第1章 喫茶
右側は仕上げられている。だが──
そこに描かれた顔は、女性でも男性でもない。中性的で、見る角度によって笑っても見え、遠くを見るようにも見える。まるでダヴィンチのモナリザみたいな表現じゃないか。そう思ったけど、よく見ると輪郭は繊細に整えられ、ある時で時が止まったような、その瞬間の表情がそこに閉じ込められているようでもあった。左側は鉛筆の線だけが残り、あたかも何かを言いかけている途中でページをめくられたように、ぽっかりと空白がある。
カウンターの奥に立つ男性が、私に気づいて小さく笑った。白い髭がやわらかく震え、目じりに深い皺が刻まれている。
どうやらその人は、店のマスターのようだ。
「初めてかね?」
「ええ、そうです」——私は声を落とした。言葉が無駄に響かないよう、手のひらを膝の上で重ねる。うっすらとBGMがかかっているが、うっかりすると普通の声量が大声に変わってしまうほど落ち着いた店内だ。
外から来たこともあって、指先が少しだけ冷たかった。
「コーヒーを一つ。お願いします。」
「香りがね、昔と少し違うんだ」と丁寧に抽出したコーヒーを提供しながらマスターは言った。
「豆が、ですか?」
「いや……焙煎してからの時間や、この店に染みついたもののせいかもしれん」
カップの縁から細い湯気が立ちのぼる。湯気自体は瞬く間に消えるけれど、その立ち方が匂いを空気の層ごと持ち上げるように感じられた。新しく挽かれた豆の香ばしい香りと、長年ここに積もったタオルや古書の匂いが混ざり合って、湯気にのってゆっくりと広がる。白い湯気が窓の曇りと溶けあうと、外の冬の光と店内に積もった時間がふっと近づくように見える――まるで過去の断片が一瞬、湯気の中に浮かび上がるかのようだ。
短い沈黙の中、古い掛け時計の針がチク、チクと音を刻んでいた。針の刻みに応じて、空気の密度がほんの少し変わる。時間が香りを変え、香りが記憶を呼び戻す。その循環が、この小さな店には自然な呼吸のように染みついているように思えた。
私は両手でカップを包んだ。温度が冷えた指先を戻してくると同時に、心の中の冷えも少しだけ和らいだ。マスターはゆっくりと立ち上がり、絵の前に歩み寄った。
マスターはカウンター越しに私を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「こうして淹れるたびにね、誰かの顔が浮かぶんだよ。もう会えない誰かの」
彼はそう言ってから、ふと視線を横にそらした。
その目の先には、あの絵があった。
半分だけ色づいたポートレート。光の加減で、右半分がわずかに輝いて見えた。
見つめているうちに、その輪郭が呼吸をしているように感じられる。
仕上げられた部分は確かに美しいのに、左の空白がかえって生々しい。
まるでそこに、まだ描かれきれなかった何かが息づいているようだった。
マスターはしばらく黙っていた。
沈黙が、カウンターに置かれた時計の音と混ざり合っていく。
私は声をかけようとしたが、ためらった。言葉を置くには、この静けさがあまりに繊細だったのだ。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がり、絵の前に歩み寄った。
その背中に、今まさに飲もうと思ったコーヒーの湯気が重なって揺れる。
マスターは絵を見上げてから、ゆっくりと椅子を引いた。
「これはな、妻が長いこと大事にしていたんだ。半分は彼女と一緒にあった。誰かが持っていったのだろうかね。」
そう言いながら、マスターは何かを思い出したようにふっと笑った。
「残り、というのは」——私はそっと訊ねた。
声が小さく、湯気の奥で音がほどける。
マスターは一瞬だけ目を閉じた。
「半分だよ。まるで鏡を割ったみたいになってね」
指先でカップの縁をなぞりながら、彼は言葉を探すように息を吐いた。
「右だけがここに掛かって、左の欠片はもう、どこにもない」
私は絵を見上げた。
右側には、穏やかな表情が丁寧に描かれている。
だが、その穏やかさの中に、わずかな緊張があるようにも見えた。
――何かを待っているような、別れを知っているような。
マスターの声が、静かにその余白を埋めた。
「妻がいなくなる少し前のことだ。朝、陽が差したときには、絵が半分になっていた。」
「まるで夜が夢の続きを持っていったみたいに。元々、半分破かれているのを合わせた作品だったんだがね…左側だけがきれいに消えてた」
彼は微かに笑ったが、その笑いには形がなかった。
「妻はその日、特に驚いた様子もなくてね。『ああ、やっと行ったのね』と、それだけ言った。意味は聞かなかった。聞けなかったんだ。あのときの顔を見たら、何も言えなくて」
ランプの光が揺れ、絵の右半分にだけ温かい色を落とした。
そこに描かれた目元が、わずかに笑ったようにも、涙をこらえたようにも見える。
「長年、見つけてくれる人がいればな、なんて思いながら眺めていたんだがね。その人が君かもしれない」
マスターはそう言って、「冗談だよ」と笑いながらこちらを見た。
その瞳には確かに冗談めいた光があった。けれど、奥底には長い時間を沈めたような静けさがあった。
私は息をのんだまま、何も言えなかった。
絵の空白が、急に生々しく感じられた。
そこに“誰か”がいたような、いまも見ているような——そんな錯覚が、胸の奥を微かに震わせた。
その“誰か”の視線が、ふと私の中にも影を落とした。
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