錆びついた歯車
私は遼東の豕に他なりませんでした。
学生時代、私の成績に届く者はおらず、運動でも私より優良な記録を残した者はやはりいませんでした。それは私へ井戸の中で尊大に居座る蛙さながらの傲りを持たせるに充分なものでした。四方山から聞こえる忠告や警告も、私には犬に論語を説くことと同じでした。その末路は、そんな無知な犬でさえ絶望を抱くことでした。
社会は大きな絡繰りであり、それを動かすには多くの歯車が必要となります。しかし機能しない歯車は限られた場所を無駄に占有するだけで、そういうものは排他や解雇というメンテナンスシステムで『廃棄』されます。
私という歯車はまさに『不良品』として廃棄されるにふさわしいものでした。学生時代に育ったプライドという錆はいつまでも私を自由にしてくれず、結果的に社会は錆びついた私をメンテナンスにかけました。
廃棄された歯車はどこに行くのでしょう。どこにも行きません。ただ廃棄されるだけで、処理されるわけでもなければ、人々が見捨ててくれるわけでもありません。使えない錆びついた歯車の私を憐れむように(もしかすると私がそう思い込んでいるだけなのかもしれないけれど)、手を差し伸べてくれる『良品』の歯車は、私を余計に錆びつかせて二度と輝けないものにします。彼らはグリスを塗ることもできなければ、溜まった塵埃を拭き取ることもできません。ただ動き私を摩耗させるだけです。彼らの優しさは、私にとって私自身をよりスクラップにする要因そのものなのです。しかし歯車とは皮肉なもので、彼らと同じ場所にいる歯車にはその行為は手助けにしかならないのです。点検者もいない私と、社会という絡繰りと互助関係にある彼らでは、前提からしてもう異なっているのです。
不意に私は遠い昔に所属していた小さな絡繰りを思い出します。家族という、小さくて少ない歯車がゆっくりと回っているだけの絡繰りを。そこではなぜかグリスを塗らなくとも汚れを除かなくとも、私が嬉々として家族を動かすために回っていた記憶があります。そこは機械の一部分ではなく、確かに人と人とが互助関係にある温かい場所でした。
今、私の中の歯車も止まろうとしています。
ええ、休んでいいのですよ。あなたたちは私なんかよりもずっと強く休みなく回って、私というちっぽけな絡繰りを動かしてくれました。しかしもう私はあなたたちにグリスを塗ることも埃を取ることもできないのです。せめて一刻も早く、その仕事を終えてもらうことだけが私の望みです。
私は全てが歯車でできた窓の外を眺めながら、ゆっくりと回るのをやめました。