3.
私が覚えている限りでいちばん古い出来事は、死神がよくわからないものから、私を守ってくれたという記憶だ。
黒いスライムのようなどろどろのぐねぐねの「何か」。
宙に浮かぶ、黒い丸。
人の形をしているけれど、ちょっと違うものもある。
その時の自分には、まだよくわからなくて、死神がとてもつもなく嫌そうな顔をしていたので、あれらはよくないものなんだなと理解した。
そして、そういうものは、たいてい、死神が追い払ってくれた。
蹴り飛ばしたり、殴りつけたり、睨みつけたり。
だから、死神なんて名乗ってはいるけど、私にとっては守り神みたいなものなんだと勝手に理解している。
対して、守護霊は基本的には見守るだけだ。
いつもは穏やかな微笑みを絶やさない、仏様のような顔の守護霊様。
しかし、死神の包囲網から抜け出してきたやつが、私に危害を加えようとすると、鬼のような顔に豹変する。
本当に良くないものが近づいてくると、睨みつけて追い払う。
そして、その圧力を持って、寄せ付けない。そんな感じだ。
正直、とてもこわい。
無関心なやつは別に放っておく。
実害なし。
逆に、友好的なタイプもいる。
そういうものには、彼らは何もしない。
我関せず、と言わんばかりに無視を決め込む。
位というか、優劣の順番、カーストみたいなものがあるらしい。
それは、いつも電車に乗っている。
電車が好きなのか、どこかに行く途中だったのかはわからないが、いつも決まった車両、決まった場所に座っている。
結衣と別れて、帰宅のために電車に乗った。
社会人の帰宅時間にはまだ早い時間帯のため、乗客はそこそこといった感じ。
前から2両目、ドアのすぐ近くの席が、彼の席だ。
浮遊霊の彼は、いつもそこに座っている。
何をするわけでもなく、ただ、ぼーっと外を眺めて過ごしている。
私の姿を見つけると、手を振ってくる。人畜無害の浮遊霊だ。
ただただ、そこにあり続けるだけの幽霊を浮遊霊と、私は分別してる。
「こんにちわ」
何気ない挨拶をすると、すぐに返事を返してくれる。
「こんにちわ。今から帰り?」
「そう。隣に座ってもいい?」
彼女はうなずき、笑顔で答えてくれた。
了解も得、ちょうど空いていた隣の場所へ座る。
死神が私の隣に座り、守護霊は私の前に立ち、吊革につかまっている。
ここだけ乗車率が上がるのは、いつものこと。
でも、誰にも見えない。
他から見たら、大いなる独り言少女になってしまうので、小さな声で話しかける。
「何か思い出した?」
「いや、何も」
「そっか」
彼女は、白いシャツに濃紺のスラックス、茶色の革靴という、いかにも社会人な格好をしている。
背は私と同じくらいで、髪は短く、清潔感にあふれた就活中の女子、といった感じ。生気はないけど。
そんな彼は、自分の名前も目的も行き先も、何もかも分からないのだという。
自縛霊なら、怨念や執念みたいな、何かしらの「念」を持っているものだけど、浮遊霊は違う。
ただ、そこにいるだけ。
何か思い出したら、その瞬間から、自縛霊にシフトチェンジするか、あの世へ行くか、何かしらの変化がある。
でも、彼女には執着するものもなく、目的も分からないのだ。
きっと今日も明日も明後日もそこに居続けるのだろう。
少しかわいそうに思う。
「今日は、パンケーキを食べたよ」
「駅前の新しくできたカフェ?」
「そうそう。よく知ってるね」
「人の噂はよく聞こえてくるんだ」
電車の中でよく聴くということだろう。
あまり、会話は続かない。
お互いに、会話がない方が楽なのかもしれない。
揺れる電車。
独特の駆動音。
流れる景色。
「次、降りる駅だがら」
返事はない。
相変わらず、ぼーっと外を眺めている。
「じゃあ、また明日」
挨拶を交わすこともなく、電車を降りた。
私と入れ替わるように、たくさんの人が乗ってくる。
窓越しに中を見ると、彼女はいなくなっていた。
きっと誰かと重なったのだろう。
普通の人に、幽霊は見えない。
幽霊が座っていようが、関係なしに上に座ってしまう。
力の弱い霊は、生きている人と重なって、見えなくなってしまう。
彼女もその類らしかった。
「あまり仲良くするな」
私の背中に移動した死神が言う。
「なにそれ?やきもち?」
急に背中が寒くなった。
振り向かなくてもわかる。
きっと冷たい目で見下ろしているのだ。
いや、だって、ねぇ。
あの浮遊霊に初めて会ってから今まで、我関せずだったのに、急にそんなこと言われても。
理由が知りたい。
「守護霊様も、死神様の意見に賛成ですか?」
守護霊に聞いてみたけど、答えは教えてくれなかった。