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半分の肖像  作者: しとな
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第3章 糸玉

喫茶店の片隅で、古びた新聞を読む男が語った「消えた絵」の話。

それは、戦火の中で失われた記憶と、描かれなかった“左側”の物語だった。

私はその言葉に導かれるように、○○町の古本屋へ向かう決意をした。


古本屋は、喫茶店を出てすぐの坂を少し登った先にあった。

午後の光が傾き、石畳の隙間から伸びた影が、ゆっくりと扉の縁に触れていた。

軒先のブリキの看板は陽に褪せ、硝子越しの背表紙たちはどれも琥珀色に沈んでいる。


扉を押すと、鈴の音がひとつ転がり、すぐに古紙の香りが胸の奥まで満ちた。

その懐かしさは、まるで誰かの記憶を吸いこんだ空気のようだった。


カウンターの奥では、一人の女性が灰色の糸を指に絡ませていた。

糸玉の向こうで、午後の光が彼女の髪に溶けている。

灰と銀のあいだを揺らぐ髪が、呼吸のたびに光をこぼし、時間そのものが編まれていくようだった。

針をすくう手はしなやかで、誰かの夢を撫でるように静かだった。


「こんにちは。──新聞を読んでいた人に、ここを教えてもらって……」


そう言いかけた瞬間、彼女は顔を上げ、微笑んだ。

「……あの人ね」

針の動きを止めずに言う声には、微かな笑いの温度があった。

「きっと“古本屋に行ってごらん”って言ったでしょう? あの人らしいわ」


私は驚き、頷いた。

彼女はもう、すべてを見通しているようだった。


「昔からそうなのよ。人の話を、まるで自分の夢の続きを紡ぐみたいに話す人だから」

「夢の続きを……?」

「ええ。あの人は“過去”のほうを現実みたいに話すの。だから、いつまで経っても物語の糸に絡められてしまうのね」


彼女は糸を弾いた。ふわりと毛糸が揺れ、店内の光が柔らかく滲んだ。

毛糸の甘い焦げたような匂いが、ふとあの喫茶店を思い出させた。


「戦争の頃の話をしていたんでしょう?」

針を動かしながら、彼女は続けた。

「ここにもひとりいたの。──描くことをやめられなかった人が」


声が少し沈む。

「紙も絵具も手に入らない時代に、古新聞の余白にまで鉛筆で描いていた。人の顔でも、風景でもない。……夢の断片ばかり。」

「夢の断片?」

「ええ。誰かの見た夢を針の端で拾い上げて、それを紙の上に縫いとめようとしていた。

消えかけた記憶を、せめて形に残そうとするように。

でも、戦争が終わっても誰もその絵を見なかった。

──そして、彼は描くことをやめたの」


針の音が止まった。糸が静かに張る。

「最後にこう言ったの。“忘れられるために描いていたんだ”って」


その言葉を聞いた瞬間、糸玉の中の光が一瞬、呼吸をやめたように見えた。

彼女のまなざしは、糸と同じ色をしていた。

長い時間を越えてもなお、細くてしなやかで、でもきれない誰かを慈しむための糸がそこにあった。


彼女はそっと机の引き出しを開け、一枚の紙片を取り出した。

黄ばんだスケッチブックの切れ端。

そこには、煙のような線で描かれた街角があった。

どこにもない風景。霧の中のようにぼんやりと、人影が一つだけ佇んでいる。


「これが、あの人の最後の絵。偶然、私が拾ったの。……でも時々思うの。この人影、誰かを待っているようだって」


私は息をのんだ。

その“誰か”が、いま自分を見つめ返したような錯覚があった。


「どこで拾ったんですか?」

「向かいの坂の下。もう閉まっちゃたのだけれど…美術学校のアトリエ前よ」


窓の外、坂を登ってくる若い男の姿が見えた。

薄いコートの襟を立て、腕に何か丸めた紙を抱えている。


「──ああ、来たわね」

女性は糸をまた指に絡ませながら言った。

「きっと、あなたにも話を聞かせたいのよ。あの“絵描き”の話を」


私はスケッチ片を握りしめ、振り返った。

扉の向こうで、若い男が立っていた。

その瞳は、灰色の糸のように深く、どこかで見たことのある光を宿していた。

この作品は、note<https://note.com/sitona_chemi>、カクヨム<https://kakuyomu.jp/users/shitona>でも連載をしております。詳しくは各投稿サイトにてご確認ください。

※作品によって更新のペースに差があることもございます。

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