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河童


 うすら日のそそぐ木深い沼のほとりに河童の姿を見かけたのは、私がまだ小学生のときでした。山松のこずえを揺する風の音に負けないくらいひぐらしが鳴いていたので、たぶん夏の終りころだったと思います。その場所には大小十三の沼があって、なかでもひときわ大きな沼を大人たちは婆石ヶ淵と呼んでいました。名前の由来は分かりません。

 婆石ヶ淵には、小烏瀬川の支流がそそぎ込んでいました。真夏でも水は冷たく、ときおり水面のアオミドロを破ってカイツブリが羽ばたくほかは、ひっそりと木の間かくれの空を映しつづけていました。そこではまるで現実とは異なった時間が流れているように感じられました。子どものころの私にとって昼間でも薄暗いその沼のほとりは、幼い冒険心を満たしてくれる一番のお気に入り場所でもあったのです。

 その日は、あいにくの雨もよいでした。見上げると、どんより空をおおった黒雲がゆっくりと北の方角へ流されていました。それでも私は早朝から釣り竿をかつぎ、ひとり婆石ヶ淵までやって来たのです。小型のジープがやっと通れるくらいの狭い林道をマウンテンバイクのフレームをきしませながら一気に駆け抜けると、やがて「危険、遊泳禁止」という立て看板の向こうに陰暗とした沼地がひらけているのが見えてきます。よほどの釣り好きでも、なぜか大人たちはそこへは足を踏み入れたがりません。それどころか、私たちがその沼で釣りをしているのを知ると怒りだす人さえいるのです。それでも私たちは、親や学校の先生の目を盗んでせっせと足をはこんでいました。

 事前に友だちも何人か誘っておいたのですが、いつも集合場所にしている立て看板の前には人影が見当たりませんでした。きっとみな今にも泣きだしそうな空を見て外出するのを諦めたのでしょう。

 婆石ヶ淵ではよく大きなフナが釣れました。沼は深く、のぞき込むと湛える水はつねに不気味な暗緑色に沈み込んでいました。きっと底のほうには全長二メートルくらいの大ナマズが棲んでいて、おそらくそいつがこの沼のヌシに違いない、などと平気でうそぶく子もいます。

 私はいつも定位置にしている岩のうえに腰をおろすと、そっと釣り糸を垂れました。頬に触れる空気は重く、吸い込むとつんと鼻を突くような湿気をはらんでいます。沼全体を見渡せば、ところどころドライアイスを投げ込んだように白い靄が立ちこめていました。

 その岩の下は深場になっており、ときどき大物が釣れました。空模様は気になりましたが、せめて大きいのを一匹釣ってから帰ろうと心に決め、私は辛抱強く竿をにぎりつづけたのです。

 ところがどうしたわけか、その日に限ってまったく釣果があがりませんでした。水面に突き立った細長い浮きは、ただ風になぶられてゆらゆらと身を揺するだけなのです。けっきょくお昼を過ぎてもまだ坊主で、私はしかたなく竿を上げ母の作ってくれたおにぎりを食べることにしました。頭上に張り出すこずえの合間からは、不吉なほど黒くよどんだ空がのぞいています。雲の流れがどんどん早くなり、セミの声もカッコウの鳴く音もいつの間にか止んで、辺りからはただ風が青葉をしゃらしゃらと鳴らす音だけが聞えていました。

 不意に遠くのほうで雷が鳴りました。こりゃあいよいよダメだと見切りをつけ、おにぎりを食べ終えたのをしおに、私は急いで帰り支度をはじめました。

 と、そのときです――。

「おうい」

 てっきり自分ひとりしかいないと思っていた沼地のどこかから、子どもの声で呼びかけられたのです。びっくりして辺りを見まわしましたが人影はありません。「おうい、おうい」と何度も呼ぶので声のしたほうを注意深く観察してみましたが、そこは沼のうえでどう考えても人など立てるはずがないのです。不審に思って耳を澄ませていると、ちょうど私が釣り糸を垂れていたあたりで、ちゃぷん、と水のはじける音がしました。

「おうい、ここだここだ」

「あっ」

 私は思わず声を上げてしまいました。女の子が水面より鼻からうえだけをのぞかせて、じっとこちらを見上げているのです。

「き、君はだれ?」

「アラは、この沼に古くから棲んでいるものだ。おまえはふもとの村の子かえ?」

「そうだけど……」

 その女の子はひどい巻き舌で、おまけにイントネーションに妙な抑揚がありました。私は雨が降りそうなのも忘れて彼女に話かけました。

「この沼に棲んでるってことは、君はひょっとして河童かい?」

 半分冗談のつもりで言ったのですが、女の子は真剣に驚いているようで、さかんに目を瞬かせていました。

「よく知っているな。たしかにアラは利根川を逐われてこの地へ逃れてきた河童だ」

「逃げてきたの?」

「まあ待て。ちょっと水から上がるぞ」

 その女の子は平泳ぎですいーっと沼のなかを回り込むと、岩の切れ間につかまって器用に身を持ち上げました。濡れた髪が海藻のようにうねり、肩や背中に張り付いてポタポタと水を滴らせています。驚いたことに彼女は全裸でした。肌の色は瓜の断面のような薄緑色で、薄っぺらい胴体にもうしわけ程度の乳房が尖っています。どうやら手にも足にも水かきは付いていないようでした。その濡れた足で、ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、と岩を踏んでやがて私の前までやって来ると、その場にぺたんと腰を下ろしました。

「ここで、なにをしていた?」

 私は、かたわらに放り出してある釣り竿を指さしました。すると彼女は、けけけっと愉快そうに笑って言ったのです。

「ここにはもう魚は一匹もいないよ。アラがみんなつかまえて他所へ逃がした」

「ええっ、どうしてそんなことをするの?」

 驚いて訊ねると、女の子は少し淋しそうに目を伏せました。よく見ると美しい顔立ち……ではないけれど、下ぶくれでわりと愛嬌のある顔をしています。

「じつはな、このあいだ空想科学祭の実行委員会あてにショートメールを送ったんだ」


【送信者】河童のパー子より

【宛 先】空想科学祭実行委員会さまへ

【件 名】ちょっと質問でェーす

【本 文】あのー、ちょっと確認なんですけどォ。河童っていわゆるUMAだから、それを扱った作品ってもちろんSFになりますよね?

【送信日】平成24年8月29日

※添付書類なし


「そうしたらすぐに返信が来てな……」


【送信者】空想科学祭実行委員会より

【宛 先】河童のパー子さまへ

【件 名】ご質問に関するお答えです

【本 文】いつも空想科学祭をご利用いただき、ありがとうございます。先日お寄せいただいたご質問ですが、水木しげるのコミックなどを見ても分かるように、河童を題材とした作品のジャンルは昔からホラーと決まっています。よって当企画におきましても、この一般常識に準拠したいと考えております。以上。

【送信日】平成24年8月30日

※添付書類なし


「この返信を見てアラは悟ったのだ。自分はこの企画に存在してはいけないんだと……」

「えっ、だって……」

 私は憤然としました。ネッシーだとちゃんとSFになるのに、どうして河童ではいけないのでしょう。

 ゴロゴロゴロ、とふたたび雷が轟きました。さっきよりもかなり近づいているようです。間をおかず雲間を縫って稲光がピカッと駆け抜けます。女の子は空を見上げて、ふんとため息をつきました。

「もういいよ……、この川も上流にダムが造られてから水も濁って棲みにくくなったし、そろそろ潮時かなと思ってたんだ」

 そこまで言いかけたとき、突然ざあっと石粒をまいたように雨が降り出しました。私は悲鳴を上げて近くにあった老松のしたに逃げ込みましたが、河童の女の子は濡れた顔でじっと空を見上げながら岩のうえにたたずんでいました。

「ねえ、そんなところへ立っていたら風邪をひくよ。早くこっちへおいでよ」

「アラの肉体はもうすぐ滅びる。そうしたら魂だけになる。魂は風邪なんか引かないさ」

 雨音が激しくて彼女がなにを言っているのか聞き取れません。

「えっ、なに?」

 またゴロゴロと雷鳴が轟き、雨足がいちだんと強まりました。私は雨音に負けないよう声を張り上げて言いました。

「あっ、そうだ、河童のお姉さんはどうして利根川を逐われてきたの?」

 ときどき強い風が吹いて、水煙でかすむ女の子の体を機関銃で掃射するように薙ぎ払ってゆきます。彼女は、この雨に洗われてもうすぐ消えてしまうのだ。そう思うと悲しくてしかたありません。雨はますます激しくなり、湖面は無数の針を突き立てたように荒れ狂っています。なんだか怖くて首をすくめていると、不意に彼女が自嘲気味な笑いを浮かべて言いました。

「むかしな、悪い仲間に誘われてちょっと……」

「どんな悪いことをしたの?」

 河童の女の子は不意に真顔になり、じっと私の目を見つめました。もしかしたら訊いてはいけないことを訊いてしまったのかと心配になりましたが、でもこれを訊いておかないと話がオチないので、私はじっと答えを待ちました。すると彼女は急に嬉しそうな顔になり、手で拡声器のように口を覆って叫びました。

「河童だけにっ!」

 私も負けじと叫び返します。

「河童だけに、なにっ!?」

 すると彼女の青ざめた頬に、ぽっと赤みがさしました。

「かっぱらい」

 そのとたん、今まで強い風に吹かれても微動だにしなかった彼女の体が、ぐらっと揺らぎました。そして驚くことにその肉体はボロボロと崩れはじめ、まるで鉄板にまいたお好み焼きの具材のように、血と、肉と、骨と、内臓が、平たく地面へのびてゆきます。それらはやがて混ぜ合わさり、寒天状のドロドロとした物質となって、しかし終いにはそれも溶けてただの緑色の液体となりはて、降りしきる雨に流されて、草の合間に徐々に吸い込まれていったのでした。


 私が河童の姿を見たのはそれが最初で、そして最後です。




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