軌道(後編)
シオリさんは述懐してくれた。
その言葉を聞いたとき、彼女自身がどんな顔をしていたのかは分からない。ただ、S君が自分を見つめる表情が、みるみる不安げになってきたことは覚えていると。
それを見てシオリさんは、自分がどんなに怯えた情けない様子を下級生に見せているのか悟ったのだが、どうしようもなかった。強気そうな顔でS君を勇気づけるなど、とうてい無理な話だった。
鳥や風の音が戻って来たなんて、それこそ願望でしかなかったのだ。
最初から静かだったと自分に言い聞かせてきたのに、それがS君の悪意のない一言で、自分の不用意な「こわかった?」の質問が招いた言葉で、木端微塵に砕かれた。聞かなければ良かったのに。こわかったに決まってる相手に向かって「怖がってる子を慰める側」に無理に立とうとして、自分が恐怖で追いつめられる側になってしまった。
足が震えていた。
「どうしたの」
S君は自分の一言がなぜシオリさんを固まらせたのか分からなかったらしい。まあ当たり前である。
「行こうよ」
そうだ。
はやく行かないと見つかる。見つかったら……叱られるとか殴られるという話では済まないのだ。
シオリさんは泣きそうになりながら、恐怖を恐怖で圧し殺し、がくがくする足を進めた。
不思議そうに、だが黙々と一緒に歩くS君。
せめて会話があれば少しは気も紛れるのにと思うのだが、シオリさんにそんな余力はない。足をなんとか前に出すだけで精一杯で、しゃべる余力がない。
せめてS君が何か話しかけてくれれば。だがS君は他の子の悪口を言う時以外、もともと無口な子だった。
ジャリ、ジャリ、ジャリ……。
河原を歩く自分達の足音だけが、気を紛らわせてくれる唯一の音だった。
走り出したかったが、そこまでの元気はなかった。
ジャリジャリ、ジャリジャリ、ジャリジャリ、ジャリジャリジャリジャリ、ジャリジャリジャリジャリ……。
?
足跡の感覚が短い?
手を繋いで一歩後ろから来るS君の足音が、早くなっていた。
自分は足を速めていない。それに同じ速度でついてきているだけのS君の足が、速くなるわけないのだ。
怖くなって立ち止まった。ザッ。S君も足を止める。
すぐに、ジャッジャッという音を最後に、足音も止まった。
ばっとシオリさんは振り返った。
誰もいない。S君が驚いたように自分を見上げているだけだった。
今のジャッジャッはなんだ。
自分とS君が止まった後に、まだ聞こえた足音はなんだ。
嘘だ、こんなのないと思いながら、半分目をつぶって歩き出した。
ジャジャッ、ジャジャッ、ジャジャッ。
間違いない、自分達以外の誰かの足音がついてきている。
もう一度振り返ったが同じだった。
歩き出すと、また自分達以外の足音が聞こえ始める。
「どうしたの、シオリちゃん」
S君の問いに答える余裕はない。
ジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリ……
増えている。
後ろの足音の数がどんどん増えていく。
生徒数十数人の学校で行われる、どんな行事での足音よりも多い。数十人はいる。
もう振り返れなかった。
小走りになって、ついに走り出した。S君の手もほどいてしまった。
だが、河原の足場が悪くてシオリさんが思うように走れなかったためか、S君はなんとか追い付いてきていた。
S君が待って、とか、どうしたのとか後ろから聞いてくる。が、もう逃げるのに必死だった。
それでも、どんなに走ろうとしても、速くならない。不安定な石の多い河原のせいばかりではなかった。なんというか足がまるで水の中を進んでいるみたいにうまく走れない。
泣きそうになりながらシオリさんは必死で逃げた。
そしてようやく、「めん場」の境が見えてきた。
そして石碑の横を抜けた時、シオリさんは凄い勢いで転んだ。
今まで走るのを邪魔していた水みたいな抵抗力が、ふっと消えてなくなったらしい。それで転んだのだ。足音もその途端消えた。
「シオリちゃん! 待ってえ!」
ほどなく追い付いてきたS君が、倒れているシオリさんを覗きこんだ。
シオリさんは立ち上がり、つい後ろを見た。たぶん、後ろからきたS君に返事しようとしたんだと思いますと、今シオリさんは言う。
めん場の中を見てしまった。
石碑の向こうには、大勢の知らない男たちがいた。
年齢は年寄りから比較的若い大人までまちまちだが、子どもはいなかったという。
彼らは縦一列に並び、まるで小さい子が紐のないときにする電車ごっこのように、両手で前の男の肩を掴んでいた。
奇怪な「電車ごっこ」の行列は、前の男の肩を掴んだままという態勢だけは崩さないまま、シオリさんたちに対して横向きになって止まった。
河原の幅だけである。最後尾はまだ上流に向かって延々と続いている。
夕方のオレンジ色の光の中、彼らは全員、こちらに顔を向け満面の笑みを浮かべていた。
ザッザッザッザッザッザ……
電車ごっこは、その隊列を崩さないまま、再び一列に河原を帰って行った。
呆然と立ち尽くしていたのはどのくらいだったろう。
S君に手を引っ張られて我に返ったときはまだ完全には暗くなっていなかったから、それほどの時間ではないはずだという。
でも、S君に促されるまま帰ろうと足を踏み出して、靴の中が雨の日に歩いたようにぶよぶよと濡れているのに気付いた。
失禁を自覚したのはその時だったという。
誰もいない学校までふたりで戻った。
S君にはあの男たちが見えなかったし、大勢の足音も聞かなかったそうだ。
シオリさんは漏らしたおしっこを洗いながら、S君に約束させた。
シオリさんがめん場に助けに入ったことを誰にも言わないこと。S君が自力でめん場から帰ってきたことにすること。
シオリさんが一度S君を助けに向かったことは他の子にも知られている。その部分は、シオリさんが石碑の前まで来たところで自分で戻って来たS君に会ったという話を作った。
誰に聞かれても、家族にも絶対にそうとしか言わない事。
二人は協定を結んだ。
その虚構を使うことになったのは、半年が経ってからだった。
その晩、Oの父親がシオリさんの玄関を蹴破らんばかりに怒鳴り込んできたのだ。
Oの父は家の中に乱入し、娘出てこいと喚き散らした。
居間で立ち竦んでいるシオリさんを見つけると、いきなり胸倉を掴んで引っ張って行こうとし、シオリさんの父と祖父に引きはがされた。
「テメエらの娘があ! めん場に入ったあああ!」
Oの家で赤ちゃんが生まれたのである。彼がずっと楽しみにしていた弟か妹が。
OがS君をめん場で暴行した日、Oのお母さんはすでに妊娠していたのだ。といってもOがそれを知ったのはそれから暫くしてからだったらしいが。
その子は――女の子だったが――左手の指をしゃぶりながら生まれてきた。
一向に産声をあげず、手を口から離さないのを不審に思った産婆がよく見ると、手をしゃぶっているのではなかった。
舌と左手が接着していた「ワゴ」だったのだ。完全に口が塞がれており、自力での息はほぼできなかったそうだ。新生児では意図して鼻だけで息をすることなどできなかっただろう。へその緒から酸素の供給が無くなった直後、赤ん坊は窒息死したようだ。
Oはその時になって、あの日のことを思い出したらしい。
大声で泣きじゃくりながら、めん場に入ったのはシオリさんに違いないと訴えたそうだ。
シオリさんは度胸を決めた。自分は入っていないと言い張った。
「知らないよ! 私は入ったことない! なに言ってるの!?」
Oの家族はS君に確認を取った。
もし彼が喋ったらと気が気でなかったが、S君は協定通り、シオリさんはめん場の中に来なかったと証言した。
シオリさんの家族はOを家に呼ばせ、なぜシオリさんだと思うのか問い質した。
Oはあの日のことを話そうとしたが、田舎の大人から見てもあれは酷い悪さであった。自分がS君にしたことをありのままに言うのはまずいと、子供ながらに思ったのだろう。そこでOは一部嘘をついたのである。OはS君とただ喧嘩をしただけで、S君が勝手に山中に逃げて行ったのだと。それを追いかけてシオリさんがめん場に入ったと、そう言ったのだ。
この嘘がシオリさん達に幸いした。
「そんなことで私が入ることないじゃない! あんた見たの!?」
咄嗟にそう言った。
傍から聞いても、単にS君が喧嘩から逃げて行っただけなら、シオリさんが掟を破ってまで追いかけていく必要はない。Oの言う事はつじつまが合わなくなった。
ここでOが嘘を撤回すれば、まだOはシオリさんを告発して「妹の仇」を取れたかもしれなかった。だがOは保身を優先した。
タブーを犯した女性が誰かは、結局藪の中になった。Oの主張はただの思い込みで、外部の者かも知れないということが表向きの結論にはなった。
Oはその週はまるごと学校に来なかった。
来たのは次の月曜日である。
朝の9時半ごろにもなって教室のドアをガラリと開けたOを、みんな一斉に見た。
Oはみんなの顔をじろじろ見て、S君と目があった。
「ウワアアーーーー!!」
絶叫してOはいきなりS君に殴りかかった。
教師に捕まえられるとOは暴れながら「笑った!こいつ笑った!」と泣き叫んだ。
「笑ってないよ、あたし見たもん!」
思わず言ったがそれは嘘だった。本当は見ていない。
「S、本当か?」
先生に問われたSはいったんシオリさんの顔色を見て、こっくりと頷いた。
「笑ってません」
証人が現れてOは不利になった。
それでも絶対笑ったと目に涙を浮かべて叫ぶOに、シオリさんは畳みかけた。
「あんたこないだも嘘ついたでしょ! 私がめん場に入ったなんて酷い嘘を! 」
シオリさんは先日Oの親が怒鳴り込んできたことを利用し、「Oは嘘つき」という印象を周囲に与えることに努めた。先生に対しても、被害者ぶって積極的にその話をした。
「こないだ、Oのお父さんが家に怒鳴り込んできたんです。私、入ったことなんてないし、わけがわからなくて……話を聞いてみたら、OがS君を殴って、S君がめん場まで逃げただけだったんです。私は全然関係ないのに……」
成り行きとはいえ、Oが自分の都合でついた嘘と、シオリさん側の嘘、そして事実の複雑な混合体ができていた。当事者以外がここから真相を見抜くのは、大人でも難しかったろう。
シオリさんにしてみれば、とにかくOの信用を落としておきたい一心だったという。
彼を悪者にして、誰も彼の言うことを信じなくなれば、自分がめん場に入ったと言い立てられても安心だと思った。
その日から、シオリさんはOを切り捨てた。と言うより、Oに対して明白な意図をもって行動した。Oが誰かに嫌がらせをしたり暴力を振るうたび、よりOが悪質で卑劣な印象を与えるように言葉を選んで、村中に巧みに拡散していった。
村の子供達の世話役として、大人にも子供にも信用を博していたシオリさんである。
急速にOは社会的地位を失っていった。
そのストレスからかOは、徐々にS君だけでなく他の子供に対しても理不尽な暴力を加えるようになった。村社会でのOの地位はますます低下していった。それまでの彼は、「村の敵」であったS君をやっつけるヒーローのようにすら見られていた。だが、誰彼構わず乱暴をするOは、「仲間」だった子供達にとっても、すでにただの害獣に過ぎなかった。
そこまでする必要はあったのかと聞くと、シオリさんは「村での自分の立場を守るため仕方なかった」と答えた。彼女も必死だったのだろう。
ちなみにOの失墜は、S君と村の子供たちとの仲直りのきっかけに……はならなかった。
S君は全く変わらず、高校進学のために村を出ていくまで一貫して周囲を侮辱し続ける嫌われ者であり続けた。O以外の子供たちだって元々S君とは嫌い合っていたのだから、当然なのだろう。
S君は高校進学を機に村を出て行った。
彼はその直前、シオリさんに告白したという。
異性に興味を持って当然の年齢であった。しかもシオリさんは村で彼の味方と呼べるような唯一の女性だった。それにシオリさんはそれなりに美人である。
でも当時の彼女には、村の全てに敵意ばかりを吐き散らしていた彼に、恋なんて似つかわしいとは思えなかった。いきなりロマンチックめいた口調で愛の告白なんてしてくる豹変ぶりに、正直引いていた。気持ち悪いとさえ思った。
「本心がどのくらい顔に出たかは自分で分かりません」とシオリさんは言う。
が、自分では当たり障りないつもりの言葉で拒絶し、都会に行ったら女の子は沢山いるから云々と言いかけて、シオリさんは彼の眼から溢れる涙に気付いた。
誤解しないでねと彼女が作り笑いで言い終わる前に、彼は踵を返して走り出した。
彼は脚が遅かった。女性のシオリさんよりも。
なのにシオリさんは追い付かなかった。追い付く気すらさらさらなかった。
彼の方に数歩だけ駆け寄ったが、自分の罪悪感への「おざなりなパフォーマンスに過ぎませんでした」と今では振り返る。
それからシオリさんと彼はほとんど目も合わせることなく、彼は都会へ進学してしまった。
それから約10年が経ってからである。
その間、一度もS君に会ったことも、連絡を取り合ったこともない。
シオリさんは、村人の親戚づてにお見合いをして結婚していた。脱サラして農業をやりたがっていたという人で、夫のほうが村に引っ越してきた。村の風習についても「地元の文化だから」と言って、積極的には関わらないが軋轢も避けているようだった。
めん場のことも「へえ、そういうのがあるんだ」と言ったきりで、興味を示さなかった。
結婚後間もなく、シオリさんは突然S君から電話を受けた。彼は当たり前だが声変わりをして、垢抜けた喋り方になっていた。
「久しぶりだね。シオリさん」
びっくりした。
シオリさんの彼に対する印象も、小さい頃から決して良くはなかった。
この小さな村では電話番号くらい、家族から簡単に聞けることも忘れて、彼が自分のストーカーだったのかとまで疑ったという。
「結婚するって聞いたんだ。赤ちゃんも生まれるって? おめでとう」
ああ、なるほど。
シオリさんは納得して、少し安心した。
彼の家族は地元にいるのだし、この村では誰かが結婚や出産するなどという話はたちまち知れ渡る。
家族づてに聞いたのであれば何も不思議はない。
だが、「突然だけどさ」と前置きした彼の次の言葉に、シオリさんは絶句した。
「めん場とワゴの話、今も信じてる?」
妊婦に対して、10年ぶりの電話が奇形児の話なのである。
「待ってシオリさん! 変に思うかもしれないけど聞いて!」
彼はめん場のタブー、そして前述のヘリ事件に触れた。シオリさんが一人っ子として育つようになった原因のあの事件だ。
「あれさ、上空何メートルくらいまで危険なんだろうか?」
何を言っているのか。
そんな検証を誰もしているはずもなかった。
「……分かるわけないじゃない」
「そうだよね」
と彼も同意した。
「じゃあ、なるべく早く村から離れて。都会の病院にでも入院して、そこで産んで欲しいんだ」
必要なら自分が働いている大学の関係病院を紹介するから、そこで産んで欲しいとも言った。とにかく、一時ホテル滞在してでも、一刻も早く村からは出た方がいいと。
経済的な問題もあるし、村で働いている夫からあまり離れたくなかった。一体なぜそんなことを言い出すのか。S君はあくまで、10年間音沙汰のなかった昔の知り合いでしかないのだ。
S君はわけを話した。
数日後、女性飛行士を乗せた宇宙ステーションの軌道が、ちょうどめん場の上空あたりを通過するのだと。
それを聞いてシオリさんは、その日のうちにS君の言う通り、村外の病院に行きたいと夫に懇願した。
夫は「迷信」だと思っていたが、それで妻の気が落ち着くのならと対応してくれた。もちろん妊娠のあまり早い段階で入院するようなお金はなかった。幸いにも、生まれるまで都会にある夫の実家に世話になることはできた。
赤ちゃんは無事、病院で健康な状態で生まれたという。
だが、その次に村で妊娠した女性が産んだ赤ちゃんは、ワゴだった。