逃走のはなし
背を向けたイルゼが身を翻して駆け出そうとした時、男の一人がイルゼに飛び掛かった。
その伸ばされた男の手が、イルゼの背中にある絵画に触れそうになる。
(む、無理ッ!!)
絵に触れられるのだけは、本当に嫌だった。
絵は、手で触るものではない。
描き上げた絵には、絶対に触れられたくない。
それが綺麗な手であっても絶対に嫌なのに、まして嫌悪しか感じない手に触られるなど、布の上からでも言語道断だ。
イルゼは身をよじった。
男の手を絵画ごと避けて駆け抜けるつもりだったが、絵画から逸れた男の手はイルゼの腕をガシッと捕まえた。
男はイルゼを乱暴に掴み、勢いのままにイルゼが深くかぶっていたフードを勢いよく剥ぎ取る。
イルゼの髪が弾かれるようにフードから飛び出して広がった。
「おいおいおいィィ!」
男はイルゼの顔を見るなり、歓声にも近い声を上げた。
「こりゃァ、とんッでもねぇ上玉でさぁ」
「なにッ、見せろッ」
金切声にも近いような耳障りな男の声に、ロイを床に投げ捨てた大男がドスドスとイルゼの方に歩いてきた。
そして露になったイルゼの顔を見るなり、ニタァァと黄ばんだ歯を見せて裂けるように笑った。
イルゼの腕を乱暴に握り、汚い舌で嘗め回すようにイルゼの全身を見る。
一通りイルゼを観察し終えた大男は、後ろに取り残されたロイの方に振り返った。
「ロォイィィィ!やっと探し出せたと思ったらよォ、お前は一人ウハウハ人生楽しんでやがるしよォ」
「お前が楽しんでる間によォ……お前がいなくなったこの何年かでよォ、何人死んだと思ってる……?もう俺らしか残ってねェんだよ」
「俺らがあんなに可愛がってやった恩、お祈りしてたら忘れたとか言うんじゃねェよなァ?お前はなァ、俺らとは絶対離れられねェんだよォ……!」
大男の顔は叫ぶたびに鬼のような形相に代わっていく。
目の前で叫ぶ大男が怖いとイルゼが身を最小まですくめた時、イルゼの背中が軽くなった。
背中に背負っている大きなキャンバスは邪魔だと思われたのか、周りにいた男の一人が絵画に手をかけ、イルゼから奪い、そして床にポイと投げ捨てたのだ。
カコン、と絵が床に伏す音がした。
その一瞬だけは恐怖も何もかも真っ白に忘れて、イルゼは咄嗟に叫んでいた。
「丁寧に扱って!!」
身をよじって絵の安否を確かめようとした。
藻掻くイルゼの蚊ほどの抵抗に反応した大男が、イルゼの方に首を戻す。
ロイに対して激情を見せていた顔も一転して、ニタリと不気味な笑みに変わった。
「ああ、あァ。勿論丁寧に丁寧に扱ってやるよ……あそこのクズ野郎は丁寧じゃなかったのかァ、可哀そうに……俺がもっと、丁寧よりイイ次元を見せてやるからナァ」
大男の生臭い息が近づいてきて、イルゼはヒエッと顔をしかめた。
(ぎゃあああ!粘土をくちゃくちゃに丸めたみたいな顔!これはジャガイモスケッチした方がマシ!)
「放し……!」
潰れた声をイルゼが発したその瞬間、大男がカハッと小さく唸った。
誰かの腕が大男の首に巻き付いて、その首を圧迫している。
大男のイルゼを拘束している手が少しだけ緩んだ。
「イルゼさん、事務室の方へ早く!」
ロイの叫び声が聞こえた。大男の首を絞めている2本の細い腕はロイのもののようだ。
しかし、イルゼは動けなかった。
大男が隙を突かれた一瞬は確かに緩んだ腕の拘束だったが、大男が自分の首に巻きついているのがロイの腕だと気が付いた時にはもう、イルゼの腕はしっかり握り直されていた。
ロイは逃げろと言っているが、イルゼは逃げられない。
腕が、振りほどけないのだ。
きつく握られて、どうやったって逃げられない。
大男は首を絞められていてもさほど苦しくないのか、イルゼの腕を握っているのとは反対の拳でロイの腕を殴り始めた。
周りにいる大男の仲間の男たちは、ロイの攻撃などでは大男に大したダメージがないと知っているのか、大男に加勢せずにニタニタ見ているものが殆どだった。
見ることもなく、おこぼれが貰えれば一番最後でもいいやと教会内のベンチでくつろいでいる者もいた。
(うわあああん!お願い、放して…………!!!)
イルゼは内心ヒイヒイ泣きながら、おもむろに着ている長いローブの中に手を突っ込んだ。
ローブのポケットの中で、イルゼの指に最初に触ったガラスの小瓶を掴む。
その一瞬。
イルゼはローブから引き抜いた手の中にある物の蓋を取り、全力で大男の顔面目掛けてそれを投げつけた。
「ウッ!」
黄土色が弾けて、呻いた大男の顔面を覆う。
イルゼが投げつけた物は、小瓶に入った黄土色の油絵の具だった。
普通はチューブに入っているのだが、この瓶に入った油絵の具は、高価で特殊な速乾性のあるものだ。
「ロイさん!」
力が緩められた大男の腕を振り払ったイルゼはロイに声を掛け、一目散に走りだした。
教会の事務室の場所など実は行ったことないので知らないのだが、ロイの事務室に行けという言葉を頼りに、教会の奥にある扉目がけて、イルゼは走った。
出来うる限りの速さで足を動かし、全力で走った。
息をするのも忘れて、全身と全霊で走った。
奥にある扉の取っ手にイルゼの手が届いた時、誰かの手がイルゼの手と重なった。
「入って!」
乱暴に、イルゼの手ごと取っ手を回して扉を開けたのはロイだった。
ロイのすぐ後ろに、黄土色の顔で目を真っ赤にした大男と、数人の男たちが向かってきているのが見えた。
バタン!
イルゼを押し飛ばさん勢いで扉の中に入れ、続いてサッと身を滑り込ませたロイは、ガチャリと扉にかぎを掛けた。
鍵を掛けられた扉の先に広がるのは狭い廊下で、薄暗がりの中に扉がいくつか見える。
バァン!バァン!バァン!
ロイがカギを掛けた扉が振動に揺れた。イルゼが身を縮めて飛びのく。
きっと、あの大男が扉を拳で叩いたのだ。
薄く頼りなさげなこの木の扉は、すぐに突破されるのではないか。
そうだ。それは誰が見ても明らかだ。




