腐れ縁のはなし
ドンドンドンドン
扉を叩く音が遠くの方でしたのを感じて、何やら騒がしいなと寝返りを打ったイルゼは唸った。
そして欠伸をして、飛び起きた。
起きてから妙に背中が痛いなと思ったイルゼは、またアトリエの床で寝てしまっていた。
昨晩いつ寝たのかまるで憶えていないし、今日は昼過ぎまで寝てしまっていた。
窓の外にはもう太陽がサンサンと輝いている。
絵の具がこびりついた髪を手櫛で雑に梳かして、絵の具で汚い服を脱ぎ捨てて洗い立ての新しい服を身に着けた。
その間にも、扉が急かすように音を立てている。
ため息交じりにイルゼが鍵を開ければ、そこには不機嫌そうに歪んだ男の顔があった。
「いつまで待たせる、のろま」とイルゼを睨みながら、男は屋敷の中に入ってきた。
「早く出ろ。干物オタク女がようやく干からびて死んだのかと思ったぞ」
「っていうか、私が出るまで扉叩き続けるのやめなよ。ドアが壊れる」
「は、壊れたら弁償してやるよ」
「そういうことではなく、人の家の物は大切にするものなの。これだからボンボンは……」
イルゼの抗議についてはどうでもよさげな顔をして、勝手知ったる人の家とばかりにずかずかダイニングまで進み、男は手に下げていた大きなバスケットをテーブルに置いた。
「お前、なんかあったか?」
「えっ、いや、何もないけれども」
心の内を読まれたかのようで、イルゼはドキリとした。
確かにクラクトン公爵のことがあって、よく眠れていない。そのことが顔に出ていただろうか。
「本当か、雑巾女。俺に嘘ついてただで済むとは思わない方がいいぞ」
「私、雑巾女って名前じゃないし」
「じゃあ何だ、毛玉女か?ほら毛玉、何かはあったんだろ?いつもより陰気臭い顔してるぞ」
「もともとこういう顔だから。陰気臭いのも私の個性だもんね!フンッ」
鼻を鳴らしたイルゼは、話を変えるためにテーブルに近づき、男が持ってきたバスケットのふたを開けた。
「これだけはお礼言っとく、ありがとう。
……あ、生肉入ってる……私、料理してる暇なんてないんだけども」
バスケットの中身を覗き込めば、色とりどりの具材を挟んだサンドイッチや果物や乳製品、菓子の間から肉の包み紙が見えた。
「適当に切ってオーブンにぶち込んで食べろよ。お前ガリガリなんだから肉も食べないと死ぬぞ」
「肉食べなくても死なないよ。それより料理が面倒くさすぎて死ねる気がするよ」
「は?そんなんで死ねるなら死んでみろ。それより俺が買ってきてやったものは無駄にするな、絶対食べろ。焼くのが面倒なら生でも食べろ」
「生肉なんて食べたら食中毒になって死ぬけど」
「文句言うな、干物女。食中毒になってもいいから食べろ」
男は犬でも払うようにシッシとイルゼを横に押しやり、大きなバスケットから中身を取り出し始めた。
雑な語気とは裏腹に、取り出した食べ物を丁寧にテーブルの上に並べていく。
サンドイッチ、果物、乳製品、菓子、肉、野菜……。
「ガリガリで死ぬのはダメなのに、食中毒で死ぬのはいいの?」
「焼けばいいって話だろうが」
「時間がかかるじゃん」
「あのな……」
時は金なり、いや、命なり。
絵を描く時間は、一刻でも惜しい。
暫しのあいだイルゼは男と肉について攻防を繰り広げたが、このままでは肉が誰にも食べてもらえずに終わると思ったらしい男が折れた。
男はブツブツ文句を言いながら、切った肉をオーブンに入れ始める。
文句を言いつつも、ちゃっかりその肉に香草とバターを載せて、下拵えもきちんとしていた。
口の悪い、藍色の髪のこの男の名はルイス・フロスト。
このコーストサイドの街を治めるフロスト侯爵家の子息である。
フロスト家領内のコーストサイドの街の端っこには、イルゼの住む小さな屋敷もある。
イルゼがルイスと出会ったのは、貿易で成功して少しばかりお金持ちになって調子に乗ったイルゼの両親が、積極的に交流しようとして大貴族たちを精力的に家に招待していた頃だ。
その時のイルゼは幼く、ルイスもまた今よりずっと小さな男の子だったが、その時からルイスはイルゼのことを親の敵の様にいじめてきた。
しかし当時から、いじめられることは仕方ないとイルゼは諦めていた。
彼のような代々続く家柄の誇り高い貴族達からすれば、イルゼたち家族のような成金の男爵家が、高位の貴族とさも対等でもあるかのように振舞っているのが気に食わないのだろう。
それに大貴族と縁を持ちたい両親が、必死に幼いイルゼを嫁に友達にと売り込んでくるのも鬱陶しいのだろう。
だから辛く当たられるのも無理はない、と子供ながらにイルゼは思っていた。
もっとアピールしなさいと目で訴えてくる父親を横目に、イルゼが静かに目立たないようにしていても、ルイスは難癖をつけてくる。「ださい」とか「変な髪型」とか散々だった。
無視すれば、「くそださい」とか「アホみたいな髪型」とか更に散々なことを言われた。
あわよくばどこかの大貴族の目に留まらないかという思惑を胸に秘めた母親に連れられて、可愛くめかしこまれたイルゼが貴族の子供たちが大勢招待されたお茶会に参加した時も、ルイスはずっとイルゼのことを「根暗」だの「オタク」だの「不愛想」だのと責めてきた。
加えて、他の優しい子供がイルゼに気を使って話しかけても、「こいつオタクだから話しかけないほうがいい」と変な噂を広めてしまう。
あまりに大きな声ではっきり言うものだから他の子供たちが驚いてしまって、彼の両親が苦笑いで止めに入ったくらいだった。
ただ、そんなルイスもイルゼが両親の目を盗んでキャンバスに絵を描いている時だけは、何も言わずに大人しくしていた。
だから、イルゼは悪口ばかり言うルイスを心の底から嫌悪はしなかった。
他の人は絵の具の油にまみれたイルゼを嫌がるか窘めるかするのに、ルイスはイルゼが一番大切にしているものに対しては何も言わなかったからだ。
そんなふうに何年も過ぎて、イルゼもルイスも大きくなった。
そしてある年、適齢になったルイスがコーストサイドを離れて王都の士官学校に入学したので、やっと顔を見ることも無くなるかと思われた。
が、今度は毎冬の長期休みに帰ってきては勝手にイルゼを訪ねてくるようになった。
殴られたりするわけでもないし、王都でしか手に入らないような高級な画集や、珍しい動物の毛でできた筆なんかを置いて帰ってくれるようになったので、その時はむしろラッキーくらいにイルゼは思っていた。
それからルイスは王都の士官学校を卒業して、コーストサイドの街に戻ってきた。
決して筋肉隆々のゴリラな見た目をしているわけではないのに、士官学生時代には大槍を振り回して武闘大会で優勝したり、卒業時にはその腕を買われて王国の騎士団から直々にスカウトされたりしていたようだが、結局コーストサイドに戻ってきてのんびりお貴族様をやることにしたようだった。
丁度それくらいの時に、イルゼの両親が事故に遭った。
塞ぎこんで、何もせず何も食べず寝ることも出来なかったイルゼの所にルイスはひょっこり現れて、イルゼの口に物を突っ込んで帰っていくようになった。
そこから紆余曲折を経て、ルイスは出不精のイルゼの食料調達係になってしまった。
最低でも週に一度は街に出て行かなくてはならない食料品の買い物が、引き籠りのイルゼにとって苦痛で仕方がなかった時、苦肉の策でルイスに「余ったお金で好きなもの買ってもいいから」と子供のお遣いのような誘い文句で買い物係を提案したら、一悶着や二悶着はあったものの、最終的に週に一度買い物をしてきてくれるようになったのである。
貴族のボンボンだから暇なのか、戯れに貧乏な領民に情けをかけてくれているだけなのか、真意は分からないがとりあえずルイスは一週間に一回イルゼの家を訪ねてくる。
そして、食べ物と共に「ださい」だの「油臭い」だの「小汚い」だのの悪口も一緒に届けられる。
口を開けば悪口ばかりのルイスは鬱陶しいと思ってはいるが、実のところ、イルゼはもう慣れてしまった。
それに、ルイスも残念な奴なのだとイルゼは思っている。
流石にイルゼの家族が死んだ時に悪態をつくまではしなかったし、叩かれたり髪を引っ張られたり痛い思いをさせられたことは無いけど、それでも女の子をボロクソ言うような酷い性格だから、ルイスは友人が一人もいないのだろう。
他の貴族の様に狩りに行ったり釣りに行ったり誘ってくれる人がいないから、毎回イルゼの所に暇つぶしがてらうっ憤を晴らしに来るのだ。イルゼはそう思って広い心でルイスの暴言を聞き流している。
(口は悪いけど、毎週買い物をしてくれることには本当に感謝してるしね)