その後のはなし
その夜、イルゼはひっそりと家を後にした。
少しのお金は持ったが、着替えも食料も何も持たなかった。
これから死ぬ予定の人間が生活用品一式持って消えたら、夜逃げだとバレてしまうと勝手に恐れた結果だ。
だが何となく貰った髪飾りを置いていくのだけが憚られて、気づいたらローブの内ポケットの中に入れていた。
歩き出したイルゼが、足を止めることは無かった。
旅団の馬車の後ろに乗せてもらったり、商人の荷馬車に潜り込んだり、大道芸人の一行について進む傍ら彼らのプロマイドを描いたりしたこともあった。
そうやってボロボロになりながら、何とか国境を越えた。
小さな国の民が一人消えて、隣の小さな国に住民が一人増えた。
よくあることだ。誰もイルゼのことなど憶えていない。
所持金も少なかったイルゼの新しい生活は、最初は散々だった。
優しくしてくれた人が娼館の経営者だったりとか、奴隷商人だったりとか、そんなことばかりだった。
イルゼは、街頭で絵を描いていた似顔絵描き達を見て、同じように街頭で描くことを始めた。
始めの内は、それだけでは寝るところも食べるところもままならなかったので、レストランの厨房で下働きもした。
レストランのおかみさんが親切な人だったので、余り物の料理をくれるだけでなく、二階の物置で寝ることも許してくれた。
物置の中で薄い布を敷いて横たわっているだけだったが、イルゼは虚しくなどなかった。
むしろ、楽しかった。
両親が貿易で成功していた頃はふかふかの布団で、毎日高級なハーブティーを飲みながら絵本を読んでもらって寝ていたが、たとえ物置の床で寝ようとも、明日が来るのが待ち遠しい今の生活の方がよっぽど性に合っている。
(それに家があった頃だって、アトリエの床で寝たことなんて数えきれないほどあるんだから)
何もなくても、自分には一つできることがある。一つやりたいことがある。
強さをくれる光がある。自分を信じることができる希望がある。
イルゼを支えてくれる、絵の存在がある。
それに、絵、絵、絵とばかり言っているような色気も呆気もない地味な人生でも、一人だけ、家族でもないのにイルゼのことを好きだと言ってくれた人もいた。
一心不乱に絵のことだけを考えたイルゼの面白みのない人生に、綺麗な赤をさしてくれた。
純粋で華やかで、綺麗な色の時間をくれた。
長年パレットを持ってきたイルゼだって、見たことのないような綺麗な色を見せてくれた。イルゼの人生に、彩りをくれた。
(絵を描けるだけでいいと思ってたけど、誰かから一度でも好きだって言ってもらえたら、なんだか、その思い出だけで女の子としての人生も謳歌した気がするなあ)
イルゼはその思い出を大切に置いて包んで、心の中にしまっていた。
忙しかった。他のことを考える余裕などないくらい、生きていくのは大変だった。
朝早く起きて街頭で絵を並べ、夕方からレストランの厨房の隅でひたすら皿を洗った。
深夜になってレストランが閉店したら、そこから厨房を磨いた。
それが終われば倒れるように床に伏し、朝日が昇る前に起きてまた一日を繰り返した。
忙しいイルゼが街頭で絵を描き始めて何か月か過ぎたあたりから、ぽつりぽつりと絵が売れていくようになった。
絵が売れるたび、イルゼの心は花が咲くように嬉しかった。
知らない国で少しづつでも認められて受け入れて貰えて、イルゼの気持ちには余裕が出てきた。
この頃からだっただろうか。
イルゼは一人で筆をとるたびに、またあの彼の顔を思い出すようになっていた。
丁寧に折って、綺麗な紙で何重にも包んで心の奥にしまっておいた、あの思い出を取り出して眺めるようになった。
彼の偉そうな顔とか苛々した顔とか、驚いている顔とか笑っている顔とか、涙をこぼした時の顔とか。
昔はただの意地の悪い男の子としか思っていなかった。
綺麗な顔をしているくせに意地が悪いせいで、誰も友達がいないのだと思っていた。
イルゼのことを考えてくれていたなんて、全然思いもよらなかった。
(いつも悪口言いながら、食べ物届けてくれた。渡してたお金じゃ足りないような沢山のいいものを買ってきてくれてた。よく考えたら分かったことなのに)
(葡萄畑にも連れて行ってくれたな。小さい子にも案外優しかった。あの時の大きなバスケット、実はお弁当持ってきてくれてたの、後から気づいた。でも何も言わずに私の作ったサンドイッチ食べてくれてたな)
(あの時訳も分からず走り出しちゃったのに、一緒に走ってくれた。手、引っ張ってくれた。友達ができたのだって、引き籠りの私の手を引いて連れ出してくれたからだ)
(絵が下手だったな。あのリスは傑作だった。あの絵も、こっそり持ってこればよかったな)
(悪党どもに教会で出くわした時も、間一髪の時で助けてくれた。いつも助けてくれてた。危ない時には絶対間に合うんだもん。凄いよね)
イルゼは、緑の平原と青い空が広がる絵を描いた。
包むような、閉じた優しい世界の絵だ。
あの日太陽の下、イルゼの横で無防備に寝ていた彼の姿が思い出される。
すやすやと、良い夢を見ていそうな顔だった。イルゼの隣で心地よさそうにしていてくれた。
時間は止められないし巻き戻せないから、その時イルゼと彼を包んでいた美しい色をキャンバスに閉じ込めて、永遠に色褪せないようにしてしまいたかった。
同じように、一緒に歩いた帰り道の綺麗な夕焼けの色をした絵も、あの日の朝日の色をした絵も、彼と同じ濃い藍の夜の色をした絵も描いた。
何よりも綺麗な色と共に思い出される、戻れない日々の思い出ばかりを絵に描いていた。
ある時、そんな絵を目に留めてくれた陶芸家のお婆さんに出会った。
絵を気に入ったと言ってくれた彼女から、アトリエを一緒にシェアしないかという話を貰った。
少し考えて、イルゼは頷いた。
空が青いな、と見上げるたびに思い出す。
(元気だろうか)
アトリエを吹き抜ける風が心地よいと感じるたびに思い出す。
(今何してるんだろう)
町はずれのアトリエで、コロコロ転げるように笑う子供の声を遠くに聞いて思い出す。
(徹夜、しすぎてないといいけど)
絵が描けて、誰かに見て貰えて、誰かにお金を出してでも欲しいと言われるような絵が描けて、イルゼは幸せだった。
これがイルゼの望んだことで、ずっとそれ以外は要らないと思っていた。
イルゼにとって生きることは描くことだと、ずっと信じて疑わなかった。
絵以外に、イルゼの胸を締め付けるものなどこの世にはないはずだった。
(もう、会うことは無い、んだろうな)
過ぎ去った日の、その輝きのなんと眩しい事か。
もう帰れない思い出の儚さを、何人の詩人が歌にしたのだろう。
もう戻れないあの日々を、何人の歌手が歌ったのだろう。
それならば絵を描くイルゼは、あの日あの場所で、彼と共に見た情景を描こう。
キャンバスの上にずっと残しておこう。
あの時間を、今になって酷く恋しく思う愚かな絵描きだが、過去を惜しむやるせない気持ちを昇華できる手段を持っていてよかった。
(楽しかったな)
(幸せだったんだな)
(好きだったんだな)
(こんな干物女の私にも、恋させてくれたんだな)
今更になって思う。あの時は、何一つ気が付かなかった。
自分の気持ちなのに、あの時は何一つ分からなかった。
もっと、もっと。
もっと教えて。もっと私に見せて。その顔をもっと。笑った顔も怒った顔も、もっと。
もっと描かせて。一緒に過ごした日々の景色をもっと私に描かせて。
願っても、もう叶わないけれど。
イルゼは最後に彼、ルイス・フロストの唇にキスしてしまったことを思い出した。
ずっと、不思議だった。なぜ自分があんなことをしたいと思ったのか。
でも今なら簡単に答えが分かる。
好きだったからに決まってる。
好きだなんて言えない癖に、どうしても伝えたいと思ってしまったからに決まってる。
思い出せば、いつも涙が出そうになった。
(私、痴女っぽかったし、やり逃げな感じだったけど、最初で最後……好きな人とできて、よかったな……なんて、また自分のことばっかり。最後の最後まで自分勝手だな、私は……)
何度か、イルゼはルイスに手紙を書こうかと思ったことがあった。
こっそり一目だけでも会いたいと思ったこともあった。
しかしいつも思い留まった。
(こんな嘘つき、永遠に死んだことにした方がいい。それが嘘ついた罰だ。死ぬことを冒涜した罰だ。人を欺いた罰だ)
(もうすぐ死ぬ私の為に傍にいてくれて、泣くことまでしてくれたのに、嘘ついてのうのうと生きてる私は、もう絶対に会いたい人には会っちゃいけないんだ。会いたいなんて思うこともおこがましいんだ)
(きっと私のことなんてもう忘れて、可愛い子と結婚して幸せになってるよ。その方が幸せに決まってるよ)
イルゼは未練たらしく名乗ることもなく、本名を捨てていた。
しかし、唯一持って出てきたルイスからもらった髪飾りだけは、いつまで経っても捨てられなかった。
紅の葡萄のような髪飾りで、アクセントに藍色に光る石が混じっている。
こんな小さな石に見出した意味に縋るのは愚かだが、それでもそれはルイスの髪の色によく似ている。




