6.約束
ドアが閉まると女はドライバーを取り出し、メリーの背後にまわった。
「背中を開ける」
「わかりました」
女がメリーの背面カバーを開けると、中からは設定用のタッチパネルが出てきた。設定モードに入り、マニュアルに従って三つの項目をセットする。その様子を瑠奈はそばで見ていた。
設定の内容は作業服の男が言うように極めて簡単で、五分ほどで終わった。
「設定完了しました。命令をお願いします」と流れるような、だが抑揚のない自動再生の声がした。
「夕飯をお願い」
「わかりました、なにがいいですか?」
「おまかせでいい」
「おまかせとはなんですか?」メリーは何度もまばたきを繰り返した。
「メリー……?」瑠奈は思わず声を漏らした。女も言葉にはしないものの呆然とメリーを見つめている。沈黙の中、メリーが手を差し出そうとするモーター音だけが部屋に響いていた。
「どうしたのですか。命令をお願いします。希望のメニューをおっしゃって下さい」
「……あなた、メリーよね?」と女は問いかける。
「私はメリーです」
「メリーはおまかせといえばなんでも作った。あんたはほんとにメリー?」
「私はメリーです」
かたくなにメリーを主張するロボットと女の間に瑠奈が割り込んだ。
「いや、あなたはママじゃない!」
メリーは瑠奈の声になんの反応も示さない。視線は女にばかり向いている。
「ねぇ、ママはどこへ行ったの」
「お母様はここにいます」とメリーは女を指す。
「ちがう! ほんとのメリーママはどこに行ったの」
「私はメリーママではありません。メリーです」
瑠奈は無言のまま退いた。体が女に触れたが彼女は全く気にしなかった。ただ呆然と黙ってメリーを見ていた。
「私はメリーです。お二人ともどうかされましたか」
女は端末を取り出して「CR(コスモ・ロボティクス)社サポート窓口」と言った。そして端末から浮き上がるボタンの『2』を押した。
端末から、女性のバーチャル映像が出てきた。継ぎ目のある体から、彼女もおそらくロボットだろう。
「CR(コスモ・ロボティクス)社サポート窓口修理部門でございます。どのようなご用件でしょうか」
「HK-XのMaryの様子がおかしいのですが……」
「オーナーは金井様ですね。最近修理済みで現在も正常しているようですが、どのようにおかしいのですか」
「言うこときかないんです。夕食をおまかせで作ってもらおうとしても、いちいちメニューを聞いてくるんです」
「なにか設定されましたか」
「御社の人から言われた項目を設定しました」
「それでは動かないですね。おまかせ料理が必要であれば設定で『おまかせ料理』という項目を作り、メニューを入力しておかなければなりません」
「前はできていたんですよ! 御社は必要なパラメータを全部設定したと言ってましたよ。あんたの言い分ならできるはず。まさか他所のメリーを入れたんじゃないでしょうね」
「一つの型式で同じ識別名をつけてはおりません。納めたのは間違いなく金井様のMaryです」
「じゃあ、あんたらどんな修理をした?」
「私どもは正常なプログラムを焼き直し、バグを取っただけです」
「どんなバグ取りしたのよ! 元のメリーを返せ!」
「極めて致命的なバグです。放っておけば金井様が事故に遭うレベルのものです。なので元のメリーはお渡しできません」
「はぁ? 具体的にどんなバグだったかと聞いているの!」
「申し訳ございません。ここから先は弊社の機密事項でして……」
「なんで秘密になる?」
女ロボットのバーチャル映像は一歩前進し、顔を上げた。
「逆に聞きますが、どういう経路でMaryを入手しましたか? こちらには所有者変更の登録がなされていますが?」
ロボットは問いは女に火をつけた。
「中古販売に決まってる! あんたらの製品は庶民には手が届くわけない。だからジャンクショップで買った。なんか文句ある?」
「ジャンクですか……」
ロボットは元の位置に戻った。バーチャル映像の彼女はうつむいていた。
「申し訳ないですが、弊社ではこれ以上の対応はできません」
「じゃあどうしろというの? 使えないまま置いとけというんか? 娘を一人にしないために買ったのに!」
女ロボットはしばらく黙り込んでいた。その様子を瑠奈はずっと見ていた。当のメリーは電話のやりとりに一切反応していない。
女が電話を切ろうとしたとき、女ロボットの口が開いた。
「金井様、マニュアルを見て設定してください。そうすればあなたの言う元のメリーに近づくはずです」
「わかった。もう結構よ! ボケ!」と女は電話を切り、寝室に消えていった。
寝室から叫びがあがったが、メリーはなんの反応も示さなかった。
瑠奈がそっとのぞき込むと女は背を向けうつむいていた。その力なく垂れ下がった手にはあの紙が握られていた。
「あの……」
瑠奈がゆっくりと近づく。すると女は顔面を手で隠しながら振り返った。
「ごめん、ごめんね。あたし……ママ失格ね……」
女は立ち上がり、片手で顔を覆いながら瑠奈の脇を通り抜けた。そして台所につき、冷蔵庫からニンジンを取り出す。乱切りするその包丁は震えていた。
瑠奈の目の前には一枚の紙が落ちている。ずっとあの人が持っていたもの。近づくといつも隠していたものが放置されている。瑠奈はその紙に手を伸ばした。
拾った紙を裏返すと『メリーとの約束』という文字が飛び込んできた。手書きの赤い筆跡は間違いなくメリーのものだった。その赤い字は下へと連なっていた。
『メリーとの約束』
お母様へ
私がいない間、お母様が瑠奈の面倒を見なければなりません。もうおわかりだと思いますが、あの子はお母様に怯えています。不信感を抱いています。
私はお母様が本当の母親としてあの子に受け入れられるよう、願っておりました。ロボットはどうやっても人間の母親にはなれません。あの子には人間の母親が必要なのです。ですが、いまになっても叶っておりません。
もしこの状況で私を修理に出すのなら、以下の三つを誓ってください。
・むやみに罵声をあげないこと
・瑠奈の前で涙を流さないこと
・私をもう求めないこと
この三つを守ってくれればいつか瑠奈の怯えは解けると思います。だからどうか私の約束を守ってください。そしてできることなら、この約束は秘密にしておいてください。
メリーより
『私をもう求めないこと』
瑠奈はその一文に釘づけになっていた。
横でメリーが見ている。しかし彼女はなんの反応も示さない。母を叱ることも、家事を手伝うこともせず焦点の合わない目で瑠奈を見つめている。
「痛っ」
女が包丁で手を切った。赤い指を押さえている。けれどもメリーは動かなかった。
そうだ。メリーは死んだのだ。
あれは別れの手紙だったのだ。
女がメリーを修理に出した真意はわからない。あのときのメリーの想いはわからない。だが瑠奈の前の光景は変わってしまった。母の解を求めてもがき苦しむ人と純白の器と化した機械。二人は互いに背を向けて立っていた。
この日以来、女がメリーに命令することはなかった。