表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
身代わり花嫁の契約期間は三年です  作者: 九葉(くずは)
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/20

第20話 食卓と、一生の言葉

鍋が十、煮立っている。


湯気が天井まで立ち上り、厨房の石壁が白く霞む。焼きたてのパンの匂い、ローズマリーの青い香り、蜂蜜の甘さ。全部が混ざり合って、厨房ごと温かい。


「メルル殿、シチューの味見お願いします」


「うん。——もう少しだけ塩を。ほんの一つまみ」


「了解です」


厨房班の十人が、それぞれの持ち場で動いている。グレーテが大鍋の前に立ち、私が全体を見渡す。いつもの三倍の量。パンも三倍。付け合わせの発酵野菜も三倍。


ブレンナーから取り寄せた蜂蜜で焼き菓子を作った。北方の砦で甘い菓子が出るのは、年に数回あるかないかだ。


「……あんた、張り切りすぎよ」


グレーテが鍋越しにこちらを見た。


「お祝いですから」


「顔が赤いわよ。熱でもあるの」


「竈の火のせいです」


嘘だ。竈の火のせいではない。昨夜からずっと、頬が熱い。


(「明日、言いたいことがある」)


あの言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。一晩中回っていた。仕込みに集中しようとしても、根菜を刻む手が止まる。匙で味見をしても、味が分からない。


(——落ち着きなさい、私。祝宴の仕込みが先よ)


鍋の蓋を開けた。湯気が顔にかかる。


よし。味は整っている。あとは配膳だけだ。



食堂。


長机が端から端まで並び、椅子が二百以上。窓から差し込む光が、いつもより明るい。冬の終わりの日差しだ。


兵士たちがぞろぞろと入ってくる。いつもの昼食の時間より少し早い。何か特別なことがあると、砦の人間は嗅覚が鋭くなる。食堂の匂いでもう気づいている顔がいくつもあった。


マルクスが食堂の正面に立った。手に、革張りの書状を一通。


「静粛に」


食堂が静まった。マルクスの声は大きくないが、この人が「静粛に」と言えば二千人が黙る。二十年の信頼の重みだ。


「王太子リヒャルト殿下より、北方辺境伯領に対し、以下の通達が発せられた」


革張りの書状を開く。


「『北方辺境伯領に対し、食糧自給特区の認定を行う。当該特区の運営責任者として、北方食糧管理長官にメルル・フォン・ノルトハイムを任命する』」


一拍の沈黙。


それから——歓声が、食堂を揺らした。


「メルル殿!」「長官だって!」「やったぞ!」


拳を突き上げる者、テーブルを叩く者、隣の肩を掴んで揺さぶる者。二百人の声が石壁に反響して、耳が痛いほどだ。


セオが泣いていた。


また泣いている。最前列で、両手で顔を覆って、肩を震わせている。


「セオ副官、また泣いてるんですか」


「うるさい。感動してるんだ。——二回目だぞ。二回目」


泣きながら笑っている。この人はいつもそうだ。


セオが涙を拭いながら、声を張った。


「あとメルル殿、一つだけ知っておいてください。この特区認定、降って湧いたわけじゃないですからね」


「……え?」


「団長が殿下への報告書に、全部書いてたんですよ。メルル殿の功績。保存食の改良データ、交易網の拡大記録、食品廃棄率の改善、脱走兵ゼロの因果分析——毎月、詳細な報告を。赴任した月からずっと」


赴任した月から。


(——あの人が、毎月?)


アルヴィンを見た。食堂の一番奥の席。こちらを見ていない。皿のシチューを黙々と食べている。耳が赤い。


「団長、聞こえてますか」


「……黙って食え、セオ」


食堂に笑い声が広がった。


「皆さん」


声を上げた。食堂が少しだけ静まる。


「皆さんのおかげです。——ありがとうございます」


頭を下げた。深く。


(これは本当だ。一人じゃ、ここまで来られなかった)


顔を上げた時、食堂の奥に——ロゼリアがいた。


グレーテの隣に座っている。砦の簡素な服を着て、髪を一つに束ねて。——厨房の手伝いをした後のままだ。今朝、皿洗いを買って出たのだ。


ロゼリアと目が合った。


姉が、小さく手を振った。


私も手を振り返した。


それだけで——十分だった。姉妹が、初めて対等に、同じ場所で笑っている。それだけで。


配膳が始まった。シチューの大鍋が運ばれ、パンの籠が回り、発酵野菜の皿が並ぶ。蜂蜜の焼き菓子が出た瞬間、食堂の喧騒がさらに一段上がった。


「甘い! 甘いぞ!」


「メルル殿、これ毎日出してくれ!」


「予算の問題で無理です!」


笑い声。温かい声。この砦の、いつもの——でも、特別な食卓。



宴が落ち着いた頃、兵士たちは三々五々と食堂を出ていった。グレーテが厨房班を指揮して片づけを始める。ロゼリアも皿を運んでいる。


「あとは私たちがやるから、行きなさい」


グレーテが、私の背中を押した。


「……え?」


「閣下が待ってるわよ。食堂の奥」


振り向いた。


食堂の一番奥の席に、アルヴィンが座っていた。


皿は空だ。シチューも、パンも、焼き菓子も。きれいに平らげている。


——宴の間、ずっとあそこにいたのだ。遠くから見ていた。兵士たちの歓声も、私が頭を下げたのも、ロゼリアと手を振り合ったのも。


全部、見ていた。


「行ってきます」


グレーテに小さく言って、食堂の奥に向かった。


足音が、がらんとした食堂に響く。長机の間を縫って歩く。さっきまで二百人の熱気で溢れていた場所が、今は静かだ。窓から差し込む夕日が、空になった皿を照らしている。


アルヴィンの前に立った。


「閣下」


アルヴィンが立ち上がった。椅子が引かれる音が、やけに大きく聞こえた。


「……メルル」


名前を呼ばれた。


「はい」


「昨日、言いたいことがあると言った」


「はい」


心臓がうるさい。


アルヴィンが一歩、近づいた。目が、真っ直ぐに私を見ている。


「俺は、言葉が下手だ」


知っている。


「ずっと、行動でしか伝えられなかった」


知っている。薪のことも。マントのことも。花のことも。


「薪をくべることしかできなかった。マントを置くことしかできなかった。花を替えることしかできなかった」


——全部、知っている。全部、もう分かっている。


「でも、今日は言う」


アルヴィンの声が震えていた。この人の声が震えるのを聞くのは、閲兵場で「一生だ」と言った時以来、二度目だ。


「お前の作る飯がうまいから、ここにいてほしいんじゃない」


息が詰まった。


「お前の交易が砦を支えているから、ここにいてほしいんじゃない」


目の奥が、熱くなる。


「お前が笑ってるのを見ると、俺の中の、三年間凍ってた場所が溶ける」


声が。


この人の声が、こんなに長く続くのを、初めて聞いた。


「——だから、いてほしい。食卓の向こう側に、ずっと」


涙が落ちた。


堪えようとした。堪えられなかった。閲兵場で泣いた時と同じだ。この人の言葉が、いつも——いつも、私の一番深いところを、根こそぎ引き抜く。


声を殺せなかった。嗚咽が漏れた。がらんとした食堂に反響して、自分の泣き声が返ってくる。


恥ずかしい。恥ずかしいのに、止まらない。


アルヴィンの手が伸びた。


大きな手。硬い指。額に触れた。前髪をそっと払うように。


——額に、唇が触れた。


冷たくて、温かかった。あの冬の夜、結婚式の日に額に落とされたのと同じ。


でも、今度はそこで終わらなかった。


額から離れた唇が、少しだけ下りてきた。


鼻先を掠めて。


唇に。


触れた。


世界が止まった。


食堂の空気が止まった。夕日が止まった。涙が止まった。


柔らかかった。


硬い指で薪をくべ、剣を振り、卵を粉砕する人の唇が、こんなに柔らかいとは思わなかった。


「——やっと言ったーー!」


聖堂の方角から、セオの声が響き渡った。


覗いていた。絶対に覗いていた。


アルヴィンが唇を離した。耳が赤い。顔ごと赤い。鉄壁の無表情が、完全に崩壊していた。


「……セオ」


「今日は逃げません! 三年待ったんですこっちは!」


遠くで、グレーテの「うるさいわよ」という声と、ロゼリアの笑い声が重なった。


私は泣きながら笑った。笑いながら泣いた。どっちが先か分からない。


窓から、風が入ってきた。


冷たくない。


冬の風ではない。——春の風だ。湿り気を含んだ、柔らかい風。


「……閣下」


「アルヴィン」


訂正された。短く。


「……アルヴィン」


「何だ」


「ただいま」


声が震えた。また泣きそうだ。泣いてもいいか。もう、泣いてもいいだろう。


アルヴィンの手が、私の頭に触れた。不器用に。大きくて、硬くて、温かい手。


「——おかえり」


食堂の窓から、春の夕焼けが最後の光を投げていた。


磨き上げた鍋底がそれを受けて、ぴかりと光った。


——ここが、私の食卓だ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
1回目も2回目も告白が素敵です。
温度感がすごく好きでした。静かで優しい文章素敵です。 他の作品も拝見しましたが、言葉をとても丁寧に使っていらっしゃる様に憧れます。素敵な作品ありがとうございました!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ