5.メリー、いない
メリーが連れ去られてから三日間、女は有給休暇を取りずっと家にいた。いままでメリーがやってきた家事が一気に押し寄せる。洗濯は色物と白のシャツを一緒にし、掃除は放ったらかし、料理は毎食焦がした。その度に握り拳で壁を殴ろうとするが、ずっとこらえていた。
「ごめんね、瑠奈。まずいご飯で」
女の声は一転し、綿菓子のように柔らかだった。
しかし食事が終わって瑠奈の視線から外れると、女は自らの手で頭を繰り返し殴っていた。
「クソ野郎、クソ野郎、このポンコツ!」
そして寝室に入るといつも態度は変わり声が漏れる。「メリーがいてくれたら……」と。
だからといって、女を救う人は誰もいない。瑠奈は試験管ベビーで夫はいないのだ。瑠奈はただ女の様子をこっそり見ていた。体を縮め、全身をこわばらせながら、猛獣のごとき彼女を見つめていた。
女の叫びは一日に幾度もあった。そんなとき彼女はいつも泣いていた。一枚の紙を持ちながら泣いていた。折りたたんだ紙を大きく広げ、泣いていた。
いま女はその紙を手元のテーブルに置いている。一日中放置していた皿を軽く拭き、食器洗い器に入れていた。
瑠奈はテーブルに足音を殺して近づき、ゆっくりと紙に手を伸ばす。だが、女は背中を瑠奈に向けたまま紙を取り上げ、ポケットに突っ込んだ。
「あの……それにはなんて書いてあるの?」
「瑠奈には秘密よ」
そう言って女は皿拭きが終わると再び寝室にこもった。瑠奈がこっそりのぞいたとき、彼女はまた泣いていた。このとき、あの紙は持っていなかった。
その翌日も女は休暇を取っていた。それにもかかわらず、瑠奈はお金を渡されスーパーへ卵を買いに行くこととなった。買い物は一般的にロボットの仕事だが、もうメリーはいない。女は一人で行くよう瑠奈に言った。
瑠奈は言われた通り、おつかいに出ることになった。まだ桜も咲かぬ季節、厚めの上着を着て外へ出た。女はまったく見送りをしなかった。玄関のドアが閉まるときには、通販サイトのダンボールを手に持ち、寝室に逃げ込もうとしていた。
太陽が天高くあがりお昼の時間になったころ、瑠奈は帰宅した。
「あの……たまご、買ったよ」と瑠奈は女を探すが出てこない。人がいるような音は一つしかなかった。唯一鳴った音は瑠奈の腹の音だった。
さっそく袋から卵を二つ取り出して殻を割り、フライパンで焼いた。黄身がほんのりピンクになった二つの目玉をフライ返しで半分に割り、皿にのせた。塩を少しかけ、寝室へ持っていった。
「あの~、できたよ」
扉の外から呼びかけるも、返事はない。
「あの~、入るよ」
瑠奈は目玉焼きを手にそっと扉を開けた。
そこには床に座る女の姿があった。しかし近づいても一切反応がない。瑠奈は顔をそっとのぞき込んだ。
「いやぁぁっ!」
瑠奈は叫び退いた。その拍子に床にあった物につまづき転んでしまった。
女の様子は異様だった。頭にはUSBメモリー状の物体が突き刺さり、目は開いたまま眼球が上転していた。叫ぶ声には一切反応せず、半開きの口からはよだれが垂れ、涙と合流し、雫となって顔から落ちていた。
瑠奈は手当たり次第に女の周囲を探しまわった。だが目に入ったのは自分を転ばせた本ばかりだ。
『しあわせな子の育て方』
『必携! かしこいこどもの教育』
『あったか家庭のインテリア』
『栄養満点、標準栄養ブロックに頼らないご飯の作り方』……。
寝室の机の上も本でいっぱいだった。一冊ずつはたき落とし山を崩してゆく。すべての本を落としたとき、ようやく端末が出てきた。瑠奈は充電器からそれを引き抜き、叫んだ。
「でんわ! 119!」
すると端末からブザー音が鳴った。
「音声解析の結果、10歳未満と判断しました。消防への電話は大人にお願いしましょう」
いくら経っても端末は「大人にお願いしましょう」を繰り返すばかりで、つながらなかった。
「でんわ! 119!」
「119!」
「119!」
叫び続けたが電話はつながらない。瑠奈は端末を握りしめ、寝室のドアに向かって駆け出した。ノブを握って体当たりで扉を開けた瞬間、彼女の腕をなにかが捕らえた。
「瑠奈!」
それは女の声だった。背後からしがみつき、駆け出す瑠奈を転ばせた。その勢いで端末は手から離れスッと滑っていった。
「瑠奈、ごめん。心配かけてごめん!」
女はそう言いながら、ぎゅっと抱きしめ背中をさすった。その目は赤く、二筋の水滴はとどまるところをしらなかった。頭に突き刺さるあの物体はいつの間にか消えていた。
「もう、はなして!」
女が腕の力をゆるめると瑠奈はそれを振り払い、リビングの勉強机に戻った。置かれた問題集にはメリーの赤い筆跡が残っている。それとメリーの写真も。瑠奈はそれらをずっと見ていた。女はそんな彼女に触れることもできず、ずっと寝室から眺めるだけだった。
二人はほぼ無言で動くことさえしなかった。冷めた目玉焼きに手をつけることなく、ただ時だけが過ぎていった。
夕方、わずかに差し込む西日が朱くなったころだった。突如インターホンが鳴った。
女は慌てて投げ捨てられた端末を取る。スピーカーを起動すると声が聞こえた。
「CR(コスモ・ロボティクス)サポートです。メリーの返却にまいりました」
その声に女は嬉々としながら狭い廊下を走る。瑠奈も同じように玄関に向かい、後ろからそっとのぞいた。ドアを開けると作業服の男がいた。その隣に花柄のエプロンを着けたメリーの姿があった。
「メリー!」
女の呼びかけにメリーは作業員のそばを離れ、金井家に帰ってきた。体は純白の光沢を帯び、まるで新品のようだった。
「お母様、長らくおまたせしました。これからもよろしくお願いします」
メリーの言葉は以前のぶつ切れではなく水流のように滑らかだった。その声に女は目を輝かせていた。
「ご満足いただけたようですね」
「はい! ありがとうございます」
男は女に冊子を渡した。厚みは国語辞典ほどあった。
「メリーは修理で完全に治りました。全機能ばっちり正常動作しています。ですが……」
「なんでしょう?」
「いくつか設定が必要です。受け入れ時のデータはすべて再インストールしましたが、ソフトのバージョンアップで設定項目が増えておりますので、マニュアルをご覧になって必要項目の設定をお願いします」
「こんなに設定が必要なんですか」
「いいえ、必要なのは最初のページの三項目だけです。残りは金井様がよほど高機能を求めている場合の設定です。一般家庭にはまったく必要ないはずです」
「そうですか。わかりました、設定しておきます」
「では、よろしくお願いします」
玄関のドアがゆっくりと閉じられる。男は脱帽して礼をした。その顔は妙な笑みを浮かべていた。なにかを秘めたカラスのような笑みだった。