町はずれの教会のはなし
それから一週間くらいの間隔を空けて訪ねてきたルイスは、両手にたくさんの漢方薬を抱えていた。東洋のどこかの国の珍しい薬だ。
玄関扉を少しだけ開けたイルゼの隙を見逃さなかったルイスは、また追い返されることを感じ取ったのか挟み込んだ片足で扉をこじ開けた。
危険を感じたイルゼはアトリエに逃げ込んだが、簡単に捕まえられて、その日は苦い薬をたくさん飲まされる羽目になった。
「全部飲んだ!はい、もう帰って。私、今から行くところあるから!ばいばい!」
ぐいぐい、と。両腕に力を籠める。
イルゼは家から追い出そうと、ルイスを全力で玄関扉から押し出していた。
「どこ行くんだ」
玄関の端に手を掛け、非力なイルゼが押してもピクリとも動かないルイスが飄々とした表情でそう聞いた。
「教会!私は忙しいの!」
「……教会?」
「そう、教会!」
全身全霊で押していたはずのルイスの背中が、イルゼの前からぱっと消えた。
支えを失くしたイルゼの体は勢いのまま宙を舞う。
そして重力に従い、そのまま顔面から地面に叩きつけられそうになったところで、ひょいと何かに支えられた。
ルイスの腕が、イルゼの腰をぐるりと捕まえている。
「……俺も行く」
捕らえられた姿勢のままイルゼがルイスを見上げれば、有無を言わせぬ圧倒的な眼差しで見降ろされた。
「わ、わかった……」
コーストサイドの街の外れ、人通りも少なく静かな場所に、その古ぼけた小さな教会はあった。
見るからにボロボロで、周りに咲く小さな花や青々とした優しい緑がなければお化け屋敷のような教会だ。
「こんにちは、ロイさん」
教会の、申し訳程度の小さな庭に立つ細い男性の背中に、イルゼは声を掛けた。
「ああ、イルゼさん。こんにちは」
長いローブで体を隠し深いフードで顔を隠し、明らかに怪しく明確に悪目立ちしている顔の見えないフードのイルゼに向かって、その男は穏やかな微笑を見せた。
優しく笑う男とは対照的に、ルイスの眉間にはしわが寄る。
それはイルゼの声を聞いて振り返った男の顔が、嬉しそうだったからだろうか。
それとも。
ルイスはそのロイと呼ばれた男の顔を見つめている。
鈍い金色の髪を持った細身のロイは白い神官服を身に着け、優しく微笑んでいる。
いつ何時でも朗らかで優しそうな顔は、見るものを安心させる。
筈、なのだが。
ロイは、その柔和な顔にそぐわぬ黒い眼帯で左目を覆っている神官だった。
「後ろの方は?イルゼさんのお友達ですか?」
穏やかな神官は、不躾な視線を送るルイスを前にしても柔和な笑みを崩さない。
「ルイスだ」
問いかけられたイルゼが口を開く前に、一歩前に出たルイスが名乗る。
この教会がフロスト家の領地にあるからなのか、家の名前は伏せることにしたようだった。
「僕はロイと申します」
「聞いている。そこのアホな絵描きからな」
「そうでしたか。イルゼさん、僕のことを話題に出してくださっていたのですね」
「お前の話題が出たわけではない。あいつはこのボロい教会の為に絵を描いているという話をしただけだ」
「なるほど。僕とイルゼさんは、絵を贈り贈られる関係ですからね」
「お前にだけじゃない。あいつは誰にだって、それこそ頼まれなくても絵を描いてやるようなアホだからな」
「そうなんですか?でも、僕には特別に、大きなキャンバスで絵を描くと約束してくれましたよ」
「どうせ哀れな教会の事件でも話して聞かせたんだろう。あいつは泣き落としにも弱いからな」
「へぇ、誰も気にかけてくれなかったようなこんな小さな教会での事件も、ルイスさんはご存じなんですね?
それに、イルゼさんは泣き落としに弱いなんてそんなものではなくて、純粋に優しくて真っすぐなんです。彼女の魅力の一つですね」
「随分知ったような口を聞くが、どうせ話したのは多くて1,2回なんだろう。あいつは引き籠りだからな」
「いいえ、今日で3回お会いしたことになります。それにしてもイルゼさん、引き籠りなのに僕に会いにわざわざ出てきてくださったのですね。ますますお優しい方です」
「絵について話したかったことがあっただけに決まっているだろう。そうでなければあいつは外出しない」
「でも、イルゼさんがここに来たときは、終始絵の話をしているわけでもないのですよ。彫刻の話とか、色相環の話とか、盛り上がりましたよ」
「それも結局絵だろ」
「季節の話とか、天気の話とか、神様の話もしましたよ」
「俺も、それくらいの話はいつもあいつとしている」
何となくトゲトゲしている二人の会話であったが、ニコッと笑ったロイが会話の流れを断ち切り、くるりと背を向けた。
そのまま教会へ向かって歩いていく……
と思ったら、首だけでルイスの方に振り向いた。
「ルイスさん、顔が怖くなっていますよ。ふふ、大丈夫です。僕はイルゼさんの善良な知り合いですよ」
ロイは小さな花の咲く小さな教会の庭で、優しい顔をして笑った。
「ロイさん、言われたところを直して、新しい下絵をいくつか詰めてきたので見てほしいです」
ルイスたちが言いあっている間に、教会の中に入っていたイルゼが外に出てきてロイを呼んだ。
呼ばれたロイは笑顔で応じ、今度こそ教会の中へ入っていく。
木造の教会の中は綺麗にしてあったが、やはりボロボロだった。
祭壇もこじんまりとしたものしかないし、絵画や杯、硝子細工など装飾の類は一切と言っていいほどなかった。
既にフードを取って顔を出しているイルゼは並んだベンチのうちの一つに、描きこまれたスケッチブックと何枚もの絵を広げていて、ロイに意見を求めていた。
「ミスティリオン様は月の神、持続の神、良い便りの神です。月という場所がどういうところか分かりませんが、これは違う気がします。どちらかと言えばこっちに近いような。でも、雰囲気はこっちも近いかもしれません」
「これも、僕の好きな雰囲気です。あ、こちらも。これはこの奥行きが美しいです」
「多分、この色はちょっとキツ過ぎますね。組み合わせとしてはこちらとか、こちらでしょうか」
ロイは一枚づつ丁寧に、イルゼの下絵にコメントを残していく。
「いろいろ意見してしまいましたが、全体的にすごく素敵です。やはりイルゼさんは本当に絵が上手ですね」
優しく笑うロイが仕えるこの小さな教会は、月の神ミスティリオンが祀られている。
ミスティリオンは、小さな神様だ。
街の片隅にある教会も小さく、忘れられてしまったような場所にある。
訪ねてくる人は少なく、祈りをささげる人はもっと少ない。
この世界の教会は、同じ教会という名前で一括りに呼ばれていても、祀っている神様は教会一つ一つで違う。
そして、この世界には神様が無数にいるので、教会も無数に存在する。
神様ごとに派閥があるわけでもないので、神官はどの神様にでも自由に仕えることができるし、人はどの神様にどれだけ祈ってもいい。
昔は海の神と空の神が戦う宗教戦争などというものもあったようだが、今は神様も、神に祈る人間もすっかり大人しくなった。
「あと、ミスティリオンは白い竜になれると言われています。月光のように白い竜です」
「なるほど、なるほど。月光、月光……と。他には何かありませんか」
「好物は葡萄ですね」
「それは前聞いたので、この前葡萄畑に行ってきました。
……うーん、じゃあ、お酒とか飲むんですか?」
「ミスティリオン様はとても物静かな神様なので、どんちゃん騒ぎは好きではないと思います」
「なるほど……」
「お前と同じ引き籠りなんだろうな」
カリカリとメモを取るイルゼとその手元を穏やかな眼差しで見つめるロイの正面、ベンチの背からひょこっと顔を出したのはルイスだ。
「引き籠りの神様なら敬うしかないなあ……信者になるかあ」
適当な冗談には、いい加減な冗談で返事をしておく。
神様はどこまでいっても気ままで気分屋だ。それに毎日願うまでイルゼは忍耐強くないし、信心強くない。
しかし、横にいるロイはぱっと目を輝かせていた。
「それならっ、是非!毎日お祈りに来てください」
「えっ、無理です」
今にもにじり寄ってきそうな気配の神官にビクッとしたイルゼは、猫のように身を縮ませた。
実際問題、神様が願いをかなえてくれるかどうかよりも、毎日外に出ることをしたくないイルゼだった。
速攻で拒否されたロイはそんなあとしょぼんとしていた。
一通り絵についてロイとの打ち合わせを終えたイルゼはすぐにテキパキと画材をまとめ、早く帰って早速絵に取り掛かりたいと言い出した。
本当に、やることなすこと全て絵を中心にして生きている女の子である。
そして、その帰り道。
振り返れば教会ははるか遠くに小さく見える。星が燃えて尽きるような赤い空の中、灰のように揺れながら立っていた。
反対側の空を見れば、藍色に染まり始めた空の向こうにかたまって飛んでいく鳥の影が見える。
コーストサイドの灯台や街に、ぽつりぽつりと明りが灯り始めているのも見える。
フードを深くかぶり、大きな画材カバンを手に下げて横を歩くイルゼに、ルイスはぽつりと尋ねた。
「あの教会に、お前が絵を描いてやることになった経緯はなんだったんだ?」
「あの教会ね、少し前に泥棒に入られたの。値段が付かないような装飾品まで全部盗られちゃったんだって」
「ああ、それは知ってる」
「君は領主さんちのボンボンだもんね、そういう事は私より知ってるか。
えっと、私はその事は知らなかったけど、あの辺り人通りが少ないから、あの教会とか丘とかスケッチしようと思って外に出た時にロイさんに話しかけられて、私の絵が気に入ったって言ってくれて、絵も何もかも盗まれた話も聞いたから、私で良ければ絵を描きたいですって言ったの。それが経緯になるのかな」
「絵、描きたかっただけか」
「自分の絵を教会に飾ってもらえるなんて、喜ばない絵描きはいないよ」
「あのな。それでも人気のないボロい教会とか、胡散臭い顔の男とか見たら用心するくらいのことはしろよ?」
「用心したよ。でも、ロイさんは神様のこと大事にしてそうだったから、最低でも神様の前では悪いことしないだろうなとは思った」
フードの隙間から見えるイルゼの長いまつ毛と白い絹のような頬を見て、ルイスは寂しいような、それでいてどこか納得したような表情を見せた。
案外しっかりしているとでも思ったのか、そんなの根拠にならないと思ったのか、そんな訳が分からない理論さえ彼女らしいとでも思ったのか。
「……あいつに会いに行く時だけは、絶対俺にも声を掛けろ。それから、全体的にもっと用心しろ、この能天気女。いいな」
返事の代わりに、イルゼが画材カバンを前後に大きく揺らす。
その返事をどう受け取ったのか、ルイスはハアと大きなため息をついた。
「あと……俺にも、絵を描いて寄越せ」
「絵?たくさんあげたことあるじゃん」
「みんなスケッチブックの切れ端に描いた落書きだろうが」
「キャンバスに描いてあるのが欲しいの?でも君、時々私の家から勝手に持って帰ったりしてるよね?まあたくさんあるから、何でも好きなのあげるけど」
夕日が染みていく帰り道、頬を桃色に染めたルイスに対して、白い肌のままのイルゼは何気なくルイスを見上げた。
「お、お前が捨てるって言うから拾ってやっただけだろ。俺が盗んでるみたいに言うな!」
「大丈夫、君なら大事にしてくれるって何となく分かってるから」
「まあ……大事にはしているが……
いや。それより今話してるのは、俺に絵を描けって話だ。あの教会の絵が完成するまで待ってやるから、俺に最高のやつを描いて寄越せ」
「いつも最高になるように頑張って描いてるから、まだ欲しいなら家にあるやつから選んでいいよ」
「だから違う。あのな、俺の為に……最初から俺に渡すつもりで、絵を描けって話だろうが……」
ルイスの表情は夕日の陰で良く分からない。
ただ、その声はどこか切実で、どこか甘いような期待を込めた掠れた響きがあった。
「……」
しかし、眉をハの字にしたイルゼは口籠った。
(描いてあげる時間はないだろうな。……私、3ヶ月後には病気で死んで、逃亡する予定なんだもん)
絵を欲しいと言ってくれる人がいるなら、どれだけでも描いてあげたい。
大切にしてくれるなら、いつだって描いてあげたい。
最高の物を、何枚も描いてあげたい。
心の底からそう思うけれど。
長くこの街に居座って公爵に再度見つかってしまうようなことがあったら、もう一生絵など描けない体にされてしまうに違いないのだ。
だから、引き受けてしまった絵だけ全力で仕上げて、すぐに逃げなくてはいけないのだ。
「それと」
煮え切らないイルゼの返事を待ち切れなくなったのか、ルイスが再度口を開いた。
「まだ何かあるの?」
「……なんで、あいつのことは名前で呼んでるんだ。まだ会って3回目なんだろ」
「名前で呼ばなかったらなんて呼ぶの?」
「お前、俺のことはずっと君としか呼ばないだろうが」
「うーん。君のことしか君って呼ばないから、君は名前で呼ばなくても分かるでしょ」
2人は少しだけ人通りがある小道に差し掛かっていた。
小さな小さな小川が海まで伝うように流れ、その上に小さな石造りの橋が架けてある。
樹木に囲まれ隠れるように佇んでいる、春草のにおいのするイルゼの家まであと少しだ。
神様のお名前はめっちゃ架空です。




