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SF


 ――アシュヴァパティ王の姫君は、どうやら呪いをかけられているらしい。

 ナラ国のユマーリ姫をさして囁かれる巷間の噂は、口さがない人々の悪意によって潮が満ちるように広まっていった。

 有徳の君主、アシュヴァパティ王がきずいた枝を鳴らさぬ御代は、偏屈きわまりないバラモン僧たちはもとより、芥生のごとき貧困と不衛生にあえぐ寒村労働者たちからも烈々たる賛頌をもって迎えられていた。そして王が目に入れても痛くないほど溺愛したひとり娘の姫君は、白楽天の叙事詩にうたわれる美姫もかくありやと思えるほど佳麗な姿をした乙女であった。紅は園生に植えても隠れなしの例えどおり、彼女がいたずらに麻の平服を着て民衆に紛れ込んでも、その美貌と気品あるものごしは常に人目を引いた。ましてや偶さかの逍遥の折りに彼女が王宮のテラスから手でも振ろうものなら、その愛くるしい表情と嫋やかな仕草のひとつひとつに誰もが息を呑み、あらん限りの麗句を連ねて褒めそやしたのであった。

 しかし人間世界のなんと不如意なことか。時が経つにつれ、彼女の美貌と天性を称える讃歌は、いつしか羨望と嫉視の入り混じった呪詛の言葉へと変遷していったのである。

 その浮香樹の香りを湛える巻髪も、緩やかな眉引きの稜線も、白磁を思わせる肌も、朱唇皓歯も、それら全てが、凡俗で無知な鼠輩どものかざす悪意の濾光板を透かして見れば、はなはだ妖麗で淫奔な姿と映ったに違いなかった。

 アシュヴァパティ王の姫君は、容姿が美しいのをよいことに傲慢無礼に振る舞う鼻持ちならない女だ。みなが陰でそう囁き合うようになって間もなく、この美少女の体にある異変が起こり始めた。

 便が出ないのである。

 日に幾度も不浄へ通うのだが、いくらその美貌をゆがめ白目をむいて気張っても便が出てこない。にぶい腹痛をともなう不快感にあえぐばかりである。そうこうするうちにだんだんと顔がむくみはじめ、手足がしびれ、食欲も失せ、あの生気溌剌たる姿が嘘であったかのようにやつれ、しまいには半病人のごとき有様となりはて、終日寝台に帷を垂らし臥床するようになったのである。

 心を痛めた王は布令を出し、国じゅうから名医を募った。内科医、外科医、漢方医、はてはムスリムの心霊療法士から、経絡指圧を得意とする支那の道士まで呼び寄せたが、だれひとりこの不幸な少女を快方へと導くことはできなかった。ついには神頼みとばかりに名だたる寺院より僧侶を呼び集め一斉に祈祷させたが、朗々たる読経の声はいたずらに世間を騒がせるばかりだった。そうして人々は、医者に匙を投げられ神にも見放されてしまったこの可哀想な姫をさして、こう囁き合ったのである。

 ――ユマーリ姫はきっと呪いをかけられているに違いない。


 あるとき姫お付きの武官であるカジューラ・ポンスラという老人が、王の前にひとりの修行僧を連れてきた。僧は襤褸とじの袈裟をまとい、虱の浮いた蓬髪を棕櫚の帚のように束ねていた。しかも盲人らしく頼りなげに藜の杖を曳いては、のたりのたりと王宮の床を探っている。垢染みた姿は見るからに乞食坊主といった体で、なぜこのような卑賤のものを連れてきたのか不思議に思い、王はカジューラ翁に訊ねた。

「なに用あってこの者を連れて参った?」

 すると僧の横に控えていたカジューラ翁は、嬉しそうに言った。

「陛下お喜びくだされ。これなるは瑜伽苦行をきわめし阿羅漢にて、チャヴァナ尊者と申すもの。遠くバルティスタンの地より姫様の難儀を聞き及び、はるばるお越しくだされたのでございます」

 チャヴァナ尊者とは知るひとぞ知る有名なリシ、すなわちヨーガの秘奥を会得した仙人であった。王はひざを打って喜んだ。

「おお、そなたがあの有名なチャヴァナ尊者であったか。国境の地よりはるばるよくぞ参られた。して偉大なるリシよ、百人の薬師を用いても千人のバラモン僧に祈らせても良くならなかった姫の病を、そなたは治してくださるというのだな」

 尊者は見えぬ目でじっと王を見据え、そして静かに言った。

「いかにも、そのために参りました」

「俗衆どもは姫の病を呪いのせいだと噂し合っておるようだが、ご坊もそう思われるか?」

「ひと口に呪いと申しましても色々ございましてな。バラモンによる調伏、諸天よりの神罰、異教徒が用いる呪詛……どれも厄介ですが対処法はございます。されどこの世でもっとも忌むべきは人々の心のうちに潜む負の感情から生まれた呪縛です。嫉妬、憤懣、悲嘆……それらはときに攻撃の対象となる者を不幸のどん底へとおとしいれます。こちらの姫君の美しすぎるがゆえ身に受けられた呪いの根源は、凡俗なる者どもの法界悋気が生み出したいわれなき讒誣に違いありますまい」

「なるほどのう……で、ご坊、愛しい姫を守るために余は一体どうすれば良い?」

 尊者は、呵々大笑して言った。

「他国の王子へでも嫁がせてしまいなされ」


 ユマーリ姫の閨房は、静謐な内殿の廊下をさらに奥へと進んだその先にあった。布帛を紅く染めた毯代を敷き、室内のいたるところに絢爛な什器の数々がしつらえられている。中央の一段高くなった場所に御簾が垂れている。王がその御簾をはねると、天蓋でおおった寝台のなかで姫が苦しそうに寝息を立てていた。螺鈿の床子に腰掛けて付ききりの看病をしていた女官たちが一斉に立ち上がり会釈をする。彼女たちは王の傍らにたたずむ汚い身なりの僧を怪しんで見つめた。王は、起き上がって挨拶しようとする姫を手で制しておいて皆に言った。

「ここにおられるご坊は、カイラス山でヨーガの修行を積んだ偉大なるリシ、チャヴァナ尊者である」

 おお、と室内にどよめきが起こる。王は寝台に横たわる姫の顔を覗き込んで優しく笑いかけた。

「愛しい姫や、苦しかろうが今しばらくの辛抱だ。このかたは希代不思議の術をあやつるともっぱらの評判でな、きっとお前の病を治してくださるだろう」

「はい」

 尊者は寝台の前で身をかがめると姫に向かって合掌した。そして美衣のうえから手をかざすと腹を撫ではじめた。驚いた姫が身を固くする。しばらくチョリのうえから手を這わせていた尊者は、やがて歯のまばらな口で笑い出した。

「かかかっ、やはり調伏法などによる呪詛ではなかったようじゃ。これはたんなるストレス性の便秘、腹のなかに溜まっておるものを残らず出してしまえばすぐに元気になる」

「おお、そうか」

 王は喜んだが、しかし尊者は少し難しい顔をして姫に訊ねた。

「はてさて、姫には一体どれくらいのあいだ通じがござらぬか?」

「……はい、もうかれこれ半月ほどになりましょうか」

 恥ずかしそうに答える姫を見て、尊者は腕組みしながら考え込んだ。

「ううむ、半月ともなると腹のなかに溜まっている便も相当固くなっていような。これはちと骨が折れるかも知れぬぞ」

 彼は王の後ろに控えるカジューラ翁を振り返って言った。

「すまぬが湯を沸かしてくれ、それから大きな盥をひとつ。あとは太い綱を一本、天井にある丈夫な梁に縛りつけて床へ垂らすのじゃ」

 カジューラ翁が部下へ命じて言われた通りにすると、尊者はその場で結跏趺坐して印相を結んだ。真言を唱えて部屋のなかに結界を張るのである。

「ウン・タキ・ウン・ジャク・ウン・シッチ。ウンは不浄を排泄する真言なり。ウン・バザラ・ウン・ハッタ・ウン・ウン」

 寝室にみちていた淀んだ空気とメタンガスが真言の詠唱とともに徐々に清められてゆく。やがて彼は王を含めた全員に向かって言った。

「これよりダルマの法にのっとりクンダリーニの秘術をおこなう。茶枳尼天より授かった不出の技ゆえ、付き添いの女官を残してあとは退出くだされ」

 みなを寝室から追い出すと、彼は寝台に寝ている姫を立たせて言った。

「さっそくですが姫には下半身に身につけているものをすべて脱いでいただこう」

「えっ」

 青ざめる姫に尊者は糸のように閉じられた目を指して言った。

「心配めさるな、わしはほれこの通り目が見えぬのじゃ」

 それを見て安心したのか彼女は穿いていたシフォンのパイジャマをするすると脱いだ。部屋に甘ったるい肌の香りがただよいはじめる。薄目を開けてその様子を盗み見ていた尊者は、彼女の肢体のあまりの美しさに息を飲んだ。すらりと伸びた足は歳月をかけて磨き込んだ白木の像のようにすべすべで、日を浴びたことのない生白い太ももは作りたての乳酪のごとくたおやか、控え目な大きさの尻は嫦娥のように丸くやわらかで、あまつさえこんもりと繁った(以下自主規制)

 チャヴァナ尊者はごくりと生唾を飲んで胸のうちにつぶやいた。

「色即是空、空即是色、なんまいだ、なんまいだ、三界二十八天諸天善神、煩悩即菩提……」

「あのう……」

 たまりかねてお付きの女官が訊ねる。

「姫様にこのような格好をさせて一体なにをなされるおつもりなのですか?」

 こほんと咳払いして尊者が言う。

「これより姫を便秘の苦しみから解き放ち三昧耶の境地へといざなって進ぜよう。愚僧の言うことをよっくお聞きくだされ」

 尊者は、下半身すっぽんぽんになった姫を大盥の前まで連れてゆくと、天井より下がる太い綱につかまらせた。

「この力綱にすがりついて盥のうえにしゃがむのじゃ。足は、がばっとM字に開いてな、がばっと」

 姫は驚いたように尊者を見つめた。偉大なるリシだと父王は言ったが、本当にこの男に従っても良いのだろうか。判断に困ってお付きの女官を見ると、彼女たちは一斉に目顔でなにかを知らせようとしていた。しきりに扉のほうを指さしている。姫はすぐに悟った。おそらく王とカジューラ翁が扉の向こうより息をひそめて、こちらの動向を窺っているに違いない。もう後へは引けないことを知った姫は決然たる足取りで真鍮製の盥の縁をまたいだ。そしてむっちりと丸い尻をなかへ沈めていったのである。結跏趺坐しながらこの様子を盗み見ていた尊者は、彼女の股間を真正面から見てぶっと鼻血を吹いた。

「いかんいかん、愛欲を離れて大欲に変化せしむ、一字心明、五字真言、ウン・タキ・ウン・ジャク・ウン・シッチ」

 襤褸の袖で鼻血をぬぐうと威儀をただして言った。

「愚僧が触診したところによれば、姫の大便はどうやら上行結腸のあたりで詰まっておるようじゃ。右下腹の、ちょうど盲腸の上のあたりですな。女性は骨盤が広いゆえ腸がたるんで便が留まりやすいのじゃ。まずはこの滞留便をその先の横行結腸、下行結腸へと時計回りに移動させてやるのが肝要」

 あられもない格好のままで姫が神妙にうなずく。

「よろしくお願いいたします」

「うむ。されば大腸のぜん動をうながすためヨーガスートラの調気法を行おうと思う。よいか、これはタントラの秘術ゆえ心してお聞きくだされ。まず基本は息を吐くことに集中するのじゃ。三秒から四秒かけて、鼻からゆっくり吐く。けっして吸うことを意識してなりませぬぞ。無理に吸おうとすると過呼吸を起こしますからな」

 尊者は袈裟の前をはだけると、おのれのしわ腹を手でさすりながら説明した。

「この調気法の目的は、ヘソから下にあるアパーナへ活力を送り込むこと。アパーナとは腰椎と仙骨神経をつかさどる部分、つまり排便をうながす場所じゃ。その呼吸法は、二回短く吐いて、その後にゆっくりと長く吐く。こうじゃ。ヒッ、ヒッ、フー。全身の力を抜いてリズミカルにやるのがコツでな。ヒッ、ヒッ、フー。ほれ、わしの後についてやってみなされ。ヒッ、ヒッ、フー」

「ひぃ、ひぃ、ふぅ」

「なんじゃ気合いが入っておらんな、もっと力を込めて、それっ、ヒッ、ヒッ、フー」

「ひぃ、ひぃ、ふぅ」

「ヒッ、ヒッ、フー」

「ひぃ、ひぃ、ふぅ」

「その調子、ヒッ、ヒッ、フー」

「ひぃ、ふぅ、ほぅ」

 綱にぶら下がり恥ずかしいM字開脚のまま姫は懸命に呼吸法を行った。便秘のためにぽっこり突き出たお腹がせわしなく上下する。その様子を薄目を開けて楽しんでいた尊者は、懐から蝙蝠扇を取り出して、それで音頭を取りはじめた。

「はいっ、ヒッ、ヒッ、フー」

「ひぃ、ひぃ、ふぅ」

「やれっ、ヒッ、ヒッ、フー」

「ひぃ、ひぃ、ふぅ」

「あっどした、ヒッ、ヒッ、フー」

「ひぃ、ふぅ、ほぅ」

 四苦八苦しながら教えられた呼吸法をつづけるうち、姫の体内である変化が起こりはじめた。ちょうどあばら骨の下のあたりを右から左へ向かって滞留便のかたまりが、もぞぞ、ぞ、ぞ、と動き出したのである。

「ああ……尊者さま、動いております。私のお腹のなかで、なにやら熱いかたまりが動いております」

「よいぞよいぞ、その調子じゃ。さあ、つづけられよ、ヒッ、ヒッ、フー」

「ひぃ、ひぃ、ふぅ」

「それっ、ヒッ、ヒッ、フー」

「ひぃ、ひぃ、ふぅ」

 半時ほどそんなことをやっているうち、生気のなかった姫の顔にしだいに赤みが差してきた。頃合いをはかって尊者は立ち上がり彼女の下腹に手をかざす。

「うむ、どうやら滞留便のかたまりは左腸骨の手前あたりまで移動したようじゃ。よくぞ辛抱なされた。しかし本当に大変なのはこれからで、この先にはS状結腸というものがある。その名がしめすとおりSの字なりにぐねっとカーブしておるのじゃ。溜まりに溜まった姫の太っい太っい大便が、はたしてここを無事に通過できるかどうか……」

 いくぶん元気を取り戻した姫は、M字に踏ん張ったつま先にぐっと力を込めて言った。

「わたし頑張ります」

「ふむ、その意気じゃ。さればここからは呼吸法を変えることとしよう。これから教えるのはヴァジュラダラの呼吸法といって、プラーナーヤマ四十八手ちゅう秘奥のなかの秘奥じゃ。心してお聞きくだされ。まず半眼を閉じて自分の眼前に阿という文字を思い描く。阿呆の阿じゃぞ。次に心持ちあごを上向けて、半開きにした口からフーっと息を吐き出す。大きく、ゆっくりとな。そして括約筋にぎゅっと力を込め、先ほど思い描いた阿の字にぶつけるようにして、吽っ、と息を吐き出すのじゃ」

「ふぅーと吐いて、うんっ! と息むのですね」

「そうじゃ、わしの後につづいてやってみるがよい」

「はいっ」

 尊者はさっそく印を結んで禅昧を帯びると、静かに胸を上下させて息を吐いた。そしてフンっと息む。それを見ていた姫は自分も同じようにやってみた。

「ふぅぅ……うんっ!」

「そうそう、四肢の力を抜いてな。一定のリズムを保ちながら踏ん張るのじゃ。フー、ウン」

「ふぅぅ……うんっ!」

「よしよし、いい感じになってきたぞ」

「ふぅぅ……うんっ! ふぅぅ……うんっ!」

 顔を真っ赤にして息む姫を見て尊者がまばらな歯を覗かせた。

「どれ、ひとつ唄でもうたって景気をつけてやろうかの」

 砂子を散らした蝙蝠扇を、ちゃっ、ちゃっと威勢良く振ってなにやら怪しい歌詞を唄いだす。

「やれ、妖げつ天にあらわるときは、北斗七星ぴーかぴか、はいっ、フー、ウン、あっそれ、フー、ウン」

「ふぅぅ……うんっ! ふぅぅ……うんっ!」

「喧々ごうごう牛もうもう、鶏はお庭でこけこっこー、そりゃ、フー、ウン、あっそれ、フー、ウン」

 扉の向こうでじっと聞き耳を立てていた王とカジューラ翁も、我れ知らず下腹に力を込めていた。

「ふぅぅ……うんっ! ふぅぅ……うんっ!」

「それ、御殿の若衆の筆おろし、尻でつかんでのの字書き、はいっ、フー、ウン、あっそれ、フー、ウン」

「ふぅぅ……うんっ! ふぅぅ……うんっ!」

 尊者はしだいに物狂いのようになり、ついには立ち上がってくるくると舞いはじめた。

「ほれ、男きりきり朝勃ちすれば、女とろとろ朝うじゃけ、あこりゃ、フー、ウン、あらよっと、フー、ウン」

 姫に寄り添って額の汗を拭っていた女官たちも、眉間にしわを寄せ一緒になって腹に力を込めた。

「ふぅぅ……うんっ! ふぅぅ……うんっ!」

 そうこうするうち、気息奄々と踏ん張っていた姫が切ない声を漏らしはじめた。

「ああ……尊者さま、私の……私の下腹でなにか巨大なかたまりが蠢いております」

 今や盲人とは思えぬ軽快なステップで踊り狂っている尊者は、得たり、とばかりに叫んだ。

「よしっ今じゃっ、渾身の力を込めて一気にひり出してしまいなされっ!」

 やわらかい腸壁を押し分けて棍棒のように太く固まったものが、むりり、り、り、と顔をのぞかせる。姫が金切り声を上げた。

「ひいーっ、大きすぎます。痛い痛いっ。尻が裂けるぅ」

「我慢されよ。多少切れるかもしれぬが、後で軟膏を塗ってさしあげる」

 激痛に白目を剥き、しかし待望の便通による快感で身悶えしつつ、もはや半死半生と成り果てた姫は、盥のうえで身を痙攣させ、白い喉を反らせて天を仰いだ。

「ああ……もうだめ、出る、出ますっ! 太っいのが、太っいのが出ますぅ」

「出されよ、出されよ」

「出るっ、出るっ!」

「出せ、出せ」

「ああ……ああああっ、ああああああっ!」

 姫の甲高い悲鳴が、内殿の石造りの廊下に蜿蜒と尾を引いた。一瞬の間をおいて、ごろん、と金盥のうえになにか固いものの転がる音がする。一瞬あたりがしいんとなり、扉の外で耳をそば立てていた王とカジューラ翁も、ユマーリ姫に寄り添って世話を焼いていた女官たちも、みなが押し黙った。ついに便が出たか、誰もがそう叫ぼうとした瞬間、あに図らんや、人の世のなんと不可思議なことか、これが集団幻聴というものであろう、静謐な奥御殿のそのまた奥の、深窓の佳人のひっそりと隠れ暮らす部屋のなかに、突如として琅然と玉の触れ合うがごとく、元気なる産声が響き渡ったのである。

 ほゃあ ほゃあ ほゃあ ほゃあ

 夢かうつつか、そこに居合わせたもの全員がその声を聞いた。そしてまるで生命誕生の瞬間に立ち会ったかのように感動し、はらはらと涙を流したのである。

「おおお、陛下っ、おめでとうございます。ついにお産まれになりましたぞ。姫様にお仕えして十三年、こんなに嬉しいことはございません」

「うむ、じつに喜ばしい、王家のためにもじつに良きことである。でかしたぞ姫よ、お手柄じゃ」

 王とカジューラ翁は手を取り合って喜んだ。姫に付き添っていた女官たちは感動のあまりその場に泣き崩れてしまった。

「おーいおいおい、おーいおいおい、姫さま。ごらんください、こんなに立派な赤ちゃんがお産まれになりましたよ、おーいおいおい」

 苦痛より解き放たれた安堵からかユマーリ姫は気を失い、その場にへなへなと崩れ落ちた。女官たちがあわてて助け起こす。

「案ずるでない、貧血を起こしただけじゃ。寝台へ運んで目が覚めたら重湯でも食べさせてあげなされ」

 もういい頃合いだろうと思い部屋へ入ってきた王とカジューラ翁は、盥に乗った黒光するものを目の当たりにして感嘆の声を漏らした。

「なんと見ごとな、まるで烏文木の太枝のようではないか」

 王は腕組みしながらつぶやいた。

「この丸まると太った様子は、さしずめ人間の赤子であれば元気な男の子であろうな」

 するとやはり王の横で盥のなかのものに見入っていたカジューラ翁が静かに首を振った。

「いえいえ、この粘液に塗れ光る紅玉の肌は、きっと姫に似た美しい女の子に違いありませぬぞ」

 言い出すときかない二人である。「男の子だ」「いいえ女の子です」と言い争ううち収拾がつかなくなり、ついにはチャヴァナ尊者の裁定をあおぐこととなった。

「のう、偉大なるリシよ。そなたはどう思われる。この見事な大便を赤子に見立てるならば、それは男子であろうか、それとも女子か、そもさん」

「せっぱぁ!」

 見えぬはずの両目をかっと見開き、尊者は凛乎として言い放ったのだった。

「どう見ても、ただのウン子じゃ」



 SF(すごくふんばった話) 完




この作品への出演を快諾くださった皆さまへ心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

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