第4章 若い男 ― Canvas Without a Name
雨上がりの光というのは、どうしてあんなにも時間を止めるのだろう。
雲が裂けて差し込む一筋の白い光が、濡れた廊下を斜めに横切る。
その上を歩くと、靴の底がわずかに吸い付くような音を立てた。
古い美術学校の旧校舎。
壁のペンキは剥がれ、廊下のガラスには長い年月の手跡が残っていた。
絵具の粉と、誰かが忘れていった油彩の匂いが混じり合い、
遠い日々の呼吸のように、今もここに漂っている。
「……どうぞ」
古本屋に現れた男に案内され、部屋に入った。
そういえば、まだ男の顔を見ていなかったな。
そう思って彼の顔を見ると、まだ二十代の半ばほどの青年だった。
「なんだ、私と同じくらいじゃないか…」
ふと思ったことをぼそっと呟いたら、「何か言いましたか?」と言われたので、「いいえ、独り言です。」と言った。
「その絵を、見せてもらってもいいですか?」
私が声をかけると、彼は一度だけため息をつき、
覆っていた布を静かに外した。
「……。」
そこに現れたのは、あの“半分の肖像”と、ほとんど同じ顔だった。
古本屋でもらった切れ端と見比べる。
同じか?いや、“同じ”というより、“反転”している。
右の顔が、左になっていた。
まるで鏡に映したように。
「これは、鏡に映ったように描かれてたんです」
彼はそう言って、体の前で握っていた拳を少し強く握った。
「師匠が……あの喫茶店のマスターの奥さんが、描いていた。
僕はその人のもとで絵を描いていました」
雨の匂いが窓から流れ込み、
アトリエの中で、記憶の湿り気と混ざる。
なんともいえない、孤独のような語り口。でも雨の湿気でジトッとベタつく感覚が誰かを探しているような、そんな雰囲気を生み出していた。
「最初に見たとき、僕は思ったんです。
――片方は“描く人”、もう片方は“描かれる人”なんだって。
でも、そう思って絵を描いているうちに、僕もこの絵の人はどっちなのか分からなくなった」
彼は絵の端を指でなぞった。
筆跡が微かに盛り上がっている。
光がそこを撫でるたびに、影がわずかに動いた。
「師匠は言っていました。
“描くっていうのは、相手の中に自分を置いてくること”だって。
だから、これは……誰の顔なのか、僕にももう分からないんです」
私は何も言えずに、その絵を見つめていた。
筆の軌跡の奥に、何層もの感情が塗り重ねられているのが見えた。
静かな絶望、懐かしさ、赦し。
それらが、ひとつの顔の中に溶けていた。
「裏を、見てみますか?」
青年がそう言い、キャンバスをゆっくり傾けた。
布の裏には、二つのサインが重なっていた。
ひとつは、誰かの筆跡。
もうひとつは、滲んだインクで書かれた――“E・N”。
「あなたの……?」
青年は首を横に振った。
「分かりません。もしかしたら、僕が描いたのかもしれないし、
師匠が僕の中に残した何かかもしれない」
その言葉が落ちた瞬間、雲の切れ間から光が射した。
雨の粒が窓辺で一斉に輝き、
キャンバスの表面に、淡い反射を作る。
筆跡の下から、もうひとつの顔が浮かび上がった気がした。
左右どちらにも属さない、名のない輪郭。
“描く人”でも、“描かれる人”でもない——
ただそこに、存在していたはずの“間”のような顔。
「……誰が誰を描いていたのか、もう誰にも分からない」
気づいたら、そう呟いていた。
青年は筆を置き、柔らかく笑った。
「それでいいと思うんです。
名前のないまま残る絵が、一番正直だから」
彼の背後で、絵具の匂いがゆっくりと薄れていく。
私はその香りを吸い込みながら、
あの喫茶店の鈴の音を、遠くに思い出していた。
きっとこの絵も、同じ場所を目指している。
欠けたままのままで、誰かの記憶を待っている。
——半分の肖像は、まだ終わっていなかった。
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