大玉ころがし
T県にこの春、転勤してきたばかりの会社員。いわゆる単身赴任だ。
全国的な大企業だから、色々なところを転勤することになるかもしれないという事情は、結婚前からとっくに話してあった。
「あなたと一緒なら、どこへだってついて行くわ!」
うっとりした表情でそう言った、式目前の妻。あの彼女はどこへ行ってしまったのか。
その言葉を持ち出すと、妻は露骨にうんざりした顔で「十年も前のこと持ち出すんじゃないわよ、男らしくないわね!」と罵った。次いで小学2年の息子を盾に引っ越したくない理由を作り始めた。友達と離ればなれになって……だの、ありきたりなやつだ。実際には、明らかに息子より妻自身が転居を嫌がっていた。
単身赴任か家族ごと引っ越すかは後で決めるにせよ、とにかく転勤自体は確定事項なのだ。私はこの地に2日間の引継ぎ出張に来ていた。1日目が終わった後、私は小さなビジネスホテルで、仕事帰りにコンビニで仕入れた缶ビールを飲んでいた。そして、いつの間にか寝てしまった。
目が覚めると、夜中の2時半頃だった。
最後に時計を見た記憶は10時前だから、今すぐには眠れそうにない。
またコンビニにでも行くか。適当な文庫本でも買って、横になって読んでいればそのうち眠れるだろう、そう思ってホテルを出た。
ホテルの前にはそこそこ広い道路が通っているのだが、違和感を覚えるほど静かだった。
両側が田んぼだというならともかく、市街地で駅もすぐ近くだというのに、車が全く通らない。東京では考えられない光景だ。
ホテルから数区画離れたコンビニで、眠るためにあえて関心のない本を買って帰る。ビジネスに役立つ戦国武将の名言集、とかそんなやつだ。本当に興味のある本を読み始めて、寝不足になっては仕事に差し支えると判断した。
ところが、ホテルに戻る途中で妙なものを見た。
玉がこちらに転がってくる。
小学校の運動会でよくある、大玉ころがしに使うくらいのやつだ。直径は1メートル半くらい。それが、人が歩くくらいのペースで、ゆっくりと歩道を転がっている。
だが、あんな色のがあるのか?
赤でも白でもなかった。街灯の光の色の具合をどう勘定に入れて考えても、その大玉は肌色だった。
奇妙だ、というだけで逃げるのも抵抗があったし、すれ違える程度には歩道は広かった。できるだけ平静な風を装ってそのまま歩き続ける。すれ違うと、やはり小学3~4年生くらいの男の子が転がしていた。
夜中の3時にである。
男の子は私にはまったく関心を示さず、玉を転がし続ける。
数十秒後、好奇心に負けた私は、その玉の後をつけはじめた。
男の子はこちらを振り返るそぶりもなく、同じペースで玉を転がし続ける。
20分くらい歩いただろうか。大玉と男の子は、小学校の前についていた。
そして男の子が大玉を門にぶつけると、キイッ、と音がして門は開いた。彼は玉ごと、学校の中に入って行った。
なぜ鍵がかかってない? あの子は生徒なのか?
なにより、あの子は何のために、何をしているんだ?
しかし、いくら奇妙に感じたとしても、夜中の小学校に忍び込むわけにはいかなかった。
今時そんなことをすれば逮捕されてもおかしくはない。
しばらく迷ったが、帰ることにした。
信号待ちの間に、やはり気になって学校を見ていると、小学校の正門からあの少年が出てきていた。大玉は中に置いてきたらしい。
そのとき、校舎の窓が一斉に開いた。
すべての窓から、子供たちが満面の笑みで彼に手を振っていた。
なので私は単身赴任を選択した。
もしも妻子と社宅に入居していたら、息子がその学校に通うことになっていたから。