フォー・ザ・グレル
目を覚ますと、側頭部に柔らかい感触がある。もう日が昇っており、オークション会場から伸びる林道の上に青空が広がっている。中々はっきりと目が開かない。何度か眠りそうになりながらも起き上がる。腰をひねって関節が鳴る音を聞く。振り返ってあの感触の正体を確かめる。ドレスを着た女が壁に寄りかかって寝ている。俺は彼女に膝枕をされていたのだ。彼女の太腿から目が離せず、頬が熱くなってくる。
彼女の腰を足で小突く。彼女は起きない。片側の頬をつねってみる。彼女は起きない。つねる力を少しだけ強くしてみる。彼女は起きない。両の頬をつねってみる。彼女はおきない。仕方がないので、背負って帰ることにする。俺の体は彼女に比べてずっと小さいので、たびたび転んでしまいそうになる。柔らかな胸が背中に当たるのを感じ、ただでさえ腰を折って歩いているのが余計に前かがみになってしまう。
林道を抜けて<林檎の町>に入り、北の門から東の門へと進んでいく。道行く人々が俺のほうを見ているなか、東の門の近くにある小屋に入る。小屋は二階建てになっており、一階には客に応対するための長机とソファ、仕事用のデスクが置かれている。入ってすぐの所には来客用のトイレがある。あとは客に出すお茶やお菓子が入っている棚がある程度だ。ソファに彼女を横たえると、俺は二階に上がる。
二階には居間、キッチン、私用のトイレ、風呂、俺の個室と女どもの共同部屋がある。居間で少女がコンピューターを弄っている。遠目に確認してみると、何かを検索していることが分かる。俺はこっそりと近づき、少女の耳元で声をかける。
「もし」
少女が声にならない声をあげて椅子から転げ落ちる。腰に手を当てながら起き上がる。涙目で俺に怒鳴りかかる。
「もう! こんな子供みたいなことしないでください!」
俺は笑って言う。
「そりゃまあ、子供だし」
当然の返答に、少女は声を詰まらせる。俺から視線を逸らして椅子を立て直し、再びコンピューターを弄り始める。俺は少女に聞く。
「で、死ぬのに良い場所は見つかったのか?」
少女が答える。
「幾つか良い場所がありましたよ。あなた以外には入れなさそうなとても危険な場所です」
少女がコンピューターの画面をこちらに向ける。提案された場所を見てみる。少女が画面を下にずらしていく度に俺の顔は青ざめていく。俺は少女に言う。
「どれも今の俺じゃ厳しいな」
一呼吸置いて次の言葉を繋げる。
「魔具もこいつしかないし」
少女は溜め息を吐いてうな垂れる。少女の肩を叩いて二階を後にする。
一階に降りると、女が上半身を起こして静止している。彼女は目を開け、目を閉じ、目を開ける。そして目を閉じ、再びソファに寝転ぶ。俺は彼女に薄い毛布をかけてやる。彼女の寝息がはっきりと聞こえる。家の前の通りにはもう人は殆どいない。日が落ちてきて、ドアに付いている窓から日の光が伸びてきて彼女の顔を照らす。俺はただ彼女の金髪を、長い睫毛を、薄い唇を見る。そして日が沈んで日の光が消える。
俺は家の明かりをつける。彼女が目を覚ます。上半身を起こして伸びをする。腋が見えて、視線を窓越しに見える街頭に移す。再び彼女のほうを見る。彼女はまだ伸びをしていて、まだ腋が見えていて、更に緩んだドレスから胸が見えそうになっている。再び視線を街頭に移す。彼女が俺に話しかけてくる。
「おはよう」
一呼吸置いて言葉を繋げる。
「いや、おそようかしら?」
俺は彼女に言う。
「下らないこと言ってないで、さっさと着替えろ。ずっとその格好だったんだろ」
彼女が答える。
「確かに、ちょっと汗臭いかしらね。シャワー浴びてくるわ」
彼女は二階に上がる。少女と話す声が聞こえてくる。俺も後を追って二階に上がり、食卓に着く。ポケットに入れていたデバイスを起動する。人工知能が滑らかな発音で俺に語りかけてくる。
「おはようございます!」
一呼吸置いて言葉を繋げる。
「いや、おそようですかね?」
俺は溜め息を一つついて、言う。
「どいつもこいつも……」
首を振って言葉を繋げる。
「適当に三人分、夕食を作ってくれ。あいつがシャワー浴びてるからそんなに急がなくていい」
デバイスの画面ににっこりマークが映る。キッチンの方から微かな機械音と、流行りのジャズが流れてくる。少女がそれに合わせて鼻歌を歌う。つられて俺と人工知能も鼻歌を歌い始める。暫くして、女が風呂場から出てくる。鼻歌を歌いながらだ。そしてみんなでキッチンから完成した料理を運んで食卓に着く。
俺が音頭をとって、みんなで食前の挨拶をする。名前の覚えられない数種のスパイスと共に焼いた鶏肉と、区別のつかない色々な葉物のサラダ、じゃがいものスープ、それから俺はパン、少女は白米を食べ始める。まず女の言葉から会話が始まる。
「この家は買ったの?」
俺が答える。
「正確には借りた、だな。ここに留まるつもりはない」
一度言葉を切って、ある話題を切り出す。
「俺が弱体化した以上、拠点を狙ってくるものどもを迎撃することは不可能だ。そうなると一つの場所に留まって恨みを買った相手に攻撃される様な真似はできない。そしてそれ以上に避けたいのは本名を使って警官に俺の生存を悟られることだ」
女の顔つきが変わる。少女が口に物を入れながら話す。
「じゃあ偽名を考えなきゃですね」
俺と女の二人は少女を睨む。少女は口に入れていた物を呑み込んでから俺達に頭を下げる。女が少女の頭を撫でる。俺は少女の提案に答える。
「場所を移すときに、家と一緒に名前も捨てるべきだろう。でなければ住処を移す意味が無いからな。偽名は幾つも用意するべきだ。そして、混乱が無いように俺達同士は何か、そう、コードネームなんかで呼び合うべきだろう。それはまあ、各自考えておいてくれ」
二人は俺の言葉に頷き、デバイスにはニッコリマークが映る。俺はスープを飲み切ってから次の話題を切り出す。
「これからは盗賊なんて真似はできないからな、ご近所さんのお悩みを解決して生計を立てるぞ。いわゆる何でも屋? ギルド?」
少女が僅かに笑いながら言う。
「話のスケールが小さくなりましたね……」
女が大きく口を歪ませながらその言葉に答える。
「スケールが小さくなった? とんでもないわ。悪名が絶えたのをきっかけに大きく動き出すのよ。そうでしょ?」
女の言葉に、俺は笑顔と肯定の言葉で答える。
「ああ。そしてそのためのギルドにも偽者の名前と、コードネームを付けなきゃならない。偽名は後で考えるとして、コードネームはもう考えてあるんだ」
二人が目線で次の言葉を促す。俺は全ての料理を食べ終えて口を開く。
「ギルドのコードネーム、いや、正式名称は偉大なるちっぽけなものの為に。略してフォー・ザ・グレルだ」
ルビが括弧の中は十文字までだと気付けない悲劇