第2話 前世は料理人、今世はお飾りの花嫁
三日かけて磨き上げた鍋底が、朝日を反射してぴかりと光った。
「——よし」
我ながら、いい仕事をした。焦げの三層構造を金属のヘラで削り、砂で磨き、湯で煮出し、もう一度磨く。前世の調理場研修で叩き込まれた手順だ。三日間、爪の中まで黒くなった。背中が痛い。でも、この鍋はもう使える。
「……本気だったのね、あんた」
振り向くと、腕組みしたグレーテが厨房の入口に立っていた。到着した日に顔を合わせて以来、毎朝こうして覗きに来る。手は出さない。口は出す。
「お嬢様が厨房仕事? 三日で音を上げると思ってたわ」
「大掃除なら得意なんです」
「掃除じゃなくて、料理ができるのかって聞いてるの」
鋭い目だった。四十年近く砦の食事を支えてきた人間の目。甘い言葉で誤魔化せる相手ではない。
だから、誤魔化さなかった。
「できます。——今日、証明させてください」
◇
砦の食料庫を見たのは初日のことだったが、改めて確認すると、状況は記憶より悪かった。
塩漬け肉。干し肉。硬いパン。穀物の粉。乾燥豆。——以上。
野菜はほぼない。調味料は塩のみ。油脂は獣脂の塊がひとつ。
(前世の社員食堂だって、もう少しましだったわよ)
ただ。
竈の通気を直したから火力は出る。水は井戸から新鮮なものが汲める。そして——食料庫の奥に、忘れ去られたように乾燥ハーブの束がいくつか転がっていた。埃を払って嗅いでみる。タイム。ローズマリー。少しだけ、セージ。
使える。
「グレーテさん、この鍋、お借りします」
「……好きにしなさい」
その声に、ほんの少しだけ興味の色が混じった気がした。
◇
昼。
食堂に湯気が立ち込めた。
塩漬け肉を細かく刻み、獣脂で炒め、乾燥豆と一緒に煮込む。途中で灰汁を丁寧にすくい、ローズマリーを一枝。仕上げに塩を足すのではなく、肉の塩分を煮出して全体になじませる。——前世で「安い食材で最大の味を出す技術」を死ぬほど鍛えた私の、十八番。
硬いパンは薄く切って竈の火で炙った。焼きたてとは言えないが、表面がかりっとして、湯気の立つシチューに浸せば——
「な……何だこれ」
最初の一口を食べた兵士が、匙を持ったまま固まった。
「うまい。——うまいぞ、これ」
隣の兵士が皿を覗き込む。その隣が立ち上がる。三人目が声を上げた。
「おい、こんな飯食ったことないぞ!」
食堂がざわめいた。二百人分のシチューは、あっという間に鍋の底が見えた。
グレーテが、空になった大鍋の前に立って、しばらく何も言わなかった。
「……あんた」
「はい」
「明日も、作れる?」
「もちろん」
グレーテの口元が、初めてわずかにゆるんだ。
(——よかった)
この人に認めてもらえなかったら、この厨房ではやっていけない。三日間の大掃除は、半分はグレーテへの名刺みたいなものだった。
◇
将軍閣下の食事は、執務室に運ばれる。
私は直接運んでいない。配膳の兵士に託した。だから食べている姿は見ていないし、反応も知らない。
知らないのだけれど。
夕方、食堂で食器を片づけていたとき、配膳係の兵士が運んできた盆の上を見て、手が止まった。
皿が、空だった。
シチューの皿も、パンの皿も、きれいに空になっている。こびりついた汁の跡すらない。
「将軍閣下、完食されてましたよ」
配膳の兵士がそう言って、何でもないことのように去っていった。
(……ふうん)
それだけ。閣下が食べたか食べなかったかは、私にとって重要ではない。重要なのは二百人の兵士が温かい食事を摂れたかどうかだ。将軍が食事に興味のない人だということは、初対面であの無表情を見た時から分かっている。完食は、単に腹が減っていただけだろう。
——そう思った。
思ったのだけれど。
廊下の角を曲がったところで、副官のセオが別の兵士と話しているのが聞こえた。
「いや、だから——団長が完食したの、俺初めて見たんだって」
足を止めた。
「マジで? あの将軍が?」
「マジだって。皿まで拭ったみたいに空だった。俺、三年仕えてるけど初めてだぞ」
…………。
聞かなかったことにした。盗み聞きは趣味ではない。
(たまたまよ。たまたま。お腹が空いてただけ)
でも、少しだけ。
ほんの少しだけ、明日の仕込みに力が入った。
◇
夜。
食堂の片づけを終え、明日の仕込みの下準備をしていたときのことだった。
食料庫の奥から、実家——トルーデ子爵領から納品された保存食の木箱を引っ張り出した。兵糧供給契約に基づく定期納品だ。中身は干し肉と乾燥野菜。
蓋を開けて、眉をひそめた。
干し肉の表面に白い粉が吹いている。乾燥が甘い証拠だ。塩分濃度も高すぎる。こんな保存のしかたをしたら、半月で味が落ちて一月で食べられなくなる。
乾燥野菜のほうは、もっとひどかった。色が変わっている。乾燥工程の温度管理ができていない。
(——私が教えた手順と、全然違う)
実家にいた頃、保存食の製法は全て私が組み立てた。塩の分量、乾燥の時間、燻製の温度。前世の食品加工の知識を、この世界の食材に合わせて一つずつ調整した。
それを、再現できていない。
(まあ……手順書は渡してあるし、慣れれば誰かが引き継げるはず。配送で傷んだだけかもしれないし)
木箱の蓋を閉じた。
たぶん、心配しすぎだ。父の領地にはちゃんとした使用人がいる。私がいなくても回るだろう。姉上が嫁ぐ前に、態勢は整えたはずだ。
——はず。
胸の奥で、小さな引っかかりがちりっと鳴った。
でも今は、それより明日の献立だ。兵士たちが喜んでくれた顔が、まだ目の裏に焼きついている。あの笑顔を、明日も作りたい。
仕込み用の鍋に水を張りながら、ふと考えた。
将軍閣下の分だけ、もう少し塩を控えてみようか。
北方の人間は塩辛い味に慣れていると聞く。でもあの人は——何となく、強い味より素材の風味を残したほうが好みな気がする。
(根拠はない。ただの勘。料理人のリサーチってやつよ)
さりげなく。気づかれない程度に。閣下の皿だけ、ハーブを少し多めに、塩を少し少なめに。
誰かの好みに合わせて味を変える。それは料理人として当然のことだ。——当然のことだから、胸が跳ねる理由もない。
鍋を火にかけた。
竈の炎が、磨き上げた鍋底をあたたかく照らしていた。




