第1話 身代わり花嫁の契約期間は三年です
「身代わり」という言葉を初めて聞いたのは、出発の三日前だった。
父は書斎の机から目を上げもしなかった。姉のロゼリアは窓際に立って、申し訳なさそうに微笑んでいた。——あの笑顔、社交界では「北の白百合」と呼ばれているらしい。
「お前でいい」
父が言った。たった五文字。私の人生の行き先を決めるのに、父が使った言葉は、たったそれだけだった。
◇
——で。
ここが、北方辺境伯の砦。
馬車を降りた瞬間、吹きつけた風が顔面を殴った。比喩ではなく、物理で殴られた。息を吸ったら肺が凍るかと思った。
(前世で冷え性に苦しんだ三十二年間、まさかこんな形で伏線回収されるとは思わなかったわよ)
——いや、伏線も何もない。ただ寒い。圧倒的に寒い。
出迎えの兵士が二人、門の前に立っていた。鎧の上から分厚い外套を羽織り、鼻の頭を真っ赤にしている。私の姿を見て、一瞬だけ目を丸くした。
そりゃそうだ。辺境伯閣下に嫁いでくるのは子爵家の令嬢——と聞いていたはずが、降りてきたのは旅塵にまみれた小柄な娘一人。侍女も護衛騎士もいない。
(姉上の代わりですので。荷物も扱いも、お手軽仕様です)
兵士の一人が慌てて敬礼し、もう一人が「こちらへ」と先導してくれた。石造りの砦は、外観だけなら堅牢で立派だ。ただし装飾は皆無。花の一輪も飾られていない。
まあ、そうだろう。ここは戦場に最も近い砦なのだから。
◇
将軍執務室。
扉が開いた瞬間に感じたのは、暖炉の熱ではなく、空気の冷たさだった。
暖炉は燃えている。それなのに寒い。原因はすぐに分かった。——部屋の奥、執務机の向こうに座っている男だ。
銀灰色の髪。切れ長の目。軍服の上に無造作に羽織った外套の肩幅が、やけに広い。表情は、ない。あるのかもしれないけれど、読み取れない。氷の彫像に温度を探すようなものだ。
「お前が——身代わりか」
低い声だった。感情の色がまるでない。確認しているだけ。書類の記載と現物を照合するように、私を見ている。
「はい。姉の代わりでございます、閣下」
頭を下げた。背筋は伸ばしたまま。
(泣くな。怯えるな。この人に同情される必要はない)
「契約書は読んだか」
「馬車の中で三度、読みました」
将軍の隣に立っていた青年——副官だろう、明るい茶髪に人懐こそうな目をしている——が、かすかに眉を上げた。三度、が意外だったらしい。
「であれば話は早い」
将軍が机の上の書類を押しやった。
「白い結婚だ。夫婦の実態は求めない。三年後、婚姻は無効にする。手切れ金は金貨三百枚。——異存は」
ない。あるわけがない。
身代わりの花嫁に、それ以上の何を期待しろというのか。
でも。
「一つだけ、確認させてください」
将軍の目が、わずかに動いた。
「三年後の婚姻無効は、私からも申請できますか」
沈黙が落ちた。副官の青年が目を瞬かせている。将軍は——初めて、ほんの一瞬だけ、表情を変えた気がした。何の感情かは分からない。驚き、かもしれない。
「……できる」
「では、承知いたしました」
私は頭を下げた。
「三年で自由になれるなら、悪くないお話です」
今度こそ、将軍の目が見開かれた。
ほんの一拍。すぐに元の無表情に戻ったけれど、あの一瞬、この人は確かに驚いていた。——泣くか、縋るか、怒るか。そのどれかを予想していたのだろう。
残念ながら、私は泣かない。前世でも今世でも、泣いて状況が変わったことは一度もなかった。
◇
案内された部屋は、質素だが清潔だった。
石壁に小さな窓。木の寝台に毛布が二枚。暖炉の火は入っていない。飾り気のない部屋だ。実家の自室より狭い。
(でも、ここは私だけの部屋だ)
実家では、姉の部屋が南向きの日当たりのいい広間で、私の部屋は北側の物置を改装したものだった。別に恨んではいない。恨んだところで部屋は動かない。
寝台の上に、畳まれた防寒具一式が置かれていた。
手袋、耳当て、裏地に毛皮のついた厚手の外套。全て新品。しかもサイズが——合っている。
(事前に体格を伝えてあったのかしら。事務処理が丁寧な砦ね)
私は外套を羽織ってみた。温かい。肩にちょうどいい。
廊下を通りかかった副官の青年が、部屋の中を一瞬覗いて、何か言いかけた。
「——……将軍が自分で選んだんですよ、それ」
小さな声だった。独り言のような。でも私が振り向いた時にはもう、彼は足早に廊下を去っていた。
……何だろう。聞き間違いかもしれない。
防寒具をまとめ直し、私は部屋を出た。砦の中を見ておきたかった。三年間住む場所だ。水場、浴室、洗濯場、倉庫——生活に必要な設備を確認していく。
そして、辿り着いた。
砦の奥。石の壁に囲まれた薄暗い部屋。竈が二つ。鍋が三つ。——全て、錆びている。
調理台には油がこびりつき、床の隅に干からびた野菜の切れ端が転がっていた。棚に並ぶ瓶の中身は、塩と、正体不明の何か。匂いを嗅いで顔をしかめた。発酵しているが、狙ってやったものではない。ただ腐りかけているだけだ。
ここが、厨房。
北方守備軍二百名の食を支える、この砦の厨房。
「——ひどい」
声が出た。料理人としての、前世から引き継いだ本能が叫んでいた。
鍋の底をひっくり返した。焦げが三層になっている。竈の火口を覗いた。灰が詰まって通気が死んでいる。調理台の木は表面が腐食しかけていたが、削れば使える。鍋も、磨けばまだいける。
「——よし」
袖をまくった。
三年。自分のために使える三年。泣いている暇があったら、まず——この鍋を磨こう。
視界の端で、厨房の入り口に人影が見えた。腕組みをした中年の女性が、値踏みするような目でこちらを見ている。
「あんた、誰」
「今日からここに住むことになりました、メルルです。——この厨房、使っていいですか?」
女性の眉が片方だけ上がった。
答えを聞く前に、私はもう竈の灰を掻き出し始めていた。




