3.『R.U.R.』
今日は雨だ、外では遊べない。瑠奈は家の中で問題集と格闘している。
結局、瑠奈は学習室には行っていない。事前手術は無料、途中参加も自由で何の制約もない。教育費も国やCR社を中心とした大企業から拠出され、無料で通学できるのにかかわらず……。
現代は学ぶことが多い。子供たちは最先端の科学技術を理解するため、莫大な知識を持たなければならない。教育は前倒しされ、21世紀初頭の学校教育で四年かけていたものは一年で習得しなければならない。ついてこれない者は捨てられる。捨てられた者に就職先はない。だから普通の親は子供を学習室に入れ、少しでも下駄をはかせるのだ。
だがメリーは瑠奈を学習室に行かせなかった。脳のケーブル接続ポートやメモリーチップを使う教育を是としなかったためだ。学習室にいけば、努力せずとも大量の知識を焼き付けることができる。同時にコンピューターへとアウトプットする訓練も受けられる。しかし、メリーは許さなかった。思考による創造が人間の証明であると。コンピューターへリンクしても、得られないものにこそ価値があるのだと。だから瑠奈は遊べる代償に、頭を抱えながら答案をまとめ、その成果を焼き付けていた。
ドアの開く音がした。
「ただいま」
女の声だった。瑠奈は問題集をもって机の陰に避難する。メリーは玄関へ向かった。
「お帰りなさい。お母様」
「ただいま。瑠奈はいる?」
メリーはそっと瑠奈のいる机の陰を指さした。その瞬間、瑠奈は顔を引っ込めた。
「瑠奈、こっちにおいで。来てくれたら、怒らないから」
女はなにかを取り出し、微笑みかける。
「今日は、瑠奈にプレゼントを買ってきたの、いい子だからこっちにきて」
いつもの金井家とは違い、穏やかな空気が流れている。メリーが見つめるなか、瑠奈は近づいていく。のけぞりながら、ゆっくりと。
「瑠奈、ママのところまでいって、お願いだから」
「あれは、ママじゃない!」
瑠奈はメリーの言葉をはねつけた。でも『あれ』呼ばわりされた女はなにも言わない。ただ黙って瑠奈を受けとめようと両手を広げていた。
しかし、瑠奈は本当の母のもとへは行かなかった。メリーの背後に隠れてしまった。その姿を見て、女は小刻みに震えている。拳に力を入れ、瑠奈に駆け寄った。その様子をメリーは止めなかった。
瑠奈は怯えた表情だったが、逃げなかった。逃げられなかった。まっすぐ女の目を見つめている。そんな瑠奈にあるものを渡した。それは拳ではない。プレゼント、一冊の分厚い本だった。
「これを読み切れば、学習室には行かなくていい。小学校に入学するまでは遊ばせてあげる」
瑠奈の表情は緩んだ。それほどまでに彼女も学習室を拒んでいた。女の誘惑に負け、本を受け取った。それはカレル・チャペックの『R.U.R.』だった。
翌日、瑠奈はメリーと遊ぶことなく本に魅入っていた。初等教育を受ける前の子供には難しい言葉が並んでいる。だが、決して読みにくい代物ではなかった。『R.U.R.』は戯曲。小説と違って、セリフとト書きしかない。メリーの協力さえあれば、ページを進めることができた。
労働者としてのロボット、ロボットへの懐疑姿勢、いつしか訪れるロボットたちの自立と反乱。心を宿したロボットたちはいずれ人間に牙をむき、暴力的な反乱によって一人を残し、皆殺しにした。本の世界ではロボットは絶対的に悪の存在だった。物語は絶望とともに幕を閉じ、その後は空白が広がっていた。
瑠奈が問う。
「ねぇ、ママは乱暴したりしないの」
「どうして、そんなこと、聞くの?」
「だって、あの人はさんざんママをはたらかせているよ。この話みたいになっちゃうの?」
メリーは首をゆっくり横に振った。
「大丈夫、私は、彼らのように、なりません」
メリーは首を傾げだした。
「どうしたの?」
「いや、なんでもありません。私を嫌いに、ならなくて、よかったです」
そう言って、彼女は掃除機のスイッチを入れた。
瑠奈は呆然としていた。両手に本を持ち、絶望のページを開きながら立ちつくしていた。女はどうしてこのような物語を与えたのか。どうして学習室通いを免除したのか。そしてメリーのあの回答……。彼女は秘められた考えを理解することができなかった。
ドアが開く音がした。女が帰ってきた。
女は帰るなり最後のページを開く瑠奈の姿を見て、綿菓子のような柔らかい声で言った。
「よく頑張ったね。これでメリーがどういう物か、わかったよね」
瑠奈は小さくうなずく。だが、その目は不信に満ちていた。
二人の背後から足音が聞こえてきた。ゆっくりと重い足音だ。彼女の手には束になった紙が握られている。それを女の前に突きつけた。
「お母様、これは、いったい、なんですか?」
メリーの声は鋭く尖っていた。家政婦ロボットが主人に向けてはならない声だ。メリーの口調に瑠奈も女も微動だにしなかった。メリーは女に向かって紙の束を投げつける。ひらひらと舞う紙の束。そのうちの一枚には大きく『第三幕』と記されていた。
瑠奈はばらまかれた紙を拾い集める。すると、女は彼女の腕を裂けそうなほど強く引っ張った。
「いたい!」
「やめて欲しかったらママの言うことを聞きなさい」
「あんたはママじゃない!」
女は言葉が出なかった。瑠奈の腕を放し、ばらまかれた紙を我先にと回収した。
「お母様、もう隠すのは、やめて下さい!」
女はそれでも紙を拾い続ける。声にならぬ声をあげながら、すべての紙を集めた。
「お母様、瑠奈に、渡して下さい」
女は首を横に振る。紙を抱きしめ、離さない。
「お母様、この本は、瑠奈の勉強のため、買ったと、おっしゃりました」
「そうよ、だけど……」
「第三幕は、都合が悪かった。違いますか?」
女は黙っている。
「ロボットはいずれ反乱し、主従関係を逆転させ、人間を脅かす存在だと吹き込みたかった。私の存在を否定したかった。違いますか?」
メリーの言葉に女は叫びをあげた。その声は正体を暴かれた悪魔のようだった。泣きじゃくり、贖罪のように紙を離す。そして、彼女は外へ向かって逃げていった。
「待って!」とメリーは訴えたが、もはや女は聞く耳を持たなかった。
瑠奈は紙の束を拾い集めて読んだ。メリーはそっと瑠奈に寄り添った。
女が捨てた第三幕には、男女のロボットの愛が描かれている。ロボットの心と愛の存在を提唱していたのだ。女はそれを捨てていた。メリーはゴミ箱の中からそれを拾った。
処分しようと思えばできたはずだ。公園のゴミ箱に捨てることもできたし、河原にポイ捨てすることもできた。隠すならそちらの方が確実だ。なのに、女は安直にもメリーが見る可能性のあるゴミ箱に捨てた。
女の本心はわからない。メリーは瑠奈と一緒に、心と愛を持つロボットの物語に浸っていた。
***
そのころ女は公園にいた。雨で全身を濡らし、涙が残る顔で錆びたブランコを揺らしている。大きく体が揺れる中、女は端末を取り出した。
「お電話ありがとうございます。こちらはCR(コスモ・ロボティクス)社サポート窓口でございます。ロボットの使用方法のご相談は1を、修理のご相談は2を、廃棄のご相談は3を、その他のご相談は4を押して下さい」
ブランコが揺れている。何も操作しない端末からは同じ音声が流れ続けている。女はブランコを降り、端末から浮かび上がったタッチパネルのボタンを押した。
電話が窓口に転送されるまで、ブランコの揺れは止まらない。