八幡の蝉
しんとした教室には誰もいなかった。
居残りしていた冷たい空気が廊下に流れていくのを感じながら、後ろ手に引き戸の扉を閉めた。
残り一日!
何度も消したようなくすんだ白色が浮かぶ黒板にはそう描かれていた。
教室には安っぽいビニールテープの飾り付けに、両面テープで貼り付けられた風船。壁には絵が得意だという奴が半ば押し付けられるように描かされたポスターが所狭しと貼られていた。
下校時間はとっくに過ぎた筈なのに、順は多少の思い入れもない教室に残っていた。
窓を開け、スナフキンのキーホルダーがついた鞄から煙草を取り出す。鞄を傍らに置き、カーテンに隠れて煙草を吹かしながら自分を呼び出した相手を待っていた。
珍しく一人になった帰りの昇降口で、自分の靴箱の中に入っていた一通の手紙。
少なくとも順よりは綺麗な文字で書かれた手紙に送り主の名は書かれていなかった。
なるほどあいつも手の込んだことをする、と呆れながら指定された一年三組の教室に戻ってきたのだ。
閉めておいた引き戸がガラガラと大げさな音を立てて開く。慌てて煙草の火を消して、携帯灰皿の中にねじ込みミントのガムを二粒口に放り込む。
声をかけられるまでうごくまい、と無視していると、
「栗山くん」
と声がかかった。
「いきなり呼び出して、ごめんね」
手紙の主は、翼ではなかった。
彼女の名は井口京子と言った。
同じクラスの女子、程度に順は認識していたが、酔狂なことに京子は順に恋をしていた。
翼と順の関係を知らない訳ではなかったものの、気持ちを押し殺すこともできないまま意を決して、といったところだった。
「井口、か」
順は驚きを感づかれないように口を一文字に結び、なるべく視線を合わせないようにした。
「うん。私だよ」
「それで、用は」
「わざわざ呼び出したんだよ?栗山くんなら分かるでしょ」
照れ隠しなのか、京子は頬に朱をさして笑みを浮かべた。
「予想が外れたら嫌だから、言わない」
「多分合ってるよ。私はそのつもりだから」
京子はセーラー服の裾を弄りながら、ふー、と息を吐き、強引に順の視線に割り込んだ。
「私ね、栗山くんが好き」
やっぱり、と順は手のひらの違和感を拭った。
「どう?当たってた?」
「うん。当たってた」
良かった、と京子は微笑みながら言った。
「どうして、って顔表情してるね」
「そうかな」
「うん。栗山くん、意外と顔に出るから」
京子は一歩順に寄り、順の顔を覗き込む。
「そうだなぁ、どうして、って言われるとどうしてなんだろうねって返すしかないかな。強いて言うなら、一目惚れかな」
煙草を探し始めた手をポケットに押し込んで、窓枠に背中を預けた。
「惚れられるような要素が、俺にあったんだな」
「ふふっ。自己評価が低いんだね。謙虚は美徳だと思うけど、あまり謙虚過ぎても苦しいだけだよ」
「ごめん、あいにくだけど、俺は自分のことを謙虚だとも自己評価が低いとも思ったことはないよ」
深いため息をつく。京子は曖昧な表情のまま小さく笑った。
「それはごめんなさい。許してね」
手を合わせて首を傾げた。翼は絶対にしないような、女の子らしい仕草だった。
少しの沈黙の後、京子は居心地悪そうに指で髪を弄んだ。
答えを待っていることくらい、順も分かっていた。
「俺も、井口のことは好きだよ」
順の言葉に一瞬明るくなった京子の表情は、少ししてあからさまに曇った。
「でも、それは多分井口が俺に抱いてるようなものじゃないんだと思う」
「……友達として、ってこと?」
頷く。京子は曖昧な笑みを浮かべたまま、小さく口を開いた。
「まあ、栗山くんには翼ちゃんがいるもんね」
「あいつは……」
言い澱んでいると京子は近くの机に腰掛けて、やけくそ混じりになってあれこれ訊き始めた。
「いつから一緒にいるの?」
「……中学から」
「長いんだね。なんか、羨ましい」
「羨ましく思われるものじゃない。離れられない腐れ縁だ」
「なんか、呪いみたいに言うんだね」
「ある意味、呪いみたいなものだ」
「セックスはしたの?」
「してない」
「キスは?」
「してない」
「嘘だ。中学から一緒なのに?」
京子はあからさまに引いた表情を隠そうともしなかった。
順も翼のことは話したくないと言いたげに、手のひらで口を覆った。
「もういいか」
「……行っちゃうんだ」
「翼が待ってる」
「……一応、振られたばっかりなんだからさ。そういうの、結構くるんだよね」
「それは悪かった」
がらっ、と大きな音を立てて開いた扉に驚いて、京子は小さな悲鳴を上げた。
血相を変えて肩で息をする翼がそのままつかつかとこちらに向かってきて、
「順は変態だからやめた方がいいと思うな!」
と言い放ったのだ。
そして唖然とする京子に何か耳打ちすると、京子は何も言わずに去ってしまった。
あからさまに怒った表情の翼は順に詰め寄った。
「何のつもり?」
「何のつもりって」
「どうしてのこのこ手紙なんかに乗せられてるんだって訊いてるの!」
「お前かと思った」
「私はあんな告白しないし!このばか!すけべ!すけこまし!」
罵倒とともに軽い拳が飛んでくる。順は手のひらでガードしながら謝った。
「もう絶対に、私から離れないで」
翼はそう言うと、ぷんぷん怒りながら順の手を引いて教室を出た。
ちょうど、一年前の今日だった。
「そうか、あれからもう一年か」
「あ?」
「順を誑かそうとしたあの子から順を救った日だよ」
ブランコに乗った翼が視界の端で消えたり現れたりする。順は翼の言葉に語弊を感じながら、黙って煙草を吹かしていた。
高台の公園には二人の他に誰もおらず、順の煙草を咎める者は誰もいなかった。
「お前、あの時何て言ったんだ」
言ったら怒るから、と翼は明後日の方を向いた。
翼はブランコを止め、気の抜けた欠伸をした。
「人生、知らない方がいいこともあるよ」
「大方賛成だけど、お前が言うのは気にくわない」
あはは、と軽く流される。
「帰る人が増えてきたね」
言われて眼下の高校を見下ろすと、昇降口から紺色の人波が連なっているのが見えた。
翼は少し移動しようか、と呟いて順を待たずに歩き始めた。
坂を下って裏路地に入る。蝉の音が少しずつ大きくなり、緑が近くなっていくのを感じていた。
溜池の方から流れてくる湿気を帯びた風が吹いて、前を歩く翼の髪を揺らす。翼は鬱陶しそうに髪を払いながらため息をついた。
「伸ばしたは良いものの、この季節はやっぱり鬱陶しいね」
「結べばいい」
「……君にうなじが見られるの、結構恥ずかしいんだよ」
「俺は気にしない」
「私の問題なんだよ?」
「そんなに鬱陶しいなら、いっそのこと切ってしまってもいいんじゃないか」
「……ショートの方が好きなの?」
順は少しの沈黙のあと、今の方が似合ってる、と呟いた。
翼の曖昧な横顔を見て、少しだけ照れくさくなった。
「なんだよ」
「何にも」
路地を抜けると石造りの鳥居が姿を現した。軽く礼をして、鳥居の端を通って歩を進めた。
さっきよりも涼しい、心地よい風が二人の熱を冷ました。
「良かった。誰もいない」
「茶屋は閉まってる」
「座れるならそれでいいさ」
茶屋の前に置かれた竹の長椅子に、一本のスコールを挟んで座った。
翼は一息つくと、おもむろに髪を結び始めた。
「……あんまり見ないでね?」
順の視線を感じたのか、怪訝な顔で言った。
「見るなと言われたら見たくなる」
「変態」
翼は頬を膨らませながらポニーテールを手で払った。
「なんでこんなのがいいんだろうね。私には分からないよ」
「昔の話だろ」
順は居心地悪そうにスコールに口をつけた。
「あいつは今でもただのクラスメイトだ」
「だとしても、今でも順に色目を使ってるのが気にくわない」
「普通に話してるだけじゃないのか」
「でもこの間は順も楽しそうだったじゃないか」
「俺だって四六時中このままな訳じゃない。愛想よくしなきゃいけない時は愛想よくするさ」
「……たまには私にも愛想よくしてよ」
翼は不満そうに口を尖らせた。
「断る」
「……けち」
翼は順のスコールを奪うとごくごくと飲み干した。
けほけほ、とむせる翼の背中をさすりながら、順はあとでもう一本買おうとため息をついた。
空の夕焼けもやがて薄くなり、遠く山の向こうは紫色に染まっていた。
ツクツクボウシの声が辺りで鳴っていた。しかしその姿はどこにもなく、本当にそこにいるのかさえ怪しく思えた。
「それで、明日はどうする?文化祭当日だけど」
順が訊くと、翼はあー、と言いよどんだ。
「明日、ね……うーん、どうしようかな」
「行きたくないのか」
「いや、順と一緒なら行ってもいいんだけど……当番が回ってくるし……えっと」
翼は言い澱んだまま、黙ってしまった。
少しだけ沈黙を挟み、翼は力なく笑った。
「大丈夫だよ、単に行きたくないだけ。我慢するよ」
「我慢するくらいなら行かなくていいんじゃないか」
「淡白だね。そういうの、好きだよ」
翼は自嘲するように曖昧な笑みを浮かべた。
「何かあったのか」
「ふふっ。心配かけちゃった?優しいね」
順の肩を軽く小突いて茶化した。
「……別に押し付けられた訳じゃないから、大丈夫だよ」
順は煙草に火をつけて、静かに吹かした。
上を見上げて、濁った煙をもう一度吐いた。
「もともと普通の高校生活なんか望んでない。お前についていくよ」
「……いいよ、順は行っても」
どうして、と問う前に翼は答えた。
「順を待ってる人がいるじゃないか」
「関係ない」
「酷いな。あんなに順のことを想ってくれてるのにさ」
「そうかもしれないけど、俺にそのつもりはないから」
翼は俯いて緩んでしまった口元を隠す。自分でかけたカマとはいえ、望んだ通りに答えてくれたことは素直に嬉しかった。順はその表情も知らずに煙草の火を消した。
「……悪いね」
「いいんだ」
すっかり小さくなってしまった翼の姿を、順は見ないようにしていた。
漠然とした不安の中で過ごす毎日はどうにも息苦しいものです。僕にも翼のようにどこかに引きずり回してくれるひとがあれば、もう少しいい人生が遅れたのかもしれません。こんな特別な関係を築いた二人の未来はどんな色をしているのでしょうね。僕自身も、書いていて終わりが見えません。ラストが決まってないわけじゃないです。本当です。