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始まりのはなし



「そんなに延命したいならば自分の金で医者へ行くがいい。お前のようなそんな醜い顔で生き永らえたいなどと思う方が図々しいとわしは思うがな。今後金輪際、そのような顔でわしに嫁いで来たいなどとぬかすでないぞ!」


この日、イルゼ・ベルフォードがゴミでも見るような目をしたクラクトン公爵に、氷水を頭から被せられるかの如くそう言われたのには、訳がある。







事の発端は、イルゼが絵の具を買いに街に行ったことだ。


普段引き籠って絵ばかり描いている落ちぶれた男爵家の娘、イルゼは画材を買いに行くときしか外出しない。

月に一度くらい、家から画材屋まで直行し、欲しいものを買ったら直帰する。


しかしその日運の悪いことに、買い物を済ませてたくさんの画材を抱えたイルゼが不注意でぶつかったのが、クラクトン公爵の付き人だった。

屈強な付き人の体に跳ね飛ばされたイルゼは、絵の具の瓶をいくつか歩道にぶちまけた。

大きな音がして道が鮮やかに染まったので、何事かと顔を覗かせてイルゼを発見したのが公爵だった。

大ボスのような出で立ちの男の登場に、イルゼはひいっと声にならない声を上げたが、駆け寄ってきた公爵はイルゼを罵るどころか、イルゼの絵の具だらけの手を取って怪我は無いかと心配し、散った絵の具の後処理を全て請け負ってくれたのだった。

傍から見ればただの善良な貴族だろうが、イルゼはその時何故か、とても嫌なものを感じた。

口はにこやかに笑っているのに、ヌラヌラ頬を撫でるような視線に背筋がぞっとした。

これが野生の勘というものか、とピンと察したイルゼは、公爵へのお礼もそこそこに脱兎のごとく屋敷へ帰ったのだった。


クラクトン公爵は、この国の王家の遠縁にあたる高貴な血筋を持った大貴族だ。

この地域一帯の領主たちの総元締めのような地位にあるのが、彼のクラクトン公爵家だ。

そして公爵は広い土地のことだけでなく、王の政治にも口を挟めるくらいの偉い人だ。


しかし、クラクトン公爵は偉いだけではなく、仄暗い噂が絶えない人物だ。


彼の一番目の妻は、年を重ねて美しさに陰りが見え始めたので、事故を装って公爵に殺された。

続いてすぐに娶られた2番目の妻は、元々婚約者がいたにもかかわらず公爵に言い寄られた。

婚約者がいることを理由に断っても、その婚約者が突然跡形もなく失踪したので、彼女は公爵と結婚するしかなくなった。そしてその彼女は、1年前に病死している。

その他にも公爵は、手練れの暗殺者を何人も飼っているとか、愛人を何人も囲っているとか、如何わしい薬物を輸入するなどの違法行為もしているとか、数々の不穏な噂を纏っていた。



(こんなやつの相手、引き籠りの私にできるとでも?!)


気丈な女性でも絶叫モノの案件なのに、イルゼのような引き籠りに、世の中の欲望を全部掻き集めて煮込んだ公爵のような人物、手に負える訳が無いのだ。


(えらい人に目をつけられてしまった……)


青ざめるイルゼの元には、その出会いの日を境に公爵から手紙が来たり、時々花や高級な絵の具が届くようになった。


普段なら目を輝かせて喜んで使うはずの、素敵な色の高価な絵の具でさえ試してみたいとは思えずに、ただただ嫌な予感しかしなくてイルゼは途方に暮れていた。

溜まっていく気持ちの悪いポエムが書かれた手紙も、どうすればいいか分からなかった。


『イルゼ、貴方は私の花。貴方のような美しい花は、宝石を散りばめた最上級の花瓶に囲って、朝から晩まで愛でてあげましょう。私だけの為に咲いてください。水を与え、愛を注ぎましょう。その美しさを私に見せてくれる限り』


『私なんか引き籠りで、油臭くて埃っぽくて根暗で汚いので、公爵には全く釣り合いません。私ようなオタクのことは忘れてください』


今までは騙し騙しなんとかやり過ごし、観劇に誘われても薔薇の鑑賞に誘われても、体調不良や謎の理由をつけて断っていた。


祈るように時が過ぎるのを待ち、クラクトン公爵が正気に戻るのを待った。

だが公爵のイルゼへの熱が冷めることは無かった。

そして遂に、しびれを切らして何もかもすっ飛ばした公爵は、イルゼに結婚を求めてきた。


結婚が嫌だとは言わせないように、イルゼに圧力をかけることも公爵は忘れてはいない。

今すぐにでも式を挙げられるように結婚式場は押さえたし、ウエディングドレスを作る針子たちの予定も押さえてあると言う。イルゼの為に既にお金をかけたのだから、拒否権はないと言いたげだ。

その上、あからさまに公爵家の権力と武力を示すエピソードまで添えられた手紙は伺いではなくて、もはや脅迫だ。

後ろ盾も何もない、イルゼのような落ちぶれた男爵家の娘には到底断れまいという確信が、公爵の手紙から滲み出ている。


「いやいやいやいや」


イルゼは狭い屋敷の自分のベッドの上で、身を守るように丸くなった。

手紙をびりびりに破いて燃やしてなかったことにして寝たいが、それは流石に思いとどまった。


「無理無理、結婚なんてむり……」


結婚など、ただでさえイルゼとは縁のないものなのに、この強烈な公爵の相手などイルゼには絶対に無理だ。


ちなみにクラクトン公爵、御年59歳。イルゼのことは3番目の妻としてご希望だ。

彼には一番目と二番目の妻との間に子供が4人いる。イルゼより年が上の子供が3人と、イルゼより年下の子供が一人だ。



「ほんと、いろいろむり……」


ぐっと体をベッドから起こす。

起こしてみて、何も良い案が思い浮かばなかったので、また寝ころんだ。寝返りを打つ。

恐ろしく不愉快な言葉が並んだ手紙をポイと投げ捨てて、天井を見た。



(そもそも、公爵が相手じゃなくても結婚なんてしてる暇ない。だって……)


イルゼには、何よりも誰よりもやりたいことがある。


成り上がり男爵家の娘はやっぱり下品だと笑われ、両親にははしたないと怒られてきたが、昔からずっと続けてきたことがある。

いくら最下級でも貴族の娘なのに何故そんな下賤の者が致し方なく生活の為にするようなことをしたがる、と白い目で見られても、端くれでも一応は令嬢のくせにそんなことをするなんて汚い、と言われてもやめる気は無かった。


誰に何と言われようと、誰に咎められようと、これだけは譲れない。

親であろうと、家であろうと、イルゼを止めることはできなかった。


イルゼは、絵を描くことを止められなかった。


ここは貴族が絵を買って楽しむことはあれど、芸術家は皆地位が低い世界だ。

芸術を生み出す者を貴ぶ文化など、貴族達の間にはなかった。

綺麗な絵であれば、買ったその貴族が偉かった。

素晴らしい絵であれば、それを買った貴族が褒められた。

美しい歌も心を打つ演劇も、金を払って見に行ける貴族ばかりが称えられた。

貴族にとって、芸術家の才能はただの消耗品だ。


そんな文化が蔓延っているのがこの世界だが、イルゼは絵を描くことに魅了され続けた。


誰かの日常の片隅を、描いた絵で小さく彩ることができるだけで幸せだ。

描いた絵に高い値が付くことがなくてもいい。

どこか街の小さなレストランの壁に飾られるとか、どこかの屋敷の廊下の隅に飾られるのでもいい。

誰かが時々、その絵の存在を思い出してくれるだけでいい。

思い出して、そういえばと思い出話に花を咲かせてくれたら嬉しい。


小さい頃から、お金持ちになるよりも、どこかの貴族に嫁いで家の名に箔を持たせることよりも、持て囃される綺麗な淑女になるよりも何よりも、一枚でも多く絵を描きたかった。

それがイルゼのしたいことだ。


一人ぼっちの、今のイルゼにとってその夢は、もはや何より大切だ。

それは死んだ家族を恋しがって泣くことより、生きるイルゼを支えてくれた夢だ。


イルゼの両親はイルゼが16歳の時、馬車の事故で亡くなった。イルゼには幼い弟もいたが、彼もその時亡くなった。

その時のイルゼは、絵がもう少しで完成するから行きたくないと駄々をこね、それならもういいと怒った両親に留守番を言いつけられて屋敷に残っていたのだ。


そうしてイルゼは、あっけなくこの世に一人取り残されてしまった。


イルゼの両親は、イルゼが絵ばかり描いていつも絵の具で顔を汚しているので、貴族たちに「やはり成金は品がない」と言われているのを気にしていたし、こんな汚い娘では良い家との縁も望めないのではと憤っていた。

2人は、できるだけ良い家に嫁がせたい娘のイルゼが絵ばかりを描いていることに否定的で、事あるごとに止めようとしてきた。そのことでイルゼと喧嘩になったことは多々あった。


確かに2人はイルゼが望まないであろう結婚を切望していた両親ではあった。

しかしそれでも、強くしつこく説得することはしたが強制だけはせずに、根本のところではイルゼのことを大切にしてくれていた優しい父と母だった。


家を支えてくれていたそんな両親がいなくなって、イルゼの家が没落していくのに時間はかからなかった。

元々は小さな男爵家だ。歴史もなければ、領地も貯えもなかった。

両親が作った商会は小さくなかったが、利益が回収できていない投資も借金もたくさんあって、少ない貯蓄はすぐに無くなった。取締役がいなくなって一気に傾いた商会も、誰かに二束三文で買い取られてしまった。


絵ばかり描いている変な娘が一人残った家からは使用人達も去り、親戚や両親の友人だった人たちも遠のいていった。

友人でもない人が離れていくのを、イルゼは寂しいとも思わなかったし、倹約の為に日々パンだけ齧る生活に転落しても特に悔しいとは思わなかった。


ただ、いなくなった両親と弟のことを思って泣いて、それを紛らわせるようにひたすら絵ばかり描いていた。


みんないなくなって一人ぼっちになって、イルゼにとっていよいよ家も地位も、自らでさえもどうでもよかった。

どうでもよかったが、それでもイルゼは生きていた。

全てどうでもよくなったイルゼをこの世界に引き留めたのは、やっぱりキャンバスと絵の具だった。


白い紙の中には、イルゼが命を吹き込んでくれるのを待っている生物が、まだいるのではないかと思った。

きっと世界のどこかに、描きだしてもらいたくてイルゼを待っている景色が、まだあるのではないかと思った。


絵を描いている時だけ、イルゼの心臓は生きるために全身に血を送る。

最後の最後まで、絵を完成させるためだけにイルゼは息をする。




両親と弟が死んだ事故から2年弱経って、イルゼはもう泣くことは無くなったし、悪い夢を見ることも無くなった。

悲しみとも折り合いをつけて、絵を描ける毎日に満足していたし、慎ましく目立たないように、多くを望まずに生きてきたはずだった。


はずだった……のに、クラクトン公爵から求婚された。

これは、イルゼの毎日を脅かすとんでもない案件だ。


(こんな罰が当たるようなことはしてないはずなのに)


「ツイてないんだなあ……」


家族の事故をきっかけに本格的に引き籠ったイルゼは、時々お風呂に入るのも忘れて絵を描き、油が付いた手で頬をこすって、髪に付いた絵の具が乾いても気が付かないボロボロでヨレヨレの女の子だ。

なりふり構わず絵ばかり描いているので、大体の人はイルゼのことを油っぽくて汚い変な娘だと認識しているし、イルゼ自身もそう信じている。


しかし一たび顔を洗って見てみれば、濃い琥珀色の瞳と桃色の頬、春の花びらのような唇、と道を歩けば人が振り返るような美しい女の子なのだ。

だからフードの中に隠れる顔を偶然見てしまった公爵が、イルゼのことを忘れられなくなってしまったのも無理はないのだった。




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