きてる可能性の方が低いんだ。勢いで見ず知らずの他人のアトリエにまで忍び込んで俺は何をしている?今ならまだ戻れる……)
ルイスは回れ右をした。
誰かに気づかれる前に帰ろう。ルイスはそう思って門の柵に繋いだ愛馬の姿を目に映そうとして、
目を丸くした。
アトリエの小さな庭にある井戸から水を汲んで帰ってきたところだったのか、そこにはバケツを手に持って立つイルゼがいた。
ミルクティー色の緩やかなウェーブがかった長い髪。
真珠のように白い肌。
凛とした大きな琥珀色の目。
花を歌うように潤んだ唇。
いつも思い出していた姿がそこにあった。
ずっと、忘れられなかった存在がそこにあった。
二人の視線がぶつかった。
イルゼも、ルイスと同じように目を丸くしていた。
夏の涼しい風が吹く。
背が高く伸びた雑草も、忙しく飛び回る蜂の羽音も、日の光が降り注ぐ音も、遠くの民家で白い洗濯物が乾く音もみんな、その瞬間だけは二人の世界の中で息を潜めた。
ばしゃん、とイルゼの手から離れたバケツがひっくり返った気配が、遠く彼方で木霊する。
バケツから広がった水は、知らない場所に吸い込まれていくように地面に染み込んでいく。
そして落ちたバケツは、別の世界に向かって転がっていく。
ルイスが動く前に、薄い茶色の長い髪がふわりと揺れた。
スカートの裾も、風のように靡いた。
やっぱり彼女は身を翻して自分から逃げるのだろうな、とルイスは諦めた。
諦めて、ゆっくり瞬いて。
受け入れようとした瞬間、イルゼが飛び込んできたのは、ルイスの腕の中だった。
イルゼは、跳ねたゴムボールのように力任せに全身をルイスに預けてきた。
予想に反して飛び込んできたイルゼにルイスは驚いたが、それでもしっかりと受け止めた。
嫌がるでも無視するでもなく、姿を認めるなり腕の中に飛び込んできたイルゼの反応は、ルイスにとって考えうる限り一番嬉しい反応だった。
イルゼが飛び込んできてくれて。自分のことを覚えていて。
そして、もしかしたら自分と同じ気持ちでいてくれるのでは無いか。
「お前……」
ルイスが動揺を抑えて絞るように声を出すと、イルゼが嫌々をするように首を振った。
イルゼがきつく巻き付いて首を振る理由はルイスには分からなかったが、それでもよかった。
ポン、とルイスはイルゼの頭を撫でた。
「お前、幽霊とかじゃないよな?」
「うん、ごめん、生きてるの!ごめんなさい!」
(……なんだ。開口一番、謝るのか)
『ごめんなさい』
先ほどまでの期待は、一転して萎んでしまった。
生きていてごめんなさい、というイルゼの言葉を聞いてルイスは困ったように眉を下げる。
一度死にかけたのを機に、イルゼは新しい人生を始めた。イルゼはルイスなどいない新しい生活を楽しんでいる。
イルゼが生きているのにルイスに連絡をしなかったということは、そういう事だ。
抱き付かれたことで一気に失念していたが、イルゼが生きていてルイスがそれを今まで知らなかったということはそういう事だ。
(……そういう事だろうな)
ルイスのような過去の人とはもう会いたくなかった。折角来てもらったけど気持ちには答えられない。だからごめんなさい。ごめんなさい帰って。ごめんなさい忘れて。貴方に会うために生きてたわけじゃないのごめんなさい。
…………謝罪の言葉はそういう意味で発せられた気がしたのだ。
「謝るな、助かったんだろ」
努めて穏やかな声を出す。
イルゼがルイスにぎゅっと引っ付いている理由は、ルイスが怒りだすのを阻止するためのようにも見えてきて、ルイスは目を伏せた。
「俺は大丈夫だから放せ」
放せと言えば、イルゼは全力で抵抗してきた。
絶対放さないとばかりに、さらに腕に力が込められる。
ぎゅっと、何か声にならない思いを伝えられているようだった。
ぎゅっ。
(そんなに強く抱き付くなよ……)
その強さに、ルイスはまた己の判断が揺らぐのを感じた。
ルイスはこのまま抱きしめ返して無理やりにでも連れて帰れば良いのか、触れずに彼女の幸せを願った方が良いのか、迷った。
「君は、カルミアに絵の依頼に来たの……?」
腕に力を込めたままのイルゼは顔を見せない。どんな表情でその言葉を言っているのかは分からない。
怯えているのか、怖がっているのか、絵の依頼だけであってほしいと願っているのか。
はあ、とルイスは小さく息をついた。
しかしここまできてイルゼが生きている事を知ったのに、絵の依頼に来たと誤魔化す選択肢などルイスにはない。
たとえ完全に拒絶されることになろうと、気持ちを伝える以外の事などしたくない。
「…………違う。俺は、イルゼに会いに来た。たまたま王都の画廊で絵を見かけて、お前の描く絵に似てたから、もしかして生きてるんじゃないかって少しでも思ったら止められなくて、もうここまで来てた」
「私も、君に、ずっと、会いたかったよ!!」
ルイスの静かな声に被せるように、イルゼの声が突き抜ける空に響いた。
驚いた。
心臓が震えたのを隠せず、ルイスの喉が自然と揺れた。
先ほどまで後ろを向いた想像を繰り返していた筈なのに、イルゼのその言葉は信じてもいいのだと、全身で思った。
それらしい逃げ腰の憶測より、腕の中のイルゼのその言葉を全力で信じればいいと感じた。
そう力を抜けば、嘘のように体が軽くなる。
全部、その言葉を聞けただけで報われた気がした。
ずっと焦がれ続けてどこか虚ろな時間を過ごした一年半の月日も、散々逡巡していたことも、何もかもどうでもよくなった。
生きていると一言の連絡もなかったことへの不安も、勝手に消えたことへの憤りもきっと、今のこの気持ちの前では無力だ。
「ずっと、会いたかったんだよ!ずっと考えてたよ、君のことずっと!でも私、そんな願いは叶えちゃ駄目だったから!でも今だけ許して、あと30秒で放すから……」
「30秒……」
「長すぎかな?!」
ルイスが呟くと、イルゼがバッと顔を上げた。
昔と何も変わらない、顔をぐちゃぐちゃにして泣くイルゼだった。
「ああ、長すぎ」
はうっ。イルゼはなんとも悲しそうな顔をした。
(馬鹿でアホで間抜け面。虐めるとおもしろい顔する)
ルイスが好きになったイルゼと何も変わってない。
自然と笑みがこぼれる。
「嘘。短すぎ。離さなくていいだろ」
するり、とルイスは甘いミルクティーの色をしたイルゼの髪を撫でた。
この色の後ろ姿に、心惹かれた。
しゃんと背筋を伸ばして筆を走らせる姿を見れば、心躍った。
そして何より。
光のようにまっすぐで、花が咲いたように明るいこの笑顔が好きだ。
ルイスはぎゅっとイルゼを抱きしめ返した。
「死んでも、もうずっと離すなよ」




