第20話 食卓と、一生の言葉
鍋が十、煮立っている。
湯気が天井まで立ち上り、厨房の石壁が白く霞む。焼きたてのパンの匂い、ローズマリーの青い香り、蜂蜜の甘さ。全部が混ざり合って、厨房ごと温かい。
「メルル殿、シチューの味見お願いします」
「うん。——もう少しだけ塩を。ほんの一つまみ」
「了解です」
厨房班の十人が、それぞれの持ち場で動いている。グレーテが大鍋の前に立ち、私が全体を見渡す。いつもの三倍の量。パンも三倍。付け合わせの発酵野菜も三倍。
ブレンナーから取り寄せた蜂蜜で焼き菓子を作った。北方の砦で甘い菓子が出るのは、年に数回あるかないかだ。
「……あんた、張り切りすぎよ」
グレーテが鍋越しにこちらを見た。
「お祝いですから」
「顔が赤いわよ。熱でもあるの」
「竈の火のせいです」
嘘だ。竈の火のせいではない。昨夜からずっと、頬が熱い。
(「明日、言いたいことがある」)
あの言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。一晩中回っていた。仕込みに集中しようとしても、根菜を刻む手が止まる。匙で味見をしても、味が分からない。
(——落ち着きなさい、私。祝宴の仕込みが先よ)
鍋の蓋を開けた。湯気が顔にかかる。
よし。味は整っている。あとは配膳だけだ。
◇
食堂。
長机が端から端まで並び、椅子が二百以上。窓から差し込む光が、いつもより明るい。冬の終わりの日差しだ。
兵士たちがぞろぞろと入ってくる。いつもの昼食の時間より少し早い。何か特別なことがあると、砦の人間は嗅覚が鋭くなる。食堂の匂いでもう気づいている顔がいくつもあった。
マルクスが食堂の正面に立った。手に、革張りの書状を一通。
「静粛に」
食堂が静まった。マルクスの声は大きくないが、この人が「静粛に」と言えば二千人が黙る。二十年の信頼の重みだ。
「王太子リヒャルト殿下より、北方辺境伯領に対し、以下の通達が発せられた」
革張りの書状を開く。
「『北方辺境伯領に対し、食糧自給特区の認定を行う。当該特区の運営責任者として、北方食糧管理長官にメルル・フォン・ノルトハイムを任命する』」
一拍の沈黙。
それから——歓声が、食堂を揺らした。
「メルル殿!」「長官だって!」「やったぞ!」
拳を突き上げる者、テーブルを叩く者、隣の肩を掴んで揺さぶる者。二百人の声が石壁に反響して、耳が痛いほどだ。
セオが泣いていた。
また泣いている。最前列で、両手で顔を覆って、肩を震わせている。
「セオ副官、また泣いてるんですか」
「うるさい。感動してるんだ。——二回目だぞ。二回目」
泣きながら笑っている。この人はいつもそうだ。
セオが涙を拭いながら、声を張った。
「あとメルル殿、一つだけ知っておいてください。この特区認定、降って湧いたわけじゃないですからね」
「……え?」
「団長が殿下への報告書に、全部書いてたんですよ。メルル殿の功績。保存食の改良データ、交易網の拡大記録、食品廃棄率の改善、脱走兵ゼロの因果分析——毎月、詳細な報告を。赴任した月からずっと」
赴任した月から。
(——あの人が、毎月?)
アルヴィンを見た。食堂の一番奥の席。こちらを見ていない。皿のシチューを黙々と食べている。耳が赤い。
「団長、聞こえてますか」
「……黙って食え、セオ」
食堂に笑い声が広がった。
「皆さん」
声を上げた。食堂が少しだけ静まる。
「皆さんのおかげです。——ありがとうございます」
頭を下げた。深く。
(これは本当だ。一人じゃ、ここまで来られなかった)
顔を上げた時、食堂の奥に——ロゼリアがいた。
グレーテの隣に座っている。砦の簡素な服を着て、髪を一つに束ねて。——厨房の手伝いをした後のままだ。今朝、皿洗いを買って出たのだ。
ロゼリアと目が合った。
姉が、小さく手を振った。
私も手を振り返した。
それだけで——十分だった。姉妹が、初めて対等に、同じ場所で笑っている。それだけで。
配膳が始まった。シチューの大鍋が運ばれ、パンの籠が回り、発酵野菜の皿が並ぶ。蜂蜜の焼き菓子が出た瞬間、食堂の喧騒がさらに一段上がった。
「甘い! 甘いぞ!」
「メルル殿、これ毎日出してくれ!」
「予算の問題で無理です!」
笑い声。温かい声。この砦の、いつもの——でも、特別な食卓。
◇
宴が落ち着いた頃、兵士たちは三々五々と食堂を出ていった。グレーテが厨房班を指揮して片づけを始める。ロゼリアも皿を運んでいる。
「あとは私たちがやるから、行きなさい」
グレーテが、私の背中を押した。
「……え?」
「閣下が待ってるわよ。食堂の奥」
振り向いた。
食堂の一番奥の席に、アルヴィンが座っていた。
皿は空だ。シチューも、パンも、焼き菓子も。きれいに平らげている。
——宴の間、ずっとあそこにいたのだ。遠くから見ていた。兵士たちの歓声も、私が頭を下げたのも、ロゼリアと手を振り合ったのも。
全部、見ていた。
「行ってきます」
グレーテに小さく言って、食堂の奥に向かった。
足音が、がらんとした食堂に響く。長机の間を縫って歩く。さっきまで二百人の熱気で溢れていた場所が、今は静かだ。窓から差し込む夕日が、空になった皿を照らしている。
アルヴィンの前に立った。
「閣下」
アルヴィンが立ち上がった。椅子が引かれる音が、やけに大きく聞こえた。
「……メルル」
名前を呼ばれた。
「はい」
「昨日、言いたいことがあると言った」
「はい」
心臓がうるさい。
アルヴィンが一歩、近づいた。目が、真っ直ぐに私を見ている。
「俺は、言葉が下手だ」
知っている。
「ずっと、行動でしか伝えられなかった」
知っている。薪のことも。マントのことも。花のことも。
「薪をくべることしかできなかった。マントを置くことしかできなかった。花を替えることしかできなかった」
——全部、知っている。全部、もう分かっている。
「でも、今日は言う」
アルヴィンの声が震えていた。この人の声が震えるのを聞くのは、閲兵場で「一生だ」と言った時以来、二度目だ。
「お前の作る飯がうまいから、ここにいてほしいんじゃない」
息が詰まった。
「お前の交易が砦を支えているから、ここにいてほしいんじゃない」
目の奥が、熱くなる。
「お前が笑ってるのを見ると、俺の中の、三年間凍ってた場所が溶ける」
声が。
この人の声が、こんなに長く続くのを、初めて聞いた。
「——だから、いてほしい。食卓の向こう側に、ずっと」
涙が落ちた。
堪えようとした。堪えられなかった。閲兵場で泣いた時と同じだ。この人の言葉が、いつも——いつも、私の一番深いところを、根こそぎ引き抜く。
声を殺せなかった。嗚咽が漏れた。がらんとした食堂に反響して、自分の泣き声が返ってくる。
恥ずかしい。恥ずかしいのに、止まらない。
アルヴィンの手が伸びた。
大きな手。硬い指。額に触れた。前髪をそっと払うように。
——額に、唇が触れた。
冷たくて、温かかった。あの冬の夜、結婚式の日に額に落とされたのと同じ。
でも、今度はそこで終わらなかった。
額から離れた唇が、少しだけ下りてきた。
鼻先を掠めて。
唇に。
触れた。
世界が止まった。
食堂の空気が止まった。夕日が止まった。涙が止まった。
柔らかかった。
硬い指で薪をくべ、剣を振り、卵を粉砕する人の唇が、こんなに柔らかいとは思わなかった。
「——やっと言ったーー!」
聖堂の方角から、セオの声が響き渡った。
覗いていた。絶対に覗いていた。
アルヴィンが唇を離した。耳が赤い。顔ごと赤い。鉄壁の無表情が、完全に崩壊していた。
「……セオ」
「今日は逃げません! 三年待ったんですこっちは!」
遠くで、グレーテの「うるさいわよ」という声と、ロゼリアの笑い声が重なった。
私は泣きながら笑った。笑いながら泣いた。どっちが先か分からない。
窓から、風が入ってきた。
冷たくない。
冬の風ではない。——春の風だ。湿り気を含んだ、柔らかい風。
「……閣下」
「アルヴィン」
訂正された。短く。
「……アルヴィン」
「何だ」
「ただいま」
声が震えた。また泣きそうだ。泣いてもいいか。もう、泣いてもいいだろう。
アルヴィンの手が、私の頭に触れた。不器用に。大きくて、硬くて、温かい手。
「——おかえり」
食堂の窓から、春の夕焼けが最後の光を投げていた。
磨き上げた鍋底がそれを受けて、ぴかりと光った。
——ここが、私の食卓だ。
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