第6章 「鉛筆」
朝の光が、店の奥までゆっくりと満ちていく。
窓辺のグラスには、昨夜の雨粒がまだ残っていて、一条の光を受けて微かにきらめいた。
それは、記憶の底がもう一度、光を思い出しているようだった。
カウンターの上に、白いキャンバスが一枚。
あの青年が「これで終わりです」と言って置いていったものだ。
けれど、マスターは微笑んで言った。
「描くというのは、終わらせることじゃありません。
続けていくことですよ。」
私は胸に抱えていたスケッチブックを開いた。
鉛筆の線は途中のまま、半分の輪郭で止まっている。
どんなに描いても届かなかった“描かれる自分”。
けれど、今日は不思議と、その未完のかたちが“これから”に見えた。
マスターがコーヒーを淹れている。
湯が粉を沈め、蒸気が光の中を漂う。
その香りと音が、まるで絵筆でスケッチブックをなぞる時の手の感覚のように、店全体を包み込んでいた。
「せっかくです。続きを描いてみませんか。」
背中越しの声が、半分の絵に語りかけるように響いた。
私は鉛筆を取った。
その瞬間、静かな波紋が胸の奥で広がる。
線を引くたびに、雨の匂い、古本の紙の手ざわり、青年のまなざし――
忘れていたものたちが、ひとつの光に溶けていく。
──描くというのは、相手の中に自分を置いていくこと。
どこか遠くで、その声が聞こえた気がした。
私は筆を止めず、ただ呼吸するように描き続けた。
やがて、マスターの姿が光の中に滲みはじめる。
一瞬、ほんの一瞬の短い時間。
その向こうに、白いスカーフを纏った人影が見えた。
やわらかな笑みとともに、静かに口が動く。
──「光が来る場所を待つ時間が、一番絵に近い。」
声が消えても、店には温もりだけが残った。
最後の線を描き終えたとき、スケッチブックに広がっていたのは──
誰の顔でもなく、ただ“光そのもの”だった。
カーテンが揺れ、風が湯気を攫っていく。
マスターが絵を見つめ、静かに言った。
「……きっと、彼女も喜んでいるでしょう。
この絵は、あなたの中で生きていきます。」
私は微笑み、スケッチブックを閉じた。
その瞬間、世界の音がひとつ戻ってきた。
外に出ると、風が頬を撫でた。
石畳の上を、新しい陽がすべっていく。
振り返ると、喫茶店の窓に朝の光が反射していた。
あの絵の光と、同じ色だった。
胸の奥で、ひとつの言葉が静かに響く。
──描くことは、生きること。
一歩、また一歩。
濡れた石を踏むたびに、小さな音が響いた。
それはまるで、生まれたばかりの赤子が初めての呼吸をする瞬間のようだった。
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