老人の朝は早い。
老人の朝は早い。
五時に起床。まだ薄暗い家の中で、着替えをする。
老人は、ひとり暮らしだ。
家内は五年前に亡くなり、二階建ての家の二階には一人の娘がいた。
朝ごはんの準備を始める。
庭で買っている鶏から、卵をひとつ拝借をして卵焼きを作り始める。
その途中で、庭で栽培しているニラを持ってきてニラ玉にするんだったと後悔する。
後悔している間に玉子焼きが完成する。
しかし、もう口と胃は、ニラ玉を迎える体制になっていた。
今日終えるかもしれないこの命、ニラ玉を食べたいという後悔を残して死ぬのか。という自問自答を、老人は健康な体で考えた。
出来たての玉子焼きを見つめる。
しょうがない。と、老人は玉子焼きをつまみ立ち上がり、台所からカゴを持ってくると庭に出た。
ニラとミニトマトを収穫し、さらに近くの川で鮭も釣ってきた。
家に帰ると、ミニトマトを食べながら、ニラで味噌汁を作り、鮭を焼いて焼き魚にした。
ニラ玉がニラの味噌汁になったが、老人はボケているわけではない。口と胃の体制は刻一刻と変化するものなのだ。
朝ごはんを食べ終わると、昼寝の時間がやっていくる。
まだ、昼という時間ではないが、午後に備えて寝なければならないのだ。
朝から敷きっぱなしの布団に潜り込み、老人は四時間ほど寝た。
昼寝から起きると、軽く準備体操をした。これからに備えなければいけないからだ。
帽子をかぶり、折りたたみ式のステッキを持つと、家に鍵をかけて歩きだした。
庭の端に停めてある自転車にまたがると、老人は自転車を漕ぎ出した。
しばらくいくと、駅に到着したので、いつもの駐輪場に自転車を停めた。そのとき、折りたたみ式のステッキを、家の端にたけかけたままで、持ってくるのを忘れたことを思い出した。老人は、自転車にまたがり、来た道を戻った。
折りたたみ式のステッキを自転車のカゴに入れた。老人は腕時計を持っていない、だが、ポケットに入れているスマートフォンで、いつもより二十分遅れだということを確認した。急がなければならない。老人は再び駅に向かって漕ぎ出した。
駅に着くと、老人はスマートフォンで時間をみた。自転車をいつもより飛ばしたおかげで、十五分遅れまでに抑えられた。
目的は駅ではない。駅の近くの児童館である。そこが老人の仕事場だ。
入口の扉を開けると、いつもの受付の老人が出迎えてくれる。
その受付の老人と軽く会釈を交わすと、老人は建物の中へと入っていく。
老人は、来館者名簿に、今来た老人の名前を記した。
その老人はいつも来てくれるマジシャンで、学校を終えてやって来る子供たちに毎日マジックをみせている。
シルクハットからは鳩を、ステッキからは花を出すらしいが、老人はまだ見たことがない。
老人の仕事は、ここで受付をすることだからだ。
ただ、持ってくる道具が毎日同じなので、子供たちに飽きられていないかをときどき心配するだけである。
次に近所の主婦たちがやってきた。
その主婦たちは、がやがやと話しながら、受付のとなりの階段を上がっていった。
これもいつものことだ。
その主婦たちは、子供たちが帰ったあとに、掃除や明日の準備をしてくれる。主婦たちが来る前は、すべて老人がひとりで行っていたが、今は随分楽になったと感じていた。
次に、小さな女の子が入ってきた。
いつも来るその小さな女の子は、児童館内の図書室が目的で入ってくる。
主婦たちが帰ると、女の子も帰るので、主婦たちのいづれかの子供ではないかと老人は推測している。
女の子は、ガラスの扉を開けると、図書室の中に入った。
図書室の中は、誰もいない。
一番奥の席まで歩いていくと、女の子は、カバンからノートパソコンを取り出した。
明日までに、原稿を仕上げなければいけなかった。
ここは、誰も利用しないし、たまに遠くの方から鳩の鳴き声がするだけで静かだから、女の子が原稿を書くのにはちょうど良かった。
研究室でもよかったのだが、大人の目がうるさいと女の子は感じていた。
ノートパソコンのキーを叩く音だけが、図書室に響く。
女の子は、画面右下の時計を常に気にしていた。
あと五分ほどで、主婦たちが掃除をしにやってくる時間だからである。
女の子は、ノートパソコンを閉じるとカバンにしまい、近くにあった絵本を開いた。
それと同時に、ガラスの扉が開き、主婦たちがやってきた。
主婦たちは、女の子を見つけると、話しかけた。
女の子は、いつも来る聞き分けの良い子で、絵本をしまうと、元気に挨拶をして帰っていく。
自分の子供もこれくらい聞き分けがよかったらね。と主婦たちはいつも思っている。
図書室を利用する者は、あまりいないので、主婦たちはいつも、掃除を最後にしていた。最後に、戸締りを確認して、主婦たちの仕事は終わる。
主婦たちは、児童館前で解散をすると、家路へと急いだ。
明日も早い。