人生は選択の連続である~小麦粉を水で溶いて練った生地に餡子を入れて円盤状に焼いた菓子をなんて呼ぶ?~
「お前は、小麦粉を水で溶いて練った生地に餡子を入れて円盤状に焼いた菓子をなんて呼ぶんだ?」
空地川サビ子の自宅であるボロアパート『末法荘』……否、『ニートリヒ=シュロス』二〇三号室で、彼女に問いかける男の声。それを、空地川サビ子は、否、全人類はよく知っている。
(学校の授業や動画でも何度も聞いた声! 恐怖の大王ゲドードス!)
「そのお菓子は、どら焼きだ!」
瞬間、下半身から脱力して体をすとん、と落とすように身を屈めた空地川サビ子は、その勢いのまま右足を下げて背後の相手の脛を蹴った。だが、感触はない。代りに、頭上から言葉が降る。
「つまらん女だ。大喜利が下手すぎる。それだから人気でねえんだよ」
(殺す!)
サビ子の内心に真っ赤な炎が燃え上がる。大王への恐怖心は完全に消滅していた。
(魔法少女の人気は、配信で笑えるかじゃなくて実績を見ろ! わかってない視聴者どもめ!)
ただ、目下最大の問題は脛への蹴りが不発だったこと。故に、サビ子は低い姿勢を保ち、くるりと前転して部屋の奥へ逃げる。その隙に、スマートフォンを握った。
分厚くて淡いピンクのハート、それから星や翼の装飾で彩られたスマートフォンこそ、マジカルスキスキステッキスマートフォン。全人類が十歳になると手にできる、魔法少女になるためのツールである。
だが、空地川サビ子はそのスマートフォンを操作し、魔法少女変身アプリ『ピカリライブ』を起動しない。否、起動できなかった。
魔法少女配信アプリ『ピカリライブ』は、誰かが見ている状態で使用するとアカウントがBANされる。
(大王は人間にカウントされるのか? わからない以上起動できない!)
故に、空地川サビ子は回転回避から素早く立ち上がり、玄関を背にする対手に向かって、アップライトで構えるのみ。
と、その時。外で風が雲でも押し流したのか、カーテンの隙間から強烈な陽光が部屋に差す――途端、空地川サビ子は時を忘れて見惚れてしまった。
彼は、まるで人類の理想、そのすべて詰め込んだ石膏像のような男だった。
ゲドードス大王。ただの二十代の男にも見えるがしかし、その顔の病的な細さを際立たせる、白一色の肌。髪も白く、まるで神様がそこだけ、色を塗り忘れているかのような存在。それが今、真黒なキューティ拘束衣(アーカイブ動画再生数十回分の魔法)に包まれて立っていた。何度も教科書で、映像で、そして実際に寝ているところを見てきたが、こうして生で動いているのを見ると、迫力が違った。
「どうした、配信しないのか?」
微動だにしないサビ子に対し、随分と余裕をもって大王は言った。
サビ子は押し黙る。どこまで侵略帝国が魔法少女の秘密を知っているかわからない。空地川サビ子は唾を飲んだ。ところが、その様子に大王は口角を上げた。
「まさか、知らないのか? おれは人間にカウントされない。BANを気にしているなら、不要だ。ほら、早く配信したらどうだ、〈魔法少女二十九号〉」
その様態に、空地川サビ子は絶句した。
(こいつ、どうしてそんな情報を! しかも、わたしの名前まで知っている!)
サビ子の額に汗が浮かぶ。それは、自衛隊員相手にスパーリングをしている時とは、当然別種のものであった――未知の怪物を前にした焦り。恐怖。不安。
対して、大王はそんなサビ子を前に首を傾げる。
「なんだ、急に黙って。お前はおれを捕まえて視聴者数を稼ぐつもりなんだろう? なのに、おれが倒れている間もずっと配信はないようだし、理解に苦しむ。魔法少女といえば、おれの部下たちを殺して視聴者数を稼ぐサイコパスの集団だろうに」
「何を言って……!」
「おれが配信に出れば視聴者数三十億はくだらないぞ。ほらほら、早く配信しろよ」
確かに、空地川サビ子はそれを期待してわざわざこの人型を家まで引きずって運搬したのである――そして、そのままどうすべきか迷って家に放置した。
(だって、わたしは『魔法少女』だから! なのに、こいつは何もわかっていない!)
「ほら、無防備な状態でぶっ殺しに来たりしなかった分、今取り返さないと意味ねえだろ。よかったな、おれを配信すればこんなぼろ屋じゃなくて、QOLの高い北欧風のカウンターキッチン付きのタワーマンションでミネラルウォーターの白湯が飲めるぜ」
なんという人を小馬鹿にした態度か。そのゲドードス大王の表情、言葉遣い、それらが放たれるたび、サビ子の拳はきつく握られた。
「どうした、ひどい顔だな! まあ、変身して魔法少女の姿になればお前だって」
「うるさい!」
ついに意図せず空地川サビ子は絶叫した。
「そうだよ! 視聴者数は……欲しい!」
喉から手が出るほど、悪魔と契約したって、欲しい!
「だって、視聴者数がないと、始まらないじゃん! 視聴者数があれば、わたしだって昔みたいなかわいい魔法少女に戻れる! そもそも魔法少女なのにあんな地味な色のドレスとか本当は嫌だし、変身した後も、このわたしに比べらめっちゃ若くてかわいいけど十八歳ぐらいの見た目だし! 周りは地下魔法少女とかいうむかつく名前で呼ぶし! だから、視聴者数は欲しい! それがどうした! 何が悪い!」
「いや、悪いなんて一言も……」
「だけど、だからって、わたしは……」
ところが、突然サビ子は言葉に詰まった。周囲がなぜか暗くなったような――否、足元が急に虚空に変わる。落ちていく――!
(あれ? どうしてわたしは魔法少女、やってるんだっけ)
ぽたり、ぽたり、と、床に水滴が落ちる。どうした、雨漏りか。ぼろ屋とは言え、トゥルーストーンで補強したのに。と、天井を見あげようとして、頬を液体が伝うのを感じる。
(わたしは、泣いてる……?)
はっとして涙をぬぐい、顔を前に向けると、相も変わらずゲドードス大王がサビ子の顔を注視していた。
大王はその冷たい作り物のような端正な顔を少しも動かさずに硬直している。それは、やっぱり何度も授業で見た顔と同じであった。
『これより、このおれゲドードス大王が星を一つにする。 だから、まずはチョコミントのことを歯磨き粉の味、って笑ったやつ、そいつらから消すことにする。そうじゃないやつは、なんか必死でアピールしろ』
約百年前。これが、恐怖の大王にして侵略帝国の主、ゲドードスの最初の宣戦布告だった。
つまり、こいつが全ての元凶だ。こいつこそ、現在進行形で人類の抹殺を企てる悪の首魁!
「そうだ! とにかく、お前をぶっころ……じゃなくて、えいってしてぱんぱんにすれば視聴者数が稼げる! それでいい!」
サビ子は鼻をすすり、今度こそマジカルスキスキステッキスマートフォンを構える。大王も、はっとしてその表情を強張らせた。
その時、『フレー、フレー、エブリワン! がんばれがんばれみ、ん、な!』と元気でアップテンポな着信音がスマートフォンから鳴り響く。だが、気にしている暇はない。
「余裕ぶっこいたこと、後悔させてやる。視聴者数が三十億あれば、お前なんざお空の彼方にぽんぽんぽいなんだから!」
「急に魔法少女っぽい口調でしゃべるんだな」
『フレー、フレー、エブリワン! がんばれがんばれみ、ん、な!』着信音だけが続く。
大王には返さず、サビ子は魔法少女変身アプリ『ピカリライブ』のアイコンをタップしようとした。だが、その前に通知欄の文字が目に入った。入ってしまった。
『フレー、フレー、エブリワン! がんばれがんばれみ、ん、な!』
サビ子は、着信音の正体を理解した。
『緊急案件! 魔法少女二十九号様へ』
緊急だと? そんなことより、視聴者数の塊である大王が重要なはず。ところが、次の一文が曲者であった。
『依頼主:東京都調布市在住のたなかねみちゃん(六歳)』
『次の地区に、ママの形見であり、お友達でもあるぬいぐるみを紛失したとの情報あり。強力な砂嵐が接近中のため、三十分以内に対応しない場合、発見は困難になる見込み。現在、案件を受領できそうな魔法少女はあなただけです』
空地川サビ子の心の天秤に、視聴者数三十億の大王が左に、大事なぬいぐるみをなくし、今にも泣きそうになっているであろう見知らぬ少女の姿が右に架けられた。
(それとも、視聴者数三十億を稼いでからぬいぐるみ探しをする? いや、それはそれでどうなんだ? もしも大王を匿うだけ匿い、回復させてから野に放った、みたいな扱いになればわたしが殺されかねない! 残り三十分! 駄目だ、迷っている時間がない!)
空地川サビ子の目が、泳ぎに泳ぐ。
(どっちだ! どっちを取るべきなんだ、わたしは!)




