二人との出会いのはなし
活発そうな女性が、縮こまるイルゼに構わずスケッチブックを後ろから覗きこむ。
「貴方、絵がとっても上手なのね」
「あ、ありがとうございます……」
「花の陰でイチャイチャしようと思ったのに先約がいて残念って思ったら、凄い絵描いてる人がいるんだもの。びっくりしちゃった」
金髪の女性は気の強そうな瞳をくりくりさせて、イルゼとルイスの顔をまじまじと交互に見た。
温かくなってきたというのに相変わらずブカブカのローブを着ているイルゼと、軽装だが明らかに育ちの良さそうなルイスの組み合わせ。
ひたすらに絵を描いているイルゼと、その隣に座って無言でイルゼの手元を見ていたルイスの2人組。
「そうね、お二人は雇われの女流絵師さんと、どこかの貴族といったところかしら?」
「俺は別にこいつのことを雇っているわけじゃない。こいつも腐ってはいるが貴族だ」
警戒を眼差しに乗せ、イルゼの代わりにルイスが返事をする。
大きく足を組み替えたその姿は、女性を威嚇しているようにも見える。
しかし金髪の女性は特に動じていないようだ。
「あら、そうだったの。なるほど、じゃあ貴方たちも……
って、貴方、貴族なのに絵を描いているの?へー、へー!でもまあ、これだけ上手ならば描きたくもなるわよね」
「テレーゼ。彼女が困っていますよ」
連れの男性が金髪の女性を嗜めたが、テレーゼと呼ばれたその女性は目を輝かせてイルゼのスケッチブックから離れようとしない。
彼女の期待の籠った眼差しが、イルゼに他のページも見せろと言っているようだったので、おずおずと前のページを捲って見せると、テレーゼはまた嬉しそうにした。
その次のページもその次のページも、捲れば捲るほどテレーゼは興味津々で覗き込んでくる。
「自分で見る?」
「ええ、いいの?見たい、見たいわ!」
後ろからテレーゼに顔を近づけられて、身動きどころか息もできずに固まっていたイルゼは耐えきれなくなって、テレーゼにスケッチブックごと手渡した。
頬を期待に染めたテレーゼが、大きなスケッチブックを嬉々として捲っていく。
「すっごく上手!鉛筆だけでこんなに描けるものなの?貴方、私と年もそう変わらないのに、本当に凄いのね!」
「あ、ありがとう……」
「貴方、名前は何というの?私はテレーゼ。こっちは私の恋人のイーリス」
何故か渋い顔をしたイーリスがテレーゼを小さく制したが、それを無視したテレーゼはイルゼに向かってぱっと手を差し出した。
握手を求められたものの、イルゼはそれをあやふやにして名を名乗った。
ついでのように聞かれたルイスも一応は名前を答えていた。
「ねえイルゼ。もしよかったらなのだけど、この絵、私に譲ってくれないかしら」
スケッチブックを丁寧に見終わったテレーゼは、イルゼが勝手にテレーゼとイーリスをモデルにして描いた絵のあるページに戻っていて、離れがたそうにその絵を見つめている。
憂い顔の金髪の女性は、イルゼのその絵を大層気に入ったようだった。
「うん、それは、全然いいよ」
「本当!嬉しい。イルゼ、ありがとう」
ぱあっと顔に花を咲かせたテレーゼは、スケッチブックを抱いたままイルゼに抱き付いた。
まったくの不意打ちである。
表情をコロコロ変える、よく言えば天真爛漫で人懐っこく、悪く言えば落ち着きのない令嬢に絵を気に入られるのも、抱き付かれるのも、イルゼは勿論初めてだった。
それにもしかしなくても、家族ではない他人に抱き付かれるのは初めてだった。
「く、くるし……」
「あ、あら、ごめんなさい!本当に嬉しくて。大切にするわ」
急いでイルゼから体を放したテレーゼは、大してしわにもなっていないイルゼのローブを遠慮がちに整えてくれた。
「だ、大丈夫。だいじょうぶ……」
深呼吸をしておちついてから、イルゼは絵を丁寧にスケッチブックから切り離し始めた。
切り取り終わったその絵は、テレーゼに手渡す。
それは、咲き乱れる緻密な牡丹の花と、寄り添う美しい恋人同士の絵。
色は付けられておらず鉛筆のみで作り出されたものだったが、花と二人しか存在しない世界の美しい情景がそこに描かれていた。
絵を受け取ったテレーゼは大切にすると再度繰り返し、満面の笑みで笑った。
「うん。喜んでもらえるならよかった」
イルゼは素直に嬉しく思った。
いつだって、なんどきだって、絵を描いていて嬉しいのは認められた時だ。人に絵を喜んでもらえた時だ。
勿論、一等に楽しいのは絵を描く過程だし、一番に満足できるのは絵を描き上げた時だ。
しかしやっぱり、引き籠りのイルゼでも絵を描く者の端くれとして嬉しいと思うのは、絵を大切にすると言ってもらえた時だろう。
……ただ、今は手放しでは喜べないようで。
そこでイルゼの視界に入ったのは、テレーゼの後ろにいるイーリスの顔だ。彼の顔は困ったように顰められていた。
「あ、あの、イーリスさん、勝手に描いたこと、すみませんでした」
「えっ?」
「頼まれたわけでもないのに勝手に」
花の陰に身を隠して、通りすがりのカップルを勝手に絵に描いてしまったことへの謝罪だった。
イーリスは盗み見られて、承諾なしにモデルにされていたことを快く思っていなかったのだろうとイルゼは判断したのだ。
恋人同士2人きりの世界にいる時間を勝手に他人に覗き見された事実など、知りたくなかっただろう。
しゅんとしてイルゼが頭を下げると、それを見たテレーゼがイーリスの腕を横から引き寄せた。
「ほらイーリス、貴方がそんな顔してるからだわ。……今日だけは何も考えないって、約束でしょ?
ごめんね、イルゼ。勝手に描かれたことなんて、むしろ嬉しいくらいよ。私たちが美男美女のお似合いカップルだと思ったから描いてくれたんでしょう?ねっ」
「すみません、イルゼさん。私が至らないばっかりに貴方に変な気を遣わせてしまいましたね。私はそのことを気にしていた訳ではないのですよ」
(でもこれからは気を付けよう……
あれ。でも、じゃあ)
イーリスは何を気にしていたのだろう。
などと、出会って半刻でズケズケ聞けるような鋼の精神は持ち合わせていない。
それに知ったところで、どうせすぐにさようならだ。
人の事情はそっとしておくに限る。
決してコミュ障だけがしている処世術ではない。
れっきとした、皆に親しまれているコミュニケーションの極意だ。
しかし、人のことはそっとしておくのがみんなの極意の筈なのに、イルゼの方はそっとしておいてはもらえなかった。
「そうだわ!こんな綺麗な絵をくれたんだもの、お礼がしたいわ。今からレストランにでも行きましょう。美味しいところはどこにあるかって宿のフロント全員に聞いて回ったの」
「レストラン?!」
好意と善意だけしか感じられない明るい笑顔のテレーゼは、目を丸くして固まっているのにも構わず、イルゼの両手を、自身の両手で包んだ。
突然女性の柔らかい手に捕まえられたイルゼは咄嗟に、隣にいるルイスに助けを求めた。
まずなにより、知らない人と食事なんて、何を話していいのか分からない。
絵の話ができるならなんとかなるが、お洒落なワンピースを着た流行にも詳しそうなテレーゼと、理路整然と数学について語ることを好みそうな顔をしているイーリスと同じ食事の席に着いて、絵の話を封じられれば、イルゼはコーンスープでさえ飲み込めるか分からない。
(もう部屋に帰りましょうとか、もう夕食は食べたのでとか気の利いた事言ってよ。ボンボンだけが頼りだよ、頼むよ)
そんなイルゼの心情は手に取るように分かるのか、ルイスはにやりと笑った。
楽しそうな、意地悪な顔をしている。
ルイスは少しだけ優しくはなったが、やっぱりまだイルゼの困った顔や嫌がる顔を見るのを楽しむ節がある。
純粋に、嫌な予感がしたイルゼだった。
「丁度腹がすいてきたところだ。お前もいい働きをしたことだし、お言葉に甘えるとするか」
本当は、困った時にイルゼがルイスの顔を見てくれたのが嬉しくて、頼られたのが特別に思えて、もっと困ってもっとこちらを見ればいいと思ってしまったルイスの発言だったのだが、それを聞いたイルゼの方は裏切られた気分で、ぽんと頭に乗せられたルイスの手に噛み付いてやろうかと考えたのだった。
(ぐうう……こうなったら、テレーゼさんとイーリスさんの相手は全部このボンボンに任せておけばいいか……)
評価やブックマークありがとうございます(*ノωノ)




