リスの絵のはなし
「どこ行くんだ」
びくっ。
家から出て、イルゼが玄関扉を閉めたところで、庭の向こうから聞き慣れた声が飛んできた。
イルゼは、その来訪者が誰なのかろくに確認することもしない。
この落ちぶれた男爵家の活気のない屋敷を訪ねてくるのは一人だけ。この低い声の主も一人だけ。
小さな男爵家の庭に降り立った長身の男、ルイスは丁度馬から降りたところだった。
(逃げても追いかけられて、すぐ捕まるだろうな……)
「外にスケッチしに行こうとしてた……」
「浄水飲んだか」
「う、うん」
長い脚を使い大股で歩くルイスは小さい庭などすぐに横切って、気が付けばイルゼの隣にいた。
やはり逃げられる気などしない、と思ったイルゼであった。
「俺も行く。辛くなったり不調感じたらすぐ言え」
「うん、了解」
用意していたスケッチブックと画材を抱えたイルゼが「それでは行こう」とそそくさと先に進もうとしたら、ルイスがイルゼの首根っこを捕まえた。
これでは動けない。
「まだ何かあるの?」
「そういえば、昼飯は食べたのか」
「まだ……」
「朝飯は」
「それもまだ……」
口籠ったイルゼは、ルイスにコラと怒られた。
家の中にイルゼを引っ張りこんだルイスは、先日買ってきたパンとハム、バターとオリーブの瓶を引っ張り出してきて、適当に挟んで作ったサンドイッチをイルゼの前に置いた。
早く絵を描きに行きたいイルゼは先に何か食べておけばよかったと後悔したが、そう思ったのも束の間、その素朴なサンドイッチが美味しくて、夢中でパクパク食べてしまった。
パクパク食べている最中で、ルイスが少しだけ嬉しそうに目を細めていた気がしたが、それはイルゼの気のせいだったかもしれない。
昼食を食べ終わり、イルゼはルイスと共に再度家を出た。
男爵家の寂れた庭を横切り、家の裏にある林の中を少し進む。
日の光が透ける木の葉や蔦を腕で押せば、そこには開けた野原があった。
ここは煮詰まったイルゼがよく訪れるお気に入りの場所である。
イルゼは、柔らかい草の間に座って空と芝の境目を見るのが好きだ。
昨日と今日の違いを探すのも好きだ。
春と夏の季節の境界を頬に受けるのも好きだ。
林に囲まれて丸く切り取られた空を独り占めして、のんびり浮かぶ雲のスケッチを始める。
手が疲れて横に寝転がれば、伸びた草が自分より高く見える。
ここは、もうこのまま草の葉に溶け込んで世界の誰にも見つけてもらえなくなってもいいかなと思えてくるような、イルゼの秘密の場所。
サワサワと木々が揺れる音がする。
ユラユラと雲が流れる音がする。
パラパラと、紙が擦れる音がする。
気ままに絵を描くイルゼの隣で、ルイスはイルゼの古いスケッチブックをゆっくり眺めていた。
一日に何枚も絵を描き、一冊のスケッチブックなどすぐに真っ黒になってしまうので、ルイスが暇つぶしに眺めるためのスケッチブックはイルゼの家に腐るほどあるのだ。
「ねえ、君も何か描いてみる?」
イルゼはスケッチブックから顔を上げ、隣にいるルイスに声を掛けた。
「俺、絵下手だぞ」
「関係ないよ。はい、紙あげる。鉛筆も。君が書いたやつ見てみたい」
イルゼは手元にあるスケッチブックのまっさらな一ページをビリビリと破り、鉛筆と共にルイスに手渡した。
「別にいいけど、笑うなよ」
「どれどれ」
何か一生懸命描いている様子のルイスのじっと待ち、ようやくルイスが鉛筆を置いたので、ルイスの手元をイルゼが覗き込んだ。
「ぐ……ぶは!こ、これ何?ゴリラ?!」
そこには、顔がパンパンの何かがいた。
二つ目が付いているので何か生き物のようだが、「ルイス画伯の絵は良く分からない」とイルゼは笑った。
「は?!どう見てもリスだろうが!可愛いだろうが!」
「リスには見えないけど、そうだね、よく見たら可愛い気もするような」
「そうだ、愛嬌があって可愛いだろ!で、これがどんぐりだ」
少し頬が赤いルイスが、リスらしき生物の隣にある黒いものを指さした。
黒く、塗り潰された変なものだ。
「こ、これ!?どんぐりだったの?えっと、フンかと思った!」
「おい、フンなんてわざわざ描くわけないだろ!」
「はははは、変なところでリアリティーを追求したのかと思った!じゃあこの横のは何?指?」
細く長いイルゼの指は、リスらしきものの斜め上に描かれた細長いものを指した。
長ぼそくて、灰色に塗りつぶされた変なものだ。
「違う。もっとよく見ろ、これは小枝だ!」
「なるほど。じゃあこれは?血痕?」
イルゼが次に示したのは、飛び散った何かのような不思議なマークだ。
血痕のようにビチョッとした、白い変なものだ。
「お前、わざと間違えてるだろ、これは雲だ!」
「ははははは!」
(何でも余裕でこなす貴族のボンボン様も、可愛らしいところがあるんだなあ)
歯噛みするルイスが面白くて、イルゼは声を上げて笑った。
「笑うな、下手なのは知っている!」
むくれるルイスに対し、目を細めたイルゼはゆるゆる肩をすくめた。
初めて絵を描いたときは、イルゼだってこんな絵を描いていた。
だが、こんな単純な線と点だけの絵でも、幼いイルゼの心は踊ったのだ。
「うん、下手だね。でも嫌いじゃない。私は好きな絵だよ」
「お、お前、コミュ障のくせに、一人前にお世辞言うな!
…………では、ないな……そんなこと思ってない。本当は、お前が好きって言うならそれでもう、嬉しいけど」
「…………そ、そうなんだ!いや、でも、コミュ障って呼んでくれていいよ、うん!」
ボソボソと言い直したルイスに虚を突かれ、イルゼは反射的に姿勢を正した。
だが、姿勢を正したはいいものの落ち着かなくて、手は宙を彷徨っていた。
「いや……オタクとかコミュ障とか酷いこと言ってたから、お前には今まで何一つ伝わらなかったんだろ」
(このボンボン、時々調子狂うなあ……)
手だけではなくイルゼの目も宙を彷徨い始め、いよいよ行き場がなくなった時、はっと妙案をひらめいたイルゼは逃げるように鉛筆を取った。
「……あ、えーっと、君にリスの描き方教えてあげようか」
「いい、別に」
「ほらほら、遠慮しないで。どこかで役に立つかもしれないし、リスくらい描けた方がいいでしょ」
「………………ま、ゴリラって言われっぱなしなのも癪か」
少しだけ眉をひそめたルイスだったが、思いのほかあっさりと頷いた。
満足そうに口角を上げたイルゼは、早速コツを説明するために円と線を紙の上に描いていく。
「そういえば君、小さい頃は絵なんて貴族が描くもんじゃないって言ってたけど、変わったね。貴族だからこうしなきゃとか貴族だからこれはしちゃ駄目とか、言わなくなったね」
「そんなこと言ってたの、いつの話だよ」
「うん、むかーしの話だね」
これは、ルイスが忘れてしまうくらい昔の話だったのだろう。
イルゼは思った。そういえば、人が一人変わるくらいの長い年月分、自分はこの人のことを知っているのだな、と。
意識したことはあまりなかったイルゼだが、ルイスはなんだかんだずっとイルゼの近くにいたということを、改めて思い出していた。




