何気のないはなし
ドンドンドンドン
玄関扉はいつもの来訪者の存在を告げた。
長らく布を被って、壁と一体化していた鏡の前に座っていたイルゼはビクリと体を震わせた。
(な、なんでこのタイミングで来るの!)
鏡など、見たのはいつ振りか分からない。
鏡の存在など、毎日忘れて過ごしていたのがイルゼなのに。
おかしなことをしている自覚があるので、指先が少しだけ震えてしまう。
今日のイルゼは、ほんのちょっとした出来心で、両親が買い揃えてくれた髪飾りを引っ張り出して髪に差していたのだ。
イルゼが起きているのに絵を描いていないなんて、珍しいこともあるものだ。
(早く出なきゃ、またのろまって怒られるんだろうな)
と思いながら、イルゼは鏡の中にいるミルクティー色の髪の女の子を見つめた。
クルンとひねられた髪に、木苺のような瑞々しい髪飾りが付いている。
頬に絵の具は付いていないし、髪は慣れないながらも丁寧に梳かされていた。
(でも、こんな時に会いたくないよなあ……)
玄関で待っていたのはやはりルイスだ。
読みたかった本を持ってきたので、またイルゼの家の裏の林に連れて行けとのことだった。
適当な画材を適当な箱に詰めてイルゼが家から出てくると、庭で待ったいたルイスがひょいとその箱を奪った。
そのまま運んでくれるらしい。
「こんな適当な箱に宝物詰めて、リスみたいだな、お前は」とルイスは笑っている。
2人は家の裏にある林の中を少し進む。
今日も天気は良くて、コーストサイド地方特有の涼しい風も吹いていて、軽やかな日和だった。
目的の開けた野原に到着し、具合の良さそうな木陰を探して、その根元に2人で座る。
ルイスは芝に寝ころんで本を広げ、イルゼはその横に座ってスケッチブックを広げた。
上を見上げれば青い空をキャンバスにして、鳶が翼を広げている。
雲はさながら空に広がる世界のようで、大陸のようで、地図のよう。
重なる葉の隙間から洩れる光は風と一緒に踊り、キラキラさざめく波を作る。
何でもない景色なのに、世界は何よりも平和だと思わせるような、のどかな風景だった。
鉛筆を取り目に映るものを自由に描き始めて、白いページを何枚か絵で埋めた時、ふと気になったイルゼは隣のルイスの方に振り向いた。
いつもなら意地悪そうな眼と目が合うのだが、本を顔にばさりと載せたままのルイスは動いていない。
(寝た、らしい?)
ポカポカした陽気と心地よい草のにおいの中、寝入ってしまうのは無理はない。そう考えたイルゼは、ルイスの寝顔に興味を持った。
(このボンボンは骨格が整ってるから、寝顔もさぞ綺麗に違いない)
そーっとそーっと。
刺激を与えないように慎重に本をどかすと、予想通り綺麗な寝顔が現れた。
まつ毛が長く、すっと通った鼻筋も凛々しく、無防備なのに唇の形も均等に整っている。
緑の草とルイスの綺麗な肌のコントラストは、イルゼの目にとても眩しく映った。
(うわあー、動いてないとほんとに彫刻みたいだなー……
こっそりデッサンしちゃおう。生の人間モデルにしてかけるチャンス、引き籠りの私には滅多にないもんな)
イルゼは寝ていることをいいことに、ルイスの顔をモデルにこっそりデッサンを始めた。
文句を言わない寝ている人間は、彫刻や石像と大差ない。
質感がより人間に近い分、デッサンのし甲斐はあるが。
シャッシャッシャッ。シャッシャッシャッ。
「ふんふふふんふふふーん」
鼻歌を歌いながら、イルゼがルイスの整った顔をスケッチしていると、先ほどまで目を閉じて寝ていたルイスといきなり目が合った。
「なあ。さっきから思ってたんだが、なんでお前、今日は髪飾りなんて着けてるんだ?」
緑の草の絨毯に寝転がったまま、くすぐったそうな顔で笑うルイスはそう言った。
余裕そうなルイスとは反対に驚いて焦ったイルゼは必死に、顔のスケッチを隠すためにスケッチブックの真っ白なページを探して開いて、急いで鉛筆を握りなおした。
「なんで!!!起きてた?!」
「お前のださい子守唄で起きた」
「子守唄って言うなら大人しく寝ててよ!」
「お前が音痴だったから起きた」
「酷すぎる!気にしてるのに!」
「珍しいお前の歌なんて、聞かなきゃ勿体無いだろ」
ルイスは、まどろむように小さく笑っている。
その顔がイルゼの鼻歌も悪くはなかったと言っているようで、油断したイルゼは優しいような溶けるような良く分からない気分になった。
「で、髪飾りはなんでだ。いつも化粧っけなんてないのに」
「別に、何となくだけれども」
「ふーん、ださ」
腕で体を起こしたルイスは、意地悪な顔をした。
見慣れたいつもと同じ意地悪なルイスの顔の筈だが、イルゼはいつもと違い少し悔しく思った。
(引き籠りの分際で髪飾り付けたり、雑巾の分際で髪梳かしたりなんてしてみようなんて思うから!私の馬鹿!でもわざわざダサいって言うこのボンボンも酷い!)
「ダサいって思ったとしても、お世辞でも可愛いって言っといた方が世の中上手く渡って行けるんだからね!そんなことも知らないのか貴族のくせに!」
「馬鹿、嘘に決まってるだろ」
ルイスの大きな手が動いて、ふわりとイルゼの髪に触れた。
長くてごつごつした指が、イルゼの長いウェーブがかった髪に絡まるように触れる。
「…………だから、可愛いに決まってるだろうが……」
「な……!」
ルイスはふわりふわりとイルゼの髪を撫でる。
その柔らかさを、その滑らかさを、その存在を、確かめているようだった。
「俺も買ってやる、髪飾り。だから今度からそれ着けろ。いいな、馬鹿」




