第3話 薪と保存食と、秘密の厨房
保存食の開発は、前世では三ヶ月かかった工程を、この世界の食材で一からやり直すことだった。
まず、失敗した。
乾燥肉。前世の手順通りに薄く切って干したら、二日目で表面に黒い斑点が出た。この世界の獣肉は前世の豚や牛より水分が多い。切る厚さを半分にして、塩を揉み込む時間を倍にする。——三度目の試作で、ようやくまともな干し肉ができた。
次に、また失敗した。
発酵野菜のピクルス。前世のレシピでは酢と砂糖を使うが、この砦に酢はない。砂糖もない。代わりに穀物の煮汁を発酵させて酸味を作り、蜂蜜の代わりに干した果実を刻んで入れた。——最初の瓶は見事に腐った。二つ目は酸っぱすぎて舌が痺れた。
三つ目で、やっと食べられるものになった。
「……あんた、失敗するたびに嬉しそうな顔するのやめなさいよ。気味が悪い」
グレーテが呆れたように言った。
「だって、失敗すれば原因が分かるじゃないですか。原因が分かれば、次は成功に近づく」
「変な子」
そう言いながら、グレーテは三つ目のピクルスを一切れ摘まみ、しばらく噛んで、小さく頷いた。何も言わなかったけれど、あれは合格の頷きだ。二週間も一緒に厨房に立てば、それくらいは分かる。
◇
問題はハーブソーセージだった。
腸詰めの技術自体はこの世界にもある。だが調味がひどい。塩をぶち込んで終わり。せっかく乾燥ハーブがあるのに、誰も肉に混ぜようとしない。
「ハーブは薬だ。飯に入れるもんじゃない」
兵站担当のマルクスが、太い腕を組んでそう言った。五十がらみの老兵で、砦の物資管理を二十年やっている人だ。グレーテとはまた違う種類の壁。こちらは数字と実績でしか動かない。
「保存性が上がります。ローズマリーとタイムには防腐の効果がある。——データで証明しましょう」
「データ?」
「試作品を二つ作ります。ハーブ入りと、従来の塩のみ。同じ場所に保管して、一週間後に状態を比べてください」
マルクスの眉間の皺が、ほんの少しだけ緩んだ。数字を出すと言われれば、断る理由がない。
「……勝手にしろ」
グレーテの「好きにしなさい」と同じ響きだった。この砦の人たちは、許可を出すとき揃って仏頂面になるらしい。
◇
そうして、深夜の厨房が私の実験室になった。
昼間は二百人分の食事を作る。夕方に片づけをして、兵士たちが寝静まった後に保存食の試作をする。竈の火を落とさず、小さな炎でじっくり燻製を作り、発酵の経過を記録する。
誰もいない厨房は、しんと静かだった。
火の爆ぜる音と、鍋の中で何かが小さく泡立つ音だけ。窓の外では北風が唸っている。石壁の隙間から冷気が忍び込み、竈から離れた場所はひどく寒い。
(……前世も、こうだったな)
深夜のキッチンで試作を繰り返していた日々を思い出す。誰にも頼まれていない仕事を、誰にも見られない場所でやる。朝になれば成果だけが残り、過程を知る人はいない。
寂しいとは思わない。思わないことにしている。
背中が、あたたかくなった。
——え?
振り向くと、竈の脇の薪置き場に、誰かが薪をくべていた。
暗い。厨房の照明は竈の火だけだ。人影の輪郭しか見えない。大きい。背が高い。——兵士だろうか。夜間巡回の当番が、火の番を気にしてくれたのか。
「あ、すみません。薪、もらってしまって——」
手を伸ばした。相手も同時に薪を差し出した。
指先が触れた。
一瞬だった。硬い指。冷たい。外気に晒されていた手だ。巡回から来たのだろう。
相手が手を引いた。
「……寒いだろう。火を絶やすな」
低い声だった。短い。それだけ言って、足音が遠ざかる。
「あ——ありがとうございます」
返事は、もう暗闇の向こうだった。
(巡回の兵士さんか。……親切な人だ)
薪は太く、よく乾いていた。竈にくべると、火が勢いを取り戻して厨房を暖めた。
誰かが、見ていてくれた。
それだけのことなのに、指先がまだ少し熱い。——竈の火のせいだ。たぶん。
◇
翌朝。
食堂へ向かう廊下で、副官のセオとすれ違った。セオは何か言いかけて、口を開いた。
「メルル殿、昨夜の薪は——」
その瞬間、セオの背後から鋭い視線が飛んだ。
将軍閣下が廊下の奥に立っていた。無表情。いつも通りの無表情——のはずなのに、目だけがセオを射抜いている。
セオの口がぴたりと閉じた。
「……いえ、何でもないです。おはようございます」
「おはようございます?」
不自然だった。明らかに不自然だったが、セオは不自然なまま笑顔を貼り付けて足早に去り、将軍は何事もなかったように執務室へ消えた。
(……何だったの、今の)
分からない。分からないので、考えるのをやめた。朝の仕込みが待っている。
◇
一週間後。
マルクスの前に、二つのソーセージを並べた。
「左が従来品です。右がハーブ入り。同じ日に同じ条件で作り、同じ場所に保管しました」
マルクスが従来品を手に取り、匂いを嗅ぎ、切断面を確認した。表面に僅かな変色がある。次にハーブ入り。こちらは切断面の色が鮮やかなまま残っていた。
「……倍は持つな」
「はい。さらに、この二週間で試作した保存食全体の廃棄量を出しました」
帳簿を差し出す。砦に来てから毎日つけている食品管理記録だ。
「冬場の食品廃棄が、推定で半分以下になります」
マルクスが帳簿のページをめくる手が止まった。数字を三度読み直し、顔を上げた。
「——こいつは、大したもんだ」
初めてだった。この人の口から、認める言葉を聞いたのは。
「ありがとうございます」
「礼はいい。……次の納品までに、この保存法で干し肉をどれだけ確保できる」
もう次の話をしている。実利の人だ。好きなタイプの大人だった。
◇
夜。部屋に戻り、事務仕事に取りかかった。
砦の文書棚から借り出した兵糧供給の契約書の写し。子爵家——私の実家と北方軍の間で結ばれた契約だ。厨房管理を引き受ける以上、納品の中身を把握しておく必要がある。
ページをめくり、品質基準の条項で手が止まった。
『品質基準はトルーデ家の技術に準ずる』
……トルーデ家の技術。
つまり、私が前世の知識を使って組み立てた保存技術を基準にしている。
(この条文がある限り、私が作った手順でなければ品質基準を満たせない、ということ?)
いや、考えすぎだ。手順書は実家に残してきた。あれ通りに作れば、誰にでもできるはず。
——はず。
二日前に見た、実家からの納品の木箱を思い出す。白い粉を吹いた干し肉。色の変わった乾燥野菜。あれは、手順通りに作られたものではなかった。
(……大丈夫よ。慣れの問題だわ。きっと)
契約書を閉じた。今の私にできることは、この砦の食を守ること。実家のことは、実家が何とかする。
そう自分に言い聞かせて、灯りを消した。
◇
トルーデ子爵領。子爵邸の書斎。
ゲオルクは北方軍から届いた書簡を読み、指で額を押さえた。
兵糧の品質クレーム。納品された干し肉の保存状態が基準を下回っている、との指摘だった。
「……あの子がいないと、保存の手順が分からんのか」
次女のメルルが砦に発って以来、領内の食品加工場が混乱していることは把握していた。手順書は残されている。だが、書いてある通りにやっても、同じものができないと現場が言う。温度管理の感覚、塩の加減、乾燥の見極め——文字にならない部分が、あの子の手にしかなかったらしい。
だが。
「まあ、何とかなるだろう」
ゲオルクは書簡を引き出しにしまった。机の上には、長女ロゼリアの婚姻準備の書類が山と積まれている。侯爵家との縁組。子爵家の将来を決める大仕事だ。
次女の保存食の問題は、現場の者が慣れれば解決する。——そう判断して、ゲオルクはロゼリアの婚姻支度金の計算に戻った。
書斎の窓の外では、秋の風が枯葉を巻き上げていた。




